■ヌシャトーの戦い

予想外の激戦となったボタージュでドイツ軍の工兵部隊が渡河橋を完成させたのが10日の夜21時頃でした。第1装甲師団には第1、第2の二個戦車連隊(四個大隊)、249両の戦車があったのですが、翌11日の朝までにこの橋の渡河を終わらせて西のヌシャトーに向かえたのはその半分、第2戦車連隊のみとなります。

その第2戦車連隊がヌシャトー近郊で攻撃準備を終えたのが11日午前9時30分。当初は第1戦車連隊、さらには機械化歩兵部隊の到着を待ち、師団総力攻撃が計画されていたとされます。ところがボタージュからヌシャトーまで機甲部隊が通れる道路は一本だけで、当然のごとく大渋滞となっており、残る第1戦車連隊は夜が明けても未だボダージュの渡河橋を渡れていませんでした。この状況を見て取った第1装甲師団長、キルヒナー中将(Friedrich Kirchner)は第2戦車連隊のみで攻撃を開始する事を決心したのです。そしてその戦闘は以後の電撃戦の原型となりました(ちなみにキルヒナーは後の独ソ戦ではマンシュタインの配下となる)。

まず第2連隊の戦車は、一帯のフランス軍の主力、第15軽機械化旅団が陣地に籠るヌシャトー中心部へは向かいませんでした(ちなみにグデーリアンはベルギー軍の残党も居たとするが、他の史料ではそういった情報は見られない)。主要道路沿を避けて南のクストゥモン(Cousteumont)方向に迂回、さっさと西へ進んでしまいます。この行動をフランス側は全く予想しておらず、この結果、第2戦車連隊は敵の貧弱な防衛線を蹴散らして12時30分頃にヌシャトー中心部から西に約4q、プティヴォワール(Petitvoir)への突入に成功するのです。ここにはフランス軍の現地司令部が置かれていました(第5軽騎兵師団は東西に分かれて展開しており、その東部部隊の司令部があった)。さらに一帯には防衛陣地を支援する砲兵部隊が展開していたのですが、これらがいきなり戦車部隊の奇襲を受けてパニックとなります。この辺りを簡単な図にするとこんな感じですね。



フランス側もプティヴォワールの重要性を理解していたので、一時的に頑強に抵抗するのですが、そもそも脆弱な戦線後方の部隊であり、強力な戦車部隊への抵抗は困難でした。特に砲兵部隊は、その胸元に飛び込まれてしまうと一方的に殲滅されてしまうだけであり、ここから潰走が始まったようです。



■Photo:Federal Archives 

電撃戦に投入された短砲身のIV(4)号戦車、恐らくC型。グデーリアン閣下の第19装甲師団は最新兵器だったこのIV(4)号戦車を優先的に配備されていました。参考までに第一師団の保有戦車の数は以下の通り。

■I号 24両
■II号 115両
■III号 62両
■IV号 48両

電撃戦時のIV(4)号戦車は写真のように短砲身の75oしか積んでおらず(砲弾が膨張ガスの圧を受ける距離が短く威力は低い。ただし反動は小さい)、対戦車&要塞戦ではそれほどの戦力にはなりませんでした。それでもヌシャトーの戦いのように砲兵や歩兵を襲うには十分で、フランス兵は打つ手が無かったでしょう。実際、プティヴォワールの司令部&野砲陣地を襲撃して敵を一気に潰走に追い込んだのはこのIV(4)号戦車だったようです。

結果的に第2戦車連隊は敵指揮系統の心臓部を強襲、粉砕した上に、ヌシャトーからフランス国境に続く主要道路を抑えてしまう形になりました。すなわちヌシャトーに居たフランス軍部隊は指揮系統から突然遮断され、さらに退路まで絶たれてしまったのです。市内に居たフランス軍にしてみれば一体全体、何が起こってるんだ、という感じでしょう。未だにまともな戦闘もしてないのに、いつの間にやら勝てない状況に置かれてしまったわけですから。

さらに第2戦車連隊がプティヴォワールの司令部&野砲陣地を襲撃したのとほぼ同時刻、12時30分頃に第1戦車連隊が現地に到着、こちらは迂回せずヌシャトー市内への攻撃を開始します(ただし市内への突入は行わなかった)。その後、午後15時30分ごろには狙撃兵連隊も到着、歩兵部隊が市内への突入を開始、司令部との連絡が取れず、さらに退路が断たれる恐れまで出て来たフランス軍はパニックとなり陣地を放棄して撤退してしまいました。こうしてまともな戦闘は行われないまま一帯の防衛線は崩壊、午後16時ごろまでにはほぼ決着はついてしまいます。すなわち旅団単位の兵力が陣地に入った敵防衛線を半日足らずで突破してしまったのです。快勝と言っていいでしょう。

■ヌシャトーの戦のOODAループ



ヌシャトーの戦いはこの戦争における最初の電撃戦的な戦闘でした。すなわち敵のOODAループの回転を麻痺させ、何もさせないままに蹂躙する、という理想の戦いです。

ドイツ軍はまず「後方地区に強力な敵戦車部隊が出現」「司令部と連絡が取れなくなる」「市内へ攻撃が始まる」「歩兵が突入して来た」と次々と新たな事態を突き付け、「観察」の飽和を引き起こします。同時に敵司令部を叩く事で、各部隊の独自行動を禁じていたフランス軍の「判断または仮説作成」に至る機会を完全に奪ってしまったのです。こうなると決して「行動」に至る事は出来ませんから、後は何もできずに投降するか、パニックになって我先に逃げ出すかといった状況に追い込まれるだけとなります。もはやまともな戦闘は不可能でしょう。これらは全てドイツ軍の戦術、敵の強い所を避け弱点を突く高速戦闘がもたらした結果でした。

ちなみにこの作戦の立案者は不明であり、作戦目的も実はよく判りません。すなわち歩兵が無く不利な市街戦を避けようとした結果、偶然に敵司令部に突入する事になったのか、あるいは第一次世界大戦のドイツ軍が採用した浸透戦術、敵の堅固な陣地を迂回、その背後を叩く歩兵戦術を戦車に応用した結果なのかは、実はよく判りませぬ。すなわち偶然上手く行っただけ、という可能性も否定できません。

それでもグデーリアン閣下と配下の部隊にとって「これで勝てるんだ」という学びの場になったのは間違いなく、これ以降、敵の堅固な陣地を迂回し速攻で攻め込みパニックに追い込む、という戦いが次々と展開されて行く事になるのです。そういった意味で、このヌシャトーの戦闘は電撃戦の原型と言ってよく、電撃戦はこの瞬間に産まれた、と思っていいでしょう。

■ブイヨンの戦い

その次の目的地はベルギー国内最後の難関、ヌシャトーの約25q西に位置するブイヨンでした。ここが国境直前、最後の難関だと考えられていたのです。その位置も地図で見といてください。



ここにはU字型に流れるスモワ(Semoy )川に囲まれた高台の土地に城砦があり、その下にある二つの橋を渡らないと先に進めない要衝の地だったのです。ブイヨンに最初に到達したのは第1戦車連隊でした。ヌシャトーで主力となった第2戦車連隊を追い抜き、午後18時30分ごろの段階で街の入り口に到達します(休息、補給のため意識的に入れ替えたのだろう)。ところが目の前でフランス軍に二つの橋を爆破されてしまい、一気にここを通過する事ができませんでした。ちなみにこの爆破は必死に逃げ切ろうとしていたフランス第5軽騎兵師団の兵によるものでした。

さらに混乱は続行します。とりあえず浅瀬を通過して対岸に到達しようとしたところ、突然、友軍であるドイツ空軍の急降下爆撃隊の攻撃が始まり、これに巻き込まれてそれ以上進めなくなってしまいます。それに加えてフランス軍の撤退を援護するため、はるかフランス領内から遠距離砲撃が開始され、今度は155o榴弾砲の着弾によってドイツ軍は身動きが取れなくなってしまうのです。これによって11日の進撃はこのブイヨンで完全に停止してしまいます。

ただしフランス軍はここを死守する気など全く無く、夜の内に一帯から撤退してしまうのですが、ドイツ側はこれに気がつかず、翌朝、第一師団は総攻撃に入ってしまいます。当然、この攻撃は全く意味が無く、敵が既に居ないと気がついた後にようやく工兵部隊が渡河橋を完成させ、部隊がようやく先に進めたのは作戦開始から三日目の日没前、12日19時になってからでした。

ただし「電撃戦という幻」によるとこの橋が出来るまで進撃が停まっていたように述べられていますが、グデーリアンによると、スモワ川は浅くて戦車は自力で渡河できてしまった、その先に進めなかったのは地雷原があったからで、その処理に手間取ったからだ、としています。この点、写真などを見ても戦車が渡河してるのが確認できますから、恐らくグデーリアンの言ってる事が正しいでしょう。ちなみにこの一帯、ブイヨン周辺で初めて連合軍、恐らくフランス空軍による空襲を受けた、とグデーリアンは述べています。フランス国境付近に現れたドイツ軍にようやく気がつき、あわてて爆弾落としに来た、という感じでしょうか。当然、まともな戦果はありませんでした。

最終的にグデーリアン軍団こと第19装甲軍団ほぼ丸一日、ここで浪費してしまう事になり、これはフランス突入前の最大の停滞となってしまいます。すなわちフランス軍は戦わなかった事で最大の停滞をドイツ軍に強いたのでした(笑)。ドイツ軍はこの夜間の撤退に全く気がつかなかった事、さらにご丁寧に正攻法で一帯を攻撃した事で無駄に時間を潰してしまう事になります。



■Photo:Federal Archives 

12日にブイヨンの集落に入ったグデーリアン閣下とその幕僚とされる写真。ちなみに後ろに居る黒服の人物、親衛隊のように見えますが、この時のグデーリアン閣下の部隊に親衛隊は居なかったはず。よって限りなく親衛隊に近い陸軍部隊(この辺りはややこしくて良く判らぬ)、大ドイツ連隊の士官でしょう。ただし戦車兵の制服に見えますが、この作戦時の大ドイツ連隊に戦車部隊あったという話、筆者は初耳なんですが…。通常の装甲師団に兵員として紛れ込んでいたんでしょうか。この点、正直、良く判りませぬ。

ちなみに11日夜の軍団司令で大ドイツ連隊は第10装甲師団の配下から軍団司令部直属への変更を命じられています。その合流地点はヌシャトーの南西約7qの位置にあるサン=メダール(Saint-Médard)としているので、その辺りの段取りのために軍団司令部に来ていた可能性もあり。いずれによせ、なぜ戦車兵というのは謎ですが。

 

■Photo:Federal Archives 

では最後に11日の終わりに置けるグデーリアン軍団こと第19装甲軍団の進撃状況を確認して置きます。
南の第10装甲師団は前日夜からアベ=ラ=ヌーヴで戦闘に巻き込まれましたが間もなく突破、北の第2師団はほとんど戦闘らしい戦闘に巻き込まれずに終わっています。よって本来なら快進撃となっているはずでした。

ところが実際はもっとも戦闘に巻き込まれていた第1師団が先頭を突っ走っており、残りの二師団は未だその後方にあったのです。理由は既に見たように道路の不足とそれを封鎖してしまったベルギーの破壊工作による渋滞が最大のものでした。特に第2師団の遅れはこれが大きかったと思われます。

ちなみに分散進撃していた第10師団の進路が途中から北に跳ね上がっているのは、前回少し触れた南からフランス軍の大部隊が接近中、という空軍からの報告があった結果です。これは完全な誤報だったのですが、その報告を10日の段階で受けたA軍集団司令部はグデーリアンの第10装甲師団に迎撃を命じました。これを聞いたグデーリアンはそんなヒマあるかと猛抗議、全軍の進撃路を北に動かす事で戦闘を避けるよう命令を変更させたのです。ただしこれは使えるはずだった南側の道路を放棄する事を意味します。このため第10装甲師団が新たに北側の道路を占拠してしまい、後続部隊の大渋滞はさらに悪化する事になるのです。

ちなみにグデーリアンは11日の夕刻、ヌシャトーに軍団司令部を置き、最初の作戦命令を出すのですが、その中でも誰がどの道路を使用するのかについてかなり細かく指示を出しています。特に進撃が遅れていた第2、第10両装甲師団にはさっさと後続に道を開けろと命じ、一部進路の変更を命じています。この辺り、やはり道路の不足による大渋滞が最大の懸案だったのだ、というのが良く判る点です。ちなみに同指令書の中で、13日セダンでマース川渡河は絶対、予定変更は許さぬとグデーリアンは全部隊に対して念を押してます。

こうして11日中にほぼベルギーを横断、フランス国境に達してしまう事にグデーリアン軍団は成功します。13日のセダンにて皆でマース川を渡ろうキャンペーンは余裕で可能と思われたのですが、結局翌12日は大停滞となってしまったのです。この辺りの事情を次回見て行きましょう。といった感じで今回はここまで。


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