迷走するラフォンテーヌ

さて、そのラフォンテーヌは日付が変わった14日1時ごろからようやく仕事に掛かります。掛かるんですが、その行動は物理的に迷走する事態になるのです。

この段階でラフォンテーヌは予備戦力部隊の指揮権は与えられていましたが、具体的な反撃作戦の命令は受けてませんでした。現場の独自判断を許さぬフランス軍ですから、これが無くては動けませぬ。そして例の「文化」のため、文章による指令書が必要と判断したラフォンテーヌは、ラ・ペルリエールにある第10軍団司令部に自ら向かいます(「電撃戦という幻」では電話で済む話だろう、全く意味が判らぬ行動として非難されいてるが、これは筆者の理解不足だろう。フランス軍の「文化」としてはラフォンテーヌの行動は常識的なものだった。実際、直前に軍団司令部から伝令が来ていたのだ。非難されるべきはフランス軍の「文化」だろう)。



ところが不幸にして第10軍団の指令官、ゴンサー将軍は現状を非常事態と判断します。このためラフォンテーヌが師団司令部を出た後、14日の2時20分、第55歩兵師団司令部に対して電話で作戦命令を伝えて来ます。既に見たように各部隊の出撃命令の時はバイクの伝令を出して指令書を手渡してますから、異例の判断であり、ラフォンテーヌはこれを予測していませんでした。この時、ラフォンテーヌの不在を知ったゴンサー将軍は師団長代理の大佐に指揮権を与えると延べたのですが、この人物は最後まで全く何もしないままラフォンテーヌの帰還を待つだけでした。後にラフォンテーヌはあらゆる方面からこの夜の行動を非難されていますが、少なくともこの大佐のマヌケな行動は彼の責任では無いと思われます。

さらに不運は連鎖します。この電話による連絡で命令は伝わったと判断したゴンサー将軍は深夜の2時過ぎに司令部から出かけてしまいます。この時、どこで何をしていたのか、全く不明です。無線指揮車を持たぬフランス軍の指令官に出来る事は限られるはずですが…。同時に先に伝令を務めた大佐がその指令書を持って第55歩兵師団の司令部に向かってしまうのです。100%行き違いになるのが決定的な行動であり、この辺りは理解に苦しむ所ですが、詳細は不明です。この結果、ようやく第10軍団司令部に到着したラフォンテーヌは命令書を受け取れず(正式な書類なので軍団長のサインが要るらしい。その軍団長は不在、指令書は既に持ち去られた後)、結局そのまま第55歩兵師団の司令部にトンボ帰りする事になります。

さらに不運は重なります(笑)。今度はその指令書を持った伝令の大佐が行方不明になります。この辺りも理解に苦しむ部分です(例の第55歩兵師団の潰走する兵に飲み込まれたとしているが、それはラフォンテーヌも同じだ)。ね、ラフォンテーヌばかりを非難するのはちょっと気の毒でしょ。この結果、往復20qの道を3時間かけて移動していたラフォンテーヌが先に師団司令部に帰って来てしまいます。既に午前4時、すぐに指令書は到着するだろうと考えたラフォンテーヌは呼び出してあった各部隊の指揮官を集めて作戦会議を開始します。ですが指令書が無いと正式に作戦開始を命じられぬ、となって動きが取れず会議が終わっても何もできない状態になってしまいました。フランス軍の「文化」ここに極まれり、ですね。

結局4時45分にようやく指令書が到着、これをもって午前5時ごろ、正式に全軍に反撃作戦開始が通達されるのです。ちなみにその内容は先に電話で聞いた通り、というか開戦前の段階で決まっていた内容そのままでした。すなわち先に見た防衛線で配置に着いたら北上を開始、そのままマース川までドイツ軍を押し返せ、それだけでした。これ、要約ではなく、ホントにそれだけなんですよ。そもそも軍団長級の命令として必要なのか、というシロモノです。結局、この指令書の「文化」のおかげでゴンサー将軍が電話で命令を伝えてから作戦開始まで、ほぼ2時間半が無駄に過ぎてしまいました。ちなみにドイツ側の渡河を知り、ラフォンテーヌに指揮を執れと命じてからだと実にほぼ9時間かかった事になります。

この点、既に見たようにドイツ側の行動決定までの速度は桁違いでした。朝7時50分ごろ、偵察機から敵発見の報を受けた第1装甲師団司令部は独自の判断でわずか10分後、8時過ぎには唯一の戦車中隊をためらうことなく速攻で前線に送り出してます。9時間対10分。これがフランスとドイツの作戦テンポの差です。勝てるわけがないと言えるでしょう。

■そして戦闘へ

何せ単純明快な作戦命令ですから、ラフォンテーヌは予備戦力部隊に急ぎ防衛線まで進出するように命じました。逆に言えば、この5時の段階で予め指定されていた防衛線まで進出した部隊は一つも無かったのです(笑)。確かに敵の航空攻撃を避けるために21時すぎまで出撃を遅らせた上に第55&第71歩兵師団の潰走兵の直撃を食らったのも事実で、多少は仕方が無い面がありました。ですが、それらを差っ引いてもこれら2個歩兵連隊&2個戦車大隊の進撃速度は遅すぎたと言えます。

そもそも予定防衛線のすぐ南、わずか6qの距離にあった第213歩兵連隊はビュルゾンの南側付近で前進を止めてしまい、そこから動いてませんでした。 最初の一帯から8時間掛かって僅かに2q前進しただけですから、その移動速度は時速約0.25km/。これは大型の陸亀より遥かに遅い速度です。そして西のルシェンヌから出撃した第7戦車大隊は約14qの距離を走り、朝5時に第213歩兵連隊が進出していた線に到着しています。こちらは7時間半掛かっていますので時速で約1.8q。これは3歳児の平均歩行速度のほぼ半分になります。

午前5時前の段階で両部隊は合流し、午前7時30分に予定の防衛線に向けて北上を開始します。そこでドイツ側の偵察機に発見され、、防衛線に到達する前にドイツ軍と接触、戦闘が始まる事になるわけです。ラフォンテーヌの攻撃開始命令から出撃まで2時間半掛かってしまっていますが、それでもこの二つの部隊はキチンと指定された線に向かい、ドイツ軍を迎え撃っているだけマシでした。

この点、東側に居た二つの部隊、第205歩兵師団、そして第4戦車大隊は戦闘に間に合う事すら出来ていません。両部隊が戦場に到着したのは午前10時45分、移動開始から12時間以上経ってからになります。ちなみに第205歩兵連隊の移動距離は約10q、よって時速は約0.75q/時、ほぼ大型の陸亀と同じ速度、第4戦車大隊は約18qの移動距離なので時速約0.72km/時で、歩兵連隊とほぼ同速度でした。東側は丸ごと潰走した第71歩兵師団の兵の波に飲まれたので、より進行が困難だった、という面はあったかと思います。ただしそれでも遅すぎるのは確かで、潰走する二個師団の兵の波に飲まれる内に士気を喪失、意識的なサポタージュを行っていたのではないか、と個人的には疑っています。

実際、東側部隊の所在確認のためラフォンテーヌは7時過ぎに伝令を出しますが(これも大佐級の人物)、彼は指定された防衛線より6qも南の地点で合流済みの両部が完全停止しているのを発見します。なんでそんな事になっていたのかはよく判りませぬ。伝令の大佐はすぐさま進撃を命じるのですが、部隊が移動を始めたのは実に午前9時、すでに左翼部隊とドイツ軍が戦闘を始めてからでした。さらにそこに不幸と言うかもはや喜劇と言うしかない事態が発生します。北から敗走して来たフランス兵(恐らく例の2師団の兵)が敵に回り込まれたと勘違いして銃撃戦が始まってしまうのです。それらもあって、結局この二部隊が戦場付近に到着したのは午前10時45分ごろ、すでに戦闘の行方は決しており、結局何もしないで終わります。

さらに悲喜劇はこれでは終わりませんでした。第205歩兵連隊の指揮官は、例によってフランス軍の「文化」のため正式な撤退指令を受け取ろうと司令部に向かうのですが、途中で過度に神経質になっていたフランス軍憲兵に逮捕されてしまいます。それだけでも異常ですが、さらに釈放されないまま行方不明状態になってしまいます(なぜか身分の証明に失敗しスパイ容疑で収監されてしまったらしい)。その間に指揮官を失った状態でドイツ軍に追撃される形になった同連隊はパニックから崩壊してしまいます。すなわちこれもまた戦わずに消滅してしまいます。これを電撃戦の戦果と言えるかは微妙ですが(笑)、ここからはこんな話ばかりになって来ます、フランス軍。ちなみに特に何も無かったはずの第4戦車大隊も、以後、一切戦闘記録に登場しなくなってしまいます…

フランス軍の攻撃

既に見たようにビュルソン、シェエリーの北側でフランス軍は反攻のための防衛戦を展開する予定でした。ただしこの防衛線は第55歩兵師団がまだ前線で頑張っている、という前提で設定されているので、それが潰走済みの段階ではそもそも無理があったのは確かです。それでもフランス軍が攻撃開始命令を受けた午前5時の段階で、ドイツ軍はまだシェエリーに入っておらず、さらに戦車も持っていません。もしフランス軍がすぐさま進撃を開始していれば、突破、到達は不可能では無かったと思われます。ここに防衛線が設定されたのは地形的に有利だからであり、この線を抑えて置けばそう簡単にドイツ側の突破を許さずに済んだでしょう。ここで再度地図を掲載して置きます。



ですが既に見たようにフランス側のが進撃開始したのは7時半になってからでした。さらにその前後にドイツ側の偵察機に発見されてしまい両者の行軍速度競争のような形になります。ただしフランス側は状況を把握しておらず、普通に予定されていた防衛線まで進む気だったと思われます。一帯から北上する道路はビュルソン経由とコナージュ経由の二つ。農地が多いので道路から多少外れても進撃は可能でしたが、高低差の大きい丘陵部なので、基本的には道路に沿っての移動が望ましいでしょう。このためフランス軍は東西に分かれて北上を開始します。西のコナージュには第213歩兵連隊の一個大隊と第7戦車大隊の一個中隊、東のビュルソンには二個歩兵大隊と二個戦車中隊が向かいます。ビュルゾンの方に多くの戦力を割いたのは一帯の方が戦術的な重要性が高いと考えられていたからでしょう。

では戦術的な要衝であったビュルソンの戦闘から見て行きましょう。既に見たようにドイツ側は第1装甲師団の第2連隊第1大隊に所属する第4戦車中隊のみが午前8時ごろに送り出されました。ちなみにビュルソンのまでの距離は約5qほど。対してフランス軍は30分速い7時30分に行動を開始し、その距離は約3.5qほど。どう考えてもフランス軍が先にビュルソンに入っているはずですが、結果は逆で8時45分ごろ、ドイツ軍の第4戦車中隊が先にビュルソンに到達してしまいます。理由は単純明快、ドイツ側の戦車が全力で飛ばしたのに対し、フランス側は徒歩の歩兵の速度で前進、戦車が先行する事は無かったからです。この辺りは戦車はあくまで歩兵を援護する兵器という発想が支配的だったフランス軍ゆえの行動だったとも言えます。

ただしドイツ側の記録ではビュルソンに少数の歩兵が居て、戦車を見たら逃げ出したとの事ですが、これがフランス側の斥候なのか前日の敗走兵の残りなのかはよく判らず。そのまま集落を突破した戦車中隊はビュルソンの直ぐ横にある322高地と呼ばれる地点を目指します。そして到達した直後にフランス側からの砲撃を受け、戦闘の戦車2両がいきなり撃破されてしまったのです。さらに中隊長の乗る戦車も被弾、無線機だけは生きていたらしく指揮は取り続けましたが、以後も次々とドイツ側の戦車は撃破されてしまいます。歩兵の支援も対戦砲の援護も無かった不利がありますが、それ以上にドイツ側の戦車は性能的に極めて貧弱だったのです。

 
■Photo:Federal Archives 


この時の戦いではフランス側の戦車も小型戦車しか持っていなかったのですが、それでもドイツ側より強力でした。この時のフランス側の戦車のほとんどがFCM-36、写真の右端に写っているものでしたが、装甲は最大で40o、主砲は第一次世界大戦の旧式なものとはいえ37o砲で、ドイツ側はこの戦車相手に大苦戦を強いられます。ちなみに手前の戦車はルノーFT17。ほぼ第一次世界大戦時代の戦車で、装甲も最大で22o、こちら相手ならドイツ軍でもなんとかなったんですけどね。ついでにここはドイツ軍の鹵獲兵器置場で、多くは改造されてドイツ軍で使用される事になります。ちなみに左端はオチキスH35でしょう。どんだけ種類があったのフランス軍の戦車、と個人的には思っております。



■Photo:Federal Archives 


この時のドイツ側第4戦車中隊の編成は不明なんですが、恐らくII号戦車が主力だったと思われます。装甲は最大で14.5oしかなく(このフランス戦の経験から後に20o前後の追加装甲が成される)、主砲は20o機関砲。歩兵相手なら十分な脅威ですが戦車戦には向いていなかったのです。このため対戦車戦ではバッタバッタとなぎ倒されて行きます。それでも勝っちゃうんですけどね、電撃戦。

そもそも一個小隊の戦力しかない上に(15両前後)その戦車の性能的に不利だった事、さらに敵は対戦車砲部隊を持っていた事からドイツ側はかなり苦戦を強いられるのですが、中隊長の戦車の無線が生きていた事から巧みに敵をあしらい続け、最後まで生き残ったのはわずか1両になりながら、30分以上に渡り敵を現地に釘付けにした結果、応援の二個戦車中隊が到着、さらに大ドイツ歩兵連隊も駆けつけ、フランス軍を押し返してしまいます。最終的に10時ごろまで戦闘は続くのですがフランス側が撃退されて終わる事になります。

もう一つの戦場、ドイツ側が貧弱な37o対戦車砲二個小隊だけを送り込んだ西のコナージュでもほぼ同時刻、9時前後に戦闘が始まっていました。一発では仕留められないフランス軍戦車相手に苦戦を強いられるのですが、こちらはフランス側の戦力も少なかったため、その進撃をとりあえず食い止めてしまいます。ただし徐々に包囲されてしまうのですが、間もなくこちらにも工兵隊二個中隊、戦車部隊一個中隊が応援に駆け付け、攻守が逆転、一気に押し切ってしまいます。

最終的に午前10時45分、これまでと判断したラフォンテーヌ将軍が撤退を命令、東から北上中だった右翼部隊の到着を待たずにフランス軍は敗退してしまいます。ただし、じゃあこれで帰らせていただきます、という訳には行かず、次々と増援が到着するドイツ軍から激しい追撃を受け、第7戦車大隊は40両の内30両を喪失、第213歩兵連隊もほぼ壊滅状態に追い込まれるのです。

全体を見るとお粗末という他無い印象の戦いでしたが、セダン周辺を巡る戦闘の中では最も激しく、同時に「まともな」ものでした。この時、グデーリアンは全く気がついてませんでしたが、フランス側の「準備した戦力と作戦」は、まだ戦車が無かった14日早朝のドイツ軍相手なら致命的な打撃を与えるに十分なものでした。少なくとも右翼の部隊が戦闘に間に合っていれば、最初の戦闘ではドイツ側が突破されていた可能性は高いでしょう。それを不可能にした最大の原因がグデーリアン軍団の戦闘速度、「テンポ」だったわけです。まあフランス側の戦意の低さもちょっと問題ですけどね。

以後はさらにショボく、戦闘らしい戦闘にならないままフランス軍は崩壊し、次々と魔法のようにその戦力が消えて行く事になります。といった感じで、今回はここまで。
 


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