■殺される空間

では再度、私が好きで描く構図と、色も塗りたくない構図の絵を並べてみましょう。





両者の違いは考えて判るような問題では無いので、さっさと結論を述べてしまえば空間把握の有無の差です。

前者は構図中にキチンと空間があり、その中に物体が配置されています。後者はそれが無く、手前の人物とイス、そして背景に完全に分離されて描かれています。すなわち手前と奥の二地点、しかも平面化された絵だけで構成されており、その間の空間は構図中に存在しないのです(いわゆる「人物」と「背景」。アニメの動画部分と背景の関係に近い)。実際、この絵は次のような単純な二階層で描かれてます。






これは「対象を面構造として空間に配置した」構図です。今回はパースも狂わせてあるので、違和感を感じる人も多いと思います。こういった構図は「背景」と「動画」部分に判れる手描きのアニメ、「背景」をアシスタントさんが描いて、「主要な人物」のみ本人が描く体制の漫画家さんの作品などに見られる、すなわちウンザリするくらいによく見られる構図でもあります。

この辺り、言葉だけではイマイチ良く意味が判らないと思うので、ちょっと図を使いましょう。



この世界には空間があり、物体はその中に異なる位置を持って存在します。ところが人間の脳がこれを二次元に変換して絵にする場合、以下のように処理してしまう事が多いのです。



それぞれを独立して平面化し、それを重ねて層状に配置してします。理由は不明ですが、こういった絵は実によく見られます。以前はセルアニメと背景、あるいはゲームの背景とスプライト、といった技術的な問題でこういった構図が頻発されるのか、と推測してたのですが、それらの技術的な限界が無くなった現在でも実によく見られる構図です。場合によってはそもそも立体と空間を持っているはずの写真や3DCGでわざわざこの構図にしてる事があり、どうも人間の脳が対象を把握する上でこういった処理をしてるのではないか、と思ってます。この点、確証は無いですけど、それほどよく見られるのです、これ。



その極北とも言えるのがど真ん中、ドアップ構図でしょう。ただしこれは問題外と言うレベルの話なので、今回は無視します。

この結果、物体の立体感と空間的な奥行きと位置関係は消失してしまいます。それぞれの位置関係は手前か奥かだけ、層構造の重なりだけになってしまいます。そんな空間があってたまるか、と個人的には思いますが、世の中に存在する絵の多くがこの構図を取ります。



その最たる例の一つ、モナリザ閣下。手前の人物とその背景には何ら空間的な連続性は無く、それぞれ立て看板が立っているだけに等しい構図です。このため、個人的にはこういった構図をモナリザ構図、あるいは学芸会の舞台構図、などと呼んでおります。

以上が絵を描く場合の空間把握の有無による、私の好きな絵と苦手な絵の差、という事になります。この点、何度も書いてるように絵の才能は7割以上が生まれ持ったものであり、空間把握の才能が無い人がどれだけがんばっても無理なので、それは仕方が無いと思っております。ただし絵は感化される才能の一つなので、こういった構図の絵ばかり見てる結果、どう見ても空間把握の能力を持ってる人がこういった「モナリザ」構図を描いてしまっているのを見かける事があり、ああ、才能がもったいないから、キチンと考えて絵を描きませう、と思う事も多いです。

ついでにこの構図はセルアニメでは不可避なのですが、そのセルアニメの始祖であるディズニー、そして同時期のライバル、フライシャー兄弟はカメラなど、撮影技術の工夫でこの構図を乗り越えようとしてまいました。当時から、その欠点は一部の人間に認識されていたのでしょう(戦前のそれらの作品を見るとなんとか奥行きを出そうとしてるカットがいくつか見られる)。

対して宮崎駿さんは純粋に手描きの絵だけで、この空間を生み出してしまい、世界を変えました。技術革新では無く、天才的な空間把握の才能で解決してしまったのです(ジブリがデジタルを導入する前、「もののけ姫」より前の作品を見てね。特に東京ムービ―新社時代(厳密に言えばテレコム)の「名探偵ホームズ」と第二期テレビ版の「死の翼アルバトロス」と「さらば愛しきルパン」。これらの画面構造はその集大成になってます。ちなみに「もののけ姫」では3D処理によって画面奥に走って行く構図を冒頭でやってるのですが、どうも御本人が納得して無かったのか、同じような画面は以後、見られなくなりました)。まあこれも産まれ持っての才能の問題があるので、誰もができるやり方ではないのですが。

といった感じで、今回のお話はここまで。


■追記

どうも説明不足な感じがしたので補足記事を追加しました。そちらも見て置いてください。

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