当然、この命令は現場からの猛反発を受けました。グデーリアンはもちろん、ラインハルトもかなり強行に反対したようです。ちなみに騒動の原因であるアラスの戦いの主犯、ロンメルは特に抵抗した形跡がありませぬ。まだヒトラーが介入する前なのでロンメルなら無視しそうですが、おそらくアラスの戦いの後遺症がまだ続いており、動けなかったのだと思います。実際、22日の段階ではアラス北部一帯の掃討戦に専念しほとんど先に進んで居ません。最終的に翌23日になって遅れていた第5装甲師団と合流するまで一帯を動きませんでした。

そしてこの23日夜の停止命令には、現場だけではなくドイツ軍上層部からも反対意見が続出しました。最初はもはやゴキゲンにイケイケ状態だった参謀総長ハルダーが介入してきます。これまでの停止命令にも不満を感じていたハルダーは諸悪の根元はA軍集団司令部とルントシュテットにあると見て、二つの装甲集団(クライスト&ホート)を第四軍ごとB軍集団配下に置き換える事に決定するのです。実際、もはや機甲師団を持たないB軍集団の方がこの段階では快進撃を続けており、順調に連合軍主力を海岸線に向けて追い詰めつつありました。さらに、これまで蚊帳の外に在った陸軍総司令官ブラウヒッチュも介入します(陸軍総司令官は作戦の裁可を与えるだけで自ら立案は出来ない。よって作戦立案を担当する参謀総長が実権を握る)。ハルダーの案を認可したブラウヒッチュがA軍集団司令部に対して23日深夜、自ら電話を入れ、翌24日20時を持って第四軍をB軍集団に移管、以後、A軍集団は敵主力包囲戦から外れソンム川線の防衛を担当せよ、と命じたのです。

これで何とかなると思われたのですが、ここで突如、ナチスのヒゲが思わぬ行動に出ます。ロンメルのアラス報告書を見て不安でたまらない状態だったヒトラーは24日の朝、A軍集団司令部を訪問したのです。この時、ルントシュテットはヒトラーの不安を和らげるところか拍車をかけてしまいます。さらに第四軍がB軍集団に移管される事をヒトラーは知らされていなかったため憤慨、この決定を一方的に覆してしまったのです(全軍の最高司令官であるヒトラーにはその権限があるが本来、直接介入すべき事案では無い)。こうしてルントシュテットが引き続きその指揮を執る事となり、さらにハルダーらが無効にしようとしていた停止命令を追認、A軍集団司令部の名で24日午後12時45分に追加発令させるのです(ただし総統からのご命令だぞ、という文面になっている)。これがあの有名な「ダンケルクの停止命令」となります。

悪いことにその命令はより具体的なり、さらに24時間の制限が撤廃されてしまっていました。すなわち「アラスの北西に在る部隊は(一帯には装甲師団しか無い)、ローンス(Lens)、ベテュヌ(Béthune)、サントメー(Saint-Omer)、ガブリィヌ(Gravelines)の線を超えてはならない。西で攻勢中の各装甲部隊は間隔を埋め、有利な防衛線を敷き、敵を迎撃する事に重点を置く」と述べられていました。装甲部隊を追いかけていた歩兵部隊にのみ進撃続行を認め、それ以外の進撃はここで止められてしまったわけです。それこどろか一方的に攻め込んでいる装甲部隊に防衛戦への転換を命じており、ほぼ狂気と言っていい内容でした。繰り返しますがドイツ空軍による偵察で、そんな敵が無い事は確認済み、その点を何度もハルダーから指摘されていたのに、ヒトラーは最後まで自分の妄想の外に出られなかったのです。

ちなみにチャーチルによるとイギリス側はこの停止命令の電文を受信、暗号化されていなかったため、その内容を知る事ができたとしています。ただしこの段階で連合国側(というか主にポーランド)はドイツの暗号装置エニグマの解読に既に成功していました。そしてチャーチルの著書、ノーベル文学賞(笑)の「第二次世界大戦」の執筆時にこの暗号解読計画、いわゆる「ウルトラ」は機密解除前でした。よって実際は暗号解読で知ったんだけど、チャーチルがスッとボケている可能性が高いと思われます。ついでにチャーチルが午前11時43分と書いているのは、ロンドンとベルリンの時差の関係、2分早いのは実際に送信された時間で記録しているからでしょう(ちなみにフランスとドイツに時差は無い)。

この時の状況を地図で確認すると以下のような形になります。



24日の命令で指定された停止線、これは英仏海峡に面したガブリィヌから続く運河の線を利用しています。複数の運河が連結されローンス一帯まで続くもので連合軍側は運河線(The canal line)と呼んでいました。ちなみにチャーチルなどの記述だといかにもこの運河線を利用した戦術でドイツ軍を脚止めしたような事が書かれていますが(水を堰き止めて増水、決壊を引き起こした等)、実際はドイツ側が勝手にその位置で停止してただけです。この点、チャーチルは知ってるはずですが、こういった誇張、戦果の水増しを平気でやるんですよ、この人。実際、確認できる範囲内のドイツ側記録で、運河線で苦労した、というものは見当たりません。

ついでに余談ですが、ドイツ軍上層部の何人かが戦後に出された回顧録で、停止命令を受けた時、イギリス軍を逃がしてしまうと思った的な事を書いてますが怪しいでしょう(笑)。24日の段階でイギリス軍は未だ撤退戦に舵を切っておらず、単にB軍集団の攻勢に圧されて西に向け後退していただけです。この段階でダンケルクからの撤退を本気で考えていたのはイギリス遠征軍の指令官、ゴート卿だけであり、これも積極的に動き出すのは翌25日からです。

だたしブローニュ・シューメールとカレーの両港湾都市は停止線の南に在ったため、その攻略戦は続行されました。ブローニュ・シューメールには第2装甲師団(攻略が終わった後に東に向け移動)、カレーにはグデーリアンの配下に戻っていた第10装甲師団が向かいました。残りの第1装甲師団は当初、カレーに向かっていたのですが第10装甲師団の復帰を受け、ダンケルクにその目的地が変更となります。そしてその北上中に停止命令が出てしまったのです。

とりあえず最初に攻略が始まったブローニュ・シューメールの戦いは5月22日から25日まで続きました。ここで最後まで抵抗したフランス軍部隊が例の消えた第7軍の一員だった第21歩兵師団です(ただしドイツ軍の待ち伏せで街に入る前に散り散りになった兵も多かった)。そこに22日の朝、既に見たようにイギリス第20歩兵旅団を中心とする戦力が増援として上陸、さらに少数のベルギー軍も居ました。グデーリアンの記述だとオランダ軍の残党も居た、との事ですが、連合軍側の資料では確認できず。この時、イギリス空軍は本土から強力な支援爆撃を行い、一時的にドイツ軍を苦しめます。連合軍側の記録ではイギリス空軍は助けてくれなかった等、よく書かれていますが、意外にがんばってはいるのです。ただし同地のイギリス軍の大半は翌23日に撤収してしまうのですが、取り残された部隊とフランス軍が25日まで抵抗を続けました。ついでにグデーリアンによると水雷艇ほどの小型船を戦車が撃沈した、とあり、極めて珍しい戦車対小型船の戦いが展開されたようです。恐らくイギリス軍撤収のために手配された艦船との戦闘でしょう。ちなみにフランス軍が25日まで抵抗を続けたと知ったチャーチルはイギリス軍もそこで壊滅させるべきだったと反省、次のカレー戦では撤収を許可せず、そのための船舶派遣も禁じてしまいます(この男も真性のキチガイなので最高司令官である首相が戦術級作戦の指揮系統に介入する事、無駄に兵を殺す事に躊躇しない。この点ではヒトラーと同じだった。戦の才能が無いのも一緒。意外によく似てるのよ、この二人)。

そしてその北東に位置するカレーでの戦闘は翌23日から始まり、こちらは戦車を含むより強力な増援が上陸していた事もあり激戦となります。さらにチャーチルが脱出を禁じていたため26日まで戦闘が続きました。ちなみにチャーチルはカレーの防衛戦のおかげでドイツ軍を脚止めでき、後のダンケルクの奇跡に繋がったと書いてますがウソですね。この人、事実関係はウソをあまり(無ではない)つかないんですが、その評価に関しては多分に自己弁護&過大な申告があるので要注意。この攻防戦に投入されたドイツ側の戦力は第10装甲師団のみであり、これをどんだけ脚止めした所で、残り9個装甲師団(予備の第9装甲師団も投入済み)が一帯に殺到、既に自動車化歩兵師団も到着済みですから(最低でも第2、第13,第29の3個師団)、カレーでどんだけ頑張っても意味がありませぬ。ここのイギリス軍は全く無意味な犬死にをさせられたと言って良く(2万人近くが捕虜になったが終戦までドイツの捕虜収容所で生き残れた人数は遥かに少ないだろう)、その責任は間違いなくチャーチルにあります。

実際、この26日の夜までドイツ側は停止命令によりダンケルク周辺への攻撃に出ていません。そして既に見たようにイギリス側はこの停止命令を知ってました。なぜここで抗戦を続けたのか、筆者には理解できませぬ。ついでにカレーの戦いが終わった17時前後の段階でグデーリアンはヒトラーの停止命令解除を知らなかったようです。このカレー陥落によりイギリス本土との連絡が可能な港湾はダンケルクだけになってしまいますが、同時にここだけ守れば逃げ切れるわけで、以後、連合軍はこの街の防衛に戦力を集中できる事になりました。そういった意味でもなぜカレーでチャーチルは徹底抗戦をやらせたのか、理解に苦しみます。キチガイだから、というのが最も論理的な解釈だと思われまする。

政治家としては確かに一流ですが、軍事に関しては素人から毛をむしったレベルの知恵しかないんですよ、この男。ちなみに当日、海軍省で軍上層部の連中と夕食を摂ったよ、戦争中でも食事はしないとね、ちょっと気分が悪かったと述べています。自分が優雅に飯食っている間に、どれだけの人間が無意味に死んだか、などは微塵も考えないのがチャーチルです。指導者がイチイチ軍の損失に動揺していたら戦争になりませんが、チャーチルの場合、お前がその損失の原因じゃんという例が多々あるんですよ。間違いなく第二次大戦期の四大キチガイ四天王の一人でしょう。大西洋渡ってアメリカまで行ってフルチンでルーズベルトの前に立つ男ですからね(言うまでも無く四天王はスターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーチル)。



出典:Bundesarchiv

四日に渡る戦闘で完全に廃墟と化したカレー。激戦だった事を思わせますが、戦略、戦術、作戦、あらゆる面から見てほぼ無意味でした。ちなみにこの写真に写ってるドイツ兵、一瞬、アメリカ兵かと思っちゃうヘルメットですが袖章から空挺部隊の兵士ではないかと思われます。

話をヒトラーの進撃停止命令に戻しましょう。この命令に驚いた陸軍総司令官ブラウヒッチュは、総統官邸に戻ったヒトラーの元を24日の午後に訪れ、これを撤回するように理路整然と説明しました。ですが理論では無く感情で動くヒゲにその説得は通じず、最終的に20時前後まで粘りながらもその説得に失敗します。これを知った参謀総長ハルダーは、停止命令の中にあった停止線を北に引き上げる命令を独断でA軍集団に送るのですが、今度はこれをルントシュテットが拒否、配下の部隊へ伝達しなかったのです。ここまで来るとルントシュテットの無能さが際立って来る印象で、この辺りはヒトラーと同罪と言わざるを得ない部分となります。驚いたブラウヒッチュは再度、25日朝から総統官邸に向かうのですが、今度はヒトラーがルントシュテットに責任を転嫁、全ての決定権はルントシュテットにあると言って自分の判断を放棄してしまいます。気の毒だったのはブラウヒッチュで、ただでさえ飾り物感が強いドイツ陸軍総司令官が、いかに無力化を思い知らされてしまったワケです。

この間のA軍集団のボス、ルントシュテットの行動は理解に苦しむ部分が多く、とにかく25日中、命令撤回をせっつかれながら一切無視し続けます。恐らく第四軍を取り上げられそうになった事で意固地になっていたのでしょう。ヒトラーは既にルントシュテットに判断を丸投げしてますから、この男が一人でドイツ軍にブレーキを掛ける形になりました。翌26日の午前中になってから、ホートとクライストをその司令部に訪問(記述がハッキリしないが恐らく別個に訪れたと思われる)、ここでクライストが進撃許可を強く求めた結果、ようやくルントシュテットは折れヒトラーに進撃再開の許可を求めます。当然、これはあっさり認められ、26日の13時30分に停止命令の撤回が行われました。ところが何の前触れも無く通達されたため、各師団は準備が出来ておらず、グデーリアンの記述だと夜になってからようやく砲撃だけ開始した、と述べています。すなわち24、25、26日の三日間が何の意味も無く浪費されてしまったのです。この件に関しては明らかにヒトラーと同等か、場合によってはそれ以上にルントシュテットに非がありました。この人、軍人としては常にどっちつかずの中途半端な印象があるんですが、こういった余計な場面に限って頑強な意思の力を発揮してしまったのです。

この三日の停滞は致命的でした。停止命令が撤回された26日の段階でイギリス軍は本土への撤退作戦、ダイナモ作戦を発動させており、貴重な時間を確保できたのです。27日にドイツ軍が本格的な行動を再開した時、既にイギリス軍の多くが集結を終えつつありました。さらに言うなら、ここでドイツ軍の運も尽きていました。10日の開戦後、好天が続いていたのですが26日ごろから天候は急激に悪化、以後、曇天から雨天が続きます。これは航空支援が困難になる事を意味するのと同時に、舗装されていない一帯は泥濘化し、装甲師団の戦車は足を取られて快進撃が出来なくなってしまうのです(電撃戦の成功要因の一つが開戦からしばらく続いた好天だった)。そしてこれ以降は戦略、戦術的に特に見るべきものは無い戦いになって行きます。よって戦闘の詳細を追いかけるのはここまでで一度、終わりにしようと思いまする。

■真の敵

こうして英仏連合軍主力の脱出を許してしまい、作戦の最終目標だったその包囲殲滅にドイツ軍は失敗します。この時逃がした英陸軍の兵はやがてアフリカからイタリアに渡りドイツ軍を追い詰める戦力となって行くのです。ただしその殲滅に成功していたら戦争は終わっていた、という程単純な話では無いのも事実です。脱出に成功したイギリス陸軍兵は約21万人、対して第二次大戦中に召集されたイギリス陸軍の兵は350万を超えるとされますから、この後も戦争を続ける事は問題無く可能でした。そもそもチャーチルは本土が占領されたらアメリカに政府ごと亡命して戦い続けると言ってますしね。ですが果たして国民がついて来たかどうか。この時、包囲殲滅に成功していたら、後の戦争がどうなっていたかは想像できぬ、と言うしかありませぬ。

いずれにせよ、ドイツ軍が歴史的大勝利を逃したのは確かです。そしてそれはイギリス軍、ましてフランス軍の力では無く、ほぼ全てドイツ軍自身、旧式な戦術に拘り妨害を繰り返したその上層部とヒゲのヒトラーによるものでした。実際、この作戦の核であり、その途中までの大勝利の原動力となったグデーリアン率いる第19装甲軍団の18日間の進撃状況を見てみると、この辺りはよく理解できるはずです。簡単にまとめると以下のようになります。

 10日  11日  12日  13日    14日  15日   16日   17日   18日 
 進撃  進撃  進撃  戦闘停止  戦闘停止  進撃  限定進撃  停止命令  進撃

 19日  20日  21日  22日  23日    24日   25日  26日   27日 
 進撃  進撃  停止命令  進撃  進撃  停止命令  停止命令  停止命令  進撃

5月10日、開戦以降の18日間でグデーリアンの快進撃が止まったのは日は計7日ありました。この内、戦闘で脚止めされたのはマース川渡河戦となった13、14日のみで、それ以外の5日は全てドイツ軍上層部による干渉でした。最初の干渉はヒトラーとクライストによる16日の介入ですが、この時はまだ一定の猶予が認められていました。ですが17日にはクライスト本人が第19装甲軍団司令部に乗り込んで来て、例のグデーリアンの一時解任騒ぎとなり無駄に潰されてしまいます。さらに21日もクライストからの介入で動きが取れませんでした(ただしグデーリアンもそれを利用し補給に使った可能性があるが)。そして24日からのトドメの三日間となるわけです。すなわち18日中、5日も完全に無意味な進撃停止があった事になります。これが無ければ、22日の段階、どんなに遅くても23日までにはフランス北部海岸にグデーリアンは到達していたでしょう。当然、連合軍は未だ西に撤退中であり、その段階で海岸線の港湾都市を抑えてしまえば、そこで勝負は決まっていたわけです。

上が馬鹿だと勝つことは出来ない、という話のあまりに見事な実例と言えるのがこの電撃戦かもしれません。その完全勝利を妨げたのはイギリス軍でもフランス軍でも無く、ドイツ軍自身なのです。といった感じで今回はここまで。

次回、最後のオマケとしてイギリスの脱出船、ダイナモ作戦とそのダンケルクの奇跡をざっと見て、この長かった連載を終わりにしたいと思いまする。
 



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