羽柴軍の動き

さて、既に見たように柴田軍が柳ケ瀬周辺の山地を城砦化したのに気が付いた秀吉は、速攻で決戦の意思を放棄してしまったわけです。

秀吉には十分な時間があり、敵が自ら籠城戦に入ってくれたのなら感謝感激で、わざわざ攻め込む理由は何も無いからでしょう。ただしそのまま山間部に敵を閉じ込める工夫は必要でした。すなわち街道の完全封鎖です。ここで天神山砦は柴田軍の城砦群から近すぎ危険だと判断、これを放棄して約1kmほど南の同木山に新たな砦を築かせ、さらに街道を挟んだ反対側の左禰山(さねやま)にも砦を置きました(天正記)。ちなみに現地では東野山と呼称されてますが、当時の史料ではほぼ全て左禰山という名称になっています。その上で両砦の間に堀と柵からなる封鎖線を構築して街道を完全に遮断、柴田軍が南下できないようにしてしまったのです。

これらの対策後、現地の指揮は弟で副官の秀長に任せ、秀吉は一度、長浜城まで退いてしまいます(先の書状の日付が17日なので、それまでに長浜城に入っていたはず)。もっとも、現存する手紙などを見るとその後も秀吉は現地入りして状況を観察したようですが羽柴軍の本軍は長浜に置いたままでした。

次はこの辺りに至るまでの両軍の展開状況を見て行きましょう。

出典  国土地理院地図のツールにより作成 


同木山と左禰山の間に築かれた堅牢な防衛線、惣構(そうがまえ)、すなわち堀や柵による街道封鎖については「天正記」を始めとする史料には一切、出て来ません。が、秀吉から秀長へ宛てた手紙に記述があり、その存在は間違いないと見ていいです(手紙は長浜城博物館にあるらしいが未見)。ただし、どの位置にこれを築いたのかは記述が無いため、現地の伝承から同木山と左禰山の砦の間だったと判断しました。柴田軍の南側で最も山間部が狭い場所であり、普通に考えればここしか無いからです。さらに同木山の背後の尾根筋を守るために神明山にも砦が造られました。柴田軍が尾根筋に南下して来る気なのに羽柴軍も気が付いたからでしょう。

その上で約4q南の田上山に大規模な砦を築き、ここに現地指揮官である秀長が入りました。同時に蜂須賀、神子田など羽柴家の家臣団、全体の予備軍がその麓の木之本の集落に置かれました。よって両者を合わせて羽柴軍の本陣と見なすのが実態に近いでしょう(天正記)。

そして既に見たように秀吉は3月17日の段階で賤ケ岳の城砦化に取り掛かっています。ここには朝倉義景が築いた砦があったとされ、それを再利用した可能性が高く、戦場全体を監視するためのものだったと思われます。目の前は余呉湖で、街道からも遠いこの場所に砦を置く理由は他に無いからです。

その上で賤ケ岳から北東に向かう尾根筋にも城砦を築かせました。これが後に最初の決戦場となる大岩山と岩崎山の砦です。これらは街道を抑えるには地形的に難しい場所で、普通に考えるとあまり意味がありませぬ。なんでまた…と思うところですが、地元の伝承では大岩山から田上山にかけて、第二の封鎖線があったとされるのです(鉄道を活かした湖北地域振興協議会発行のパンフレットによる)。もしこれが事実なら、これらの砦の存在は必須となり、納得が行くものとなります。

ただし、この点は何の遺構も残っておらず、信頼できる資料にも一切記述が見られません。それでも第二封鎖線の存在を前提にしないと大岩山と岩崎山の砦の意味が無くなってしまい、さらに本陣である田上山と木之本の正面が無防備になってしまいます。そして次回に見るように、ここに封鎖線があったと考えると、この合戦のよく判らぬ展開が、それなりに理路整然と理解できる事になるのです。

よってこの記事では大岩山と田上山の間に第二の封鎖線があった説を取ります。ただし繰り返しますが、遺構も記録も無く、あくまで合戦の展開と砦の配置の合理性からの筆者の推測です。この辺りについては、後ほどまた見て行きましょう。

■柴田軍の対応

このように秀吉は柴田軍の誘いに乗らず、それどころか新たに砦を築いて街道を完全封鎖する戦術に出ます。
この結果、柴田軍は自ら立てこもった柳ケ瀬周辺の山地から身動きが取れなくなりました。マヌケですね。だが、動かなくてはならないのが柴田軍です。同盟者の滝川一益は少数の兵しか持ちませんから、急ぎ救援に向かわないと間に合わなくなります(この段階ではまだ織田信孝は挙兵していない)。

その対策が、別所山砦から尾根筋沿いに山岳路を築き街道を迂回、羽柴軍の封鎖線の南まで突破する、という豪快な作戦でした。この辺りもまた何の記録も無いのであくまで筆者の推測ですが、現地にある砦の立地を見れば一目瞭然かと思われます。実際、別所山から南の尾根筋までの砦は簡易な造りで長期の籠城戦を前提としておらず、北側の柴田軍の城砦とは明らかに構造が異なります。移動のための山岳路の建設と、その防衛のために築かれたと考えていいでしょう。

念のため、ここで再度同じ図を。白の実線で示したのが、秀吉の封鎖工作の背後を目指した砦と尾根伝いの経路です。



地図上では主な砦のみを記載してますが、地元の案内板によると南の権現坂(余呉湖畔に向かう峠)に至るまでの尾根筋に五か所以上の遺構が確認されてるそうで、こちらはこちらでやはり相当な土木工事だったのでした。この別所山砦から最後の茂山砦まで直線距離だと3q程ですが、実際はウネウネと尾根筋を回るため7q近い行程だったと思われます。武装した足軽だと軽く3時間コースでしょう。

ちなみに別所山砦から北の行一山砦までは約1qほどの距離ですが高低差が200m以上、高層ビル並みにあるので移動するだけでかなりの負担だったと思われます。そして一番奥の玄蕃尾城まではさらに4km。これは無茶苦茶な移動距離なので、やはり柳ケ瀬のすぐ南西にある、別所山砦周辺が本陣になっていたと筆者は推測します。

とりあえずこの気の遠くなるような工事は秀吉の築いた街道封鎖線の裏側、神明山の砦から約1qの尾根上に茂山砦を築いた段階で完成となりました。恐らくこれを待って柴田軍は打って出る事にしたはずです。

■決戦前、4月初旬の戦闘

ちなみに旧暦4月20日の決戦に至るまで、すなわち柴田軍がわっせわっせと土木工事に勤しんでいた間、天正記、豊鑑、ともに現地では特に動きが無かったような記述になってますが、実はそうではありませんでした。封鎖線の突破を狙ったと思われる柴田軍の攻撃が4月5日に発生していたのです。

まずは4月4日の日付で、秀吉が家臣の杉原家次に宛てた手紙(大日本史料)の中に柴田軍の動きが述べられています。
それによると木下将藍昌利、木村隼人重茲(しげこれ)、堀尾毛介吉直の三人が陣取る山に柴田軍が登って来たが、既に撤退したようだ、という一文が見えます。攻めて来た、戦った、という表現では無いので、強行偵察程度のものかと思われますが、とにかく柴田側に動きがあったのは確かです。この三人の正確な所在は不明ですが、後で見るように堀秀政の配下にあったようなので、第一封鎖線の周囲でしょう。

さらにその直後、旧暦4月5日に街道封鎖線の東側を守る左禰山砦に対し柴田軍が襲撃を仕掛けて来るのです。
左禰山砦を守っていた堀秀政の報告(大日本史料。秀吉と千福遠江守宛ての二通)によると、卯の刻(午前6時ごろ)から柴田軍による襲撃が始まった、鉄砲隊で迎え撃って数百人に損害を与えて撃退した、午後2時ごろ(未の刻)まで戦闘は続いたと述べられています。

堀によると川沿いに43隊(単位は「備」)、山上に5隊からなる攻撃隊が襲来したとあり、少なくとも数千人規模の襲撃だったと思われます。勝家の出陣を示す金の御幣の馬印が見えたとし、さらに佐久間盛政も出て来たようです。 それでも最終的に柴田軍は撃退されてしまいます。この時期、秀吉の本隊は居ないので数では柴田軍が上回っていたはずですが、これが堅牢な城砦攻めの難しさなのです。

ちなみに堀は巳の刻(午前10時ごろ)に長浜の秀吉に第一報を出してるのですが、この段階で鉄砲を撃ちまくって相手を二町ほど(約200m)後退させた、と述べており、逆に言えばかなり間近まで攻め込まれていた、という事でもあります(もう一通の千福への手紙では二町の距離まで接近されたともあり)。ただしその段階でもう大丈夫、ご心配なく、と述べてるので、どうも柴田側の攻撃もパッとしないものだったようです。



余呉湖北岸から見た同木山砦と左禰山砦。両者の間の谷間を余呉川と北国(北陸)街道が通っています。
高い場所にあるのは視界の確保、戦闘に優位な場所取りのためであるのと同時に、街道の左右の山中まで完全封鎖して、柴田軍の連中を一人も南に通さない、という決意の表われでしょう。堀や柵は砦どころか、さらにその奥まで続いていたハズです。このため柴田軍は南の岐阜城、長島城との連絡に苦労したと思われます。一連の戦いに見られる妙な連携の悪さはその辺りが原因かもしれませぬ。

ちなみにこの余呉湖北岸の狭い平地が地獄の最終決戦場になった可能性が高いのですが、この点はまた次回。

とりあえず、なぜこんな無謀な攻撃を柴田軍が仕掛けて来たのかが疑問として残ります。
普通に攻め落とせない事は判っていたはずで、だからこそ西の山地に迂回路を造って居たのですから。その手がかりになるのが、左禰山の向かい側の同木山砦で広まっていた“ウワサ”でしょう。この砦の守備陣には当初、柴田家を裏切った勝豊の配下の武将が入って居ました。ただし勝豊本人は病に倒れて不在で(後に決戦前に病死)、残された家臣団の一部が再度柴田側に寝返りを画策しているとの噂があった、と多くの資料に出てきます。

このため柴田軍の襲撃後、同木山から勝豊の家臣団を外し、木下将藍昌利を代わりに入れたと、手紙の中で堀が秀吉に報告しています。ただし「天正記」では木村隼人重茲が入ったとされており、上の図ではこちらの名を入れてあります。実際はこの二人が一緒に入っていたのではないか、と思われますが確証は無し。ちなみに一連の報告から、第一封鎖線における指揮官はおそらく堀秀政だったと判断してよさそうです。そりゃ強いわ。実際、堀は最終決戦でも最後まで踏み止まり、勝家軍を崩壊させる震源地になりました。

この辺りから判断すると、同木山砦の勝豊家臣団による内通を期待して柴田側は攻撃を仕掛けて来た、と考えるのが妥当かと。ところがすでに内通の噂は羽柴陣地内で知れ渡っており、警戒されていて何もできずに終わったのではないかと思われます。これが事実なら、いよいよマヌケだなあ、と言う他ありませぬ。

ちなみに内通の噂は事実で、この後、勝豊に仕えていた老臣、山路正国の内通が露見、本人は人質の妻子を捨てて柴田側の陣地に逃げたと天正記にあります。ちなみにややこしい事に山路もまた自称が「将藍」で、裏切って逃げたのも将藍、その後に陣地に入ったのもまた将藍なのです(将藍は本来なら正規の官職名だがおそらくどちらも当時よくあった自称だろう)。

もう一つの可能性としては、西の山岳路の土木工事から羽柴軍の目をそらすため、という可能性もありますが、それにしては単発で終わってしまっているのが気になるところ。恐らく、その可能性は低いでしょう。

こうしていろいろあった後、ようやく4月20日に賤ケ岳の戦いが始まります。
ただし、なぜか神明山でも同木山でも無く、封鎖線の南にある大岩山砦への襲撃で(笑)。この辺りの迷走も含め、次回、ようやく決戦開始です。日本の合戦史上、まれに見る万単位の兵員が混乱と混沌の中で戦う大乱戦を見て行きましょう。

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