■前置き

2021年10月に念願の賤ケ岳&余呉湖周辺を見て来たので、今回は賤ケ岳の戦いについて見て行きましょう。

1582(天正10)年旧暦6月2日(太陽暦21日)、梅雨のさなかの早朝に本能寺の変が起こりました。本能寺で無賃宿泊どころか敷地全部を強制徴収して自分の別邸にしていた織田信長を明智光秀が急襲、時空の彼方へ行方不明にしてしまった事件です(遺体は未だ確認されていない)。

ちなみに明智光秀による本能寺の変とされますが、この時は既に惟任(これとう)に改姓しています。これは結婚による改姓ではなく朝廷からもらったカッコいい方の名前に変えたものでした。このため惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)光秀なのですが、信長公記では明智日向守、惟任日向守光秀、明智、など必ずしも惟任の姓で呼んでおらず、フロイスの日本史に置いても、惟任日向守、十兵衛明智(発音は“じゅうびょう”とされる)の両名称を併記した後、以後は最後まで明智の呼称を使ってます。よって本記事でも明智光秀とします。面倒だしね。

ついでながら本能寺の変に関して最も詳しい記述があるのはフロイスの日本史です。
京都に居た司祭たちは一部始終を見てたのでその記述は信用が置けるというか、世界で唯一の現場の近所に居た人達による本能寺の変の記録です。この点に置いては信長公記より詳細な説明があります(信長公記は信長が逃がした女官衆の目撃談を元に書いていると思われ本能寺内の動きはこっちが詳しいが)。ただし当日のフロイスはキリシタン大名、高山右近の高槻城(京都のすぐ西側。現大阪府高槻市)に居た可能性が高く、その後、京都に入って事情を聞いたようです。いずれにせよ、現場のすぐ近所に居た人間からの証言を聞いているのは間違いないので信憑性は高いでしょう。

■資料

最初に今回の記事における資料について少し触れて置きます。

信長に関しては尾張の田舎から出て来た無名の天才だったので、まともな記録は信長公記しか無く、しかも著者の太田牛一は几帳面な人で意識的な誤記、改竄はないと思われる一級の資料となっています(記憶違いなどはいくつかあるが)。よってこれを根拠とすればほぼ問題ありませぬ。ところが本能寺の変以降は皆が注目する日本の歴史になってしまったため、資料が無数にあり、しかも困ったことにほとんどが信用できませぬ(笑)。

とりあえず本能寺の変から秀吉の死去までの記録で、一定の信用が置けると思われるものを以下に挙げて置きます。
今回の記事は以下の資料にのみ基づき、後は現地の伝承を一部採用する他は全て無視します。現代に至るまで江戸期に成立した怪しい軍記読み物、胡散臭い軍学者が書いた本などの影響は驚くほど強かったりするので、これを是正する意味も含め、この記事では以下の「信用できる筋の資料」によってのみ構成して行きます。

言うまでも無く(笑)、痛快娯楽歴史小説である「甫庵の太閤記」は完全に無視します。三国志と三国志演義以上にヒドイですから。

 ■資料名

 ■概要
 天正記
 秀吉自らの命によって編纂された“公式記録”。著者は秀吉の御伽衆の大村由己(ゆうこ)。
 秀吉存命中に完成していたと思われる。全12巻中8巻のみ現存。
 多くの関係者、場合によっては秀吉本人から話を聞いてると思われその資料性は高い。
 引き換えに秀吉に都合の悪いことは書かれていないと見るべきで、その点のみは要注意。

 太閤さま
軍記のうち

 
 信長公記の著者、太田牛一による秀吉の記録。秀吉の死後、間もなく完成したと思わる。
 原本は失われており、本人が献本用に書き残した抜粋版のみが現存。
 太田の著書なので信憑性は高いと見ていいが、逆に自分の良く知らないことは一切触れず、
 かつ本来は「太閤軍記」全2巻として書かれたものの抜粋に過ぎないため内容がやや薄い。
 題名は「軍記のうち」だが合戦関係の記述はほとんどなく、その点では資料となりにくい。

 
川角太閤記

 
 いわゆる「太閤記」ものの一つ。豊臣秀次の筆頭家老だった田中吉政の家臣、川角三郎右衛門による。
 他の「太閤記」と異なり、豊臣一族と縁の深い人物の著者である。
 1623(元和9)年、江戸初期ごろの成立と見られるが、明確に間違っている記述も多い。
 
 よって資料としては二級と見ざるを得ないが、それでも適度に取捨選択しながら紹介したい。

 

 豊鑑

 
 秀吉の参謀、軍師として有名な竹中半兵衛の息子、竹中重門の著作。
 本人も秀吉に仕えているが、1573(天正元)年生れなので、本能寺の変の段階でまだ9歳。
 よってその記述の多くは本人が体験した事では無く、関係者から聞いた見聞録だろう。
 それでも豊臣家の中枢にいた事のある人物なので一定の信頼は置けると判断した。
 合戦関係の記述も多い。秀吉の若いころに関する一定の信用が置ける唯一の記録でもある。


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*2024年7月追記 

上記の史料に「江州余吾庄合戦覚書」と「イエズス会日本年報 1584年1月」を加える。どちらも実際に合戦を見たであろう貴重な証言が多い。初日の戦闘は合戦を生き残ったキリシタン大名、高山右近から聞き取った話をまとめた「イエスズ会日報」が、二日目の戦闘に関しては筆者不明ながら「江州余吾庄合戦覚書」が詳しい(似たような「余吾庄合戦覚書」は全く別物なのに注意。こっちは史料的価値はゼロに近い)。「江州余吾庄合戦覚書」はあとがきから江戸期初期に書かれたと思われる以外は一切不明だが、出てくる地名は現地に居た人間しか知らないものばかりで、その信憑性は高い(逆に言えば江戸期以降の地図を見てもどこがどこだか判らないだろう)。

イエスズ会日報に関しては以下の記事を、「江州余吾庄合戦覚書」は続群書類従 第二十輯下 合戦部」に収録され、国会図書館のデジタルコレクションで読める。
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上記の資料の内、「豊鑑」以外は1965年に人物往来社から出た「戦国資料叢書 太閤資料集」に全て活字で収録され、「豊鑑」は内外書籍版の「群書類従」 第十六巻にあるものが国会図書館のデジタルコレクションで読めます。

その他に一級の資料としておなじみフロイスの「日本史」(中公文庫のモノが手軽に手に入る)、同じくイエスズ会系の資料である「イエズス会日本年報」(これも国会図書館のデジタルコレクションに、よりによって大戦中の1943年から刊行された拓文堂による「耶蘇会の日本年報」がある)、当時の噂話がよく判る「多聞院日記」(同じく国会図書館のデジタルコレクションに三教書院版があるが漢文のため読むのは相当な根性が必要)、そして前田利家の談話を記録した「利家夜話」(同じく国会図書館のデジタルコレクションにある金堂出版部の「史籍集覧」の第13冊に活字版が収録されてる)があるのですが、どれも賤ケ岳の戦いに関する記述はほとんど無いので、あくまで参考程度に。ただし後で述べるように「利家夜話」は戦の記述以外にちょっと興味深い話があるので少しだけ触れます。
ちなみに言うまでも無く、上記で紹介した資料は全て原文で、現代語訳ではありませぬ。それでも、活字になってるだけでも読みやすく、所詮は日本語ですから、ガッツで読めます(多聞院日記だけは別だが)。

ついでに戦国期の重要な資料の一つ、山科言継の医療日記「言継卿記」は本人が本能寺の変の前に亡くなってしまったので、この時期の資料とはなりませぬ(1579(天正7)年没)。

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