16日の日没前に国境を突破すると、17日の朝までに一気に国境から約45q先のル・キャトにまで進撃したロンメルですが、17日はその無茶苦茶な進撃の成果の回収と散発的なフランス軍の反撃への対応に追われる事になりました。17日のアヴェーヌまでの引き返しの旅で想定外の捕虜と鹵獲兵器をロンメルは手に入れるのですが、引き換えに第7装甲師団は二日近くに渡って一帯で停滞する事になります。最終的に翌18日の夕刻になってからル・キャトの北西約20qに位置するコンブヘィ(Cambrai)
まで戦車部隊を進出させただけに終わるのです(第一次世界大戦の激戦地、カンブレーの戦いで有名な場所。初めて本格的に戦車が投入された戦闘として有名な戦いだが、この点は虚言癖のあるリデル・ハートが主張したものであり戦車のまとまった投入は初めてでは無かったし決定的に効果的な戦術でも無かった。ちなみにカンブレーは英語読みでフランス語ではコンブヘィといった音になる)。
同時期、南で快進撃中だったクライスト装甲集団のグデーリアン&ラインハルト軍団は軍上層部からの干渉を受けて進撃に急ブレーキが掛けられ、これも進撃が止まってしまいました。さらにロンメルと同じ第15装甲軍団に属するハルトリープの第5装甲師団は18日からコムブヘィの西約30qの距離にあるル・ケスノワ攻防戦に巻き込まれて3日以上現地で足止めされてしまいます(4日間説もあるが後のアラスの戦い(後述)での第5師団の動きと計算が合わなくなるので3日が正しいと思われる。いずれにせよ、この失態でハルトリープは師団長を解任されてしまう)。
すなわちこの時点前後からグデーリアン&ロンメルの電撃戦はそれまでの快進撃を止められてしまうのです。ただし、ほぼ無人と化したフランス北西部を海岸線に向かう事になったため、以後も一定の速度で進撃は出来ましたが、この停滞によってイギリス&フランス連合軍に建て直しとイギリス本土への撤退作戦の準備時間を与えしまう事になります。この結果、散発的ながらいくつかの効果的な連合軍の反撃作戦が行われ、さらに進撃速度が鈍り、最後はヒトラーの介入によって完全に足止めされてしまいます。その結果としていわゆる「ダンケルクの奇跡」、すなわちダイナモ作戦による連合軍主力の脱出成功が起きます。あの絶望的な状況から、約33万8000の兵がイギリス本土への脱出に成功してしまうのです(全体の約4割はイギリス軍以外の兵で約12万人がフランス兵、約2万人がベルギーなどの低地諸国の兵だった)。撤退時には多くの装備が放棄されたため、イギリス軍はしばらくまともな地上戦兵力を持たなくなるのですが、それでもこの時撤退した兵は後のアフリカ戦、イタリア戦、そしてノルマンディー上陸後の連合軍兵力として活躍する事になります。もしこの兵力がこの段階で失われていたら、戦争の行方はかなり混沌とした物になっていたでしょう。
すなわちOODAループ的な意味で重要な高速行動と無数のOODAループの同時展開、それによって敵を混乱させ、指揮系統の麻痺とパニックから戦わずして勝つ戦いはこの段階でほぼ終わりです。5月14日から17日までがそのハイライトだったと思っていいでしょう。よって当連載の目的は既に果たしたとも言えます。ただし現状、日本語で読めるまともな第二次大戦期のドイツの戦闘解説は全く存在しないので、せっかくなのでフランス降伏まではざっと見て置きましょう。知って置けばなんらかの教養にはなるでしょうから。
さて、17日の朝7時ごろ、ル・キャトからアヴェーヌまで戻る事にしたロンメルの状況を地図にまとめると以下のようになりまする。

このアヴェーヌまでの後退の過程で、それまでにぶち抜いてしまった撤退中のフランス軍、さらにはロンメルの突破を知らずに現地に送り込まれたフランス軍と次々に接触、片っ端から捕虜とし、戦車なども次々と鹵獲してしまいます。15日のフォワ・シャペルに向けての快進撃に続くロンメル電撃戦のハイライトがこのアヴェーヌまで後戻りとなるのです。この時、何度も「こんな場所に居るなんて、あんたらイギリス軍じゃないのか」と聞かれたらしいので、フランス側の混乱が察せられます。それほどの高速進撃だったのです。
ただし、このロンメルの引き返し行程は波乱に富んだものになりました。
ドイツ軍の弱点としてよく指摘される戦車の足回りの弱さは既にこの時期のIII号、IV(4)号戦車にも見られたらしく、ル・キャト〜サンブル川間で、ロンメルは立ち往生している複数の戦車に出会います(オートバイ狙撃兵連隊の兵が一緒だったらしいが戦車修理の護衛に付いていたのかこれも故障していたのか不明)。それらの兵によるとサンブル川河岸のロンドゥシ周辺でフランス軍が反撃に出ている、との事でした。このためロンメルはロンドゥシの街を素早く駆け抜けようとしたのですが、無線指揮車を守る形で先頭を走っていた護衛のIII号戦車が街中で道を間違え、一時的に迷子になってしまいます。幸いにしてこの段階でフランス側の反撃は無く、なんとかサンブル川の橋を渡って対岸に出るのですが、そこで複数のドイツ戦車&装甲車が撃破されているのに出会います。付近に対戦車砲が居ると見たロンメルは高速で離脱するのですが、直後にIII号戦車が故障、走れなくなってしまうのです(昨日から長時間高速移動した結果、足回りがやられた可能性が高い)。さすがにロンメルは躊躇するのですが、結局そのまま戦車を置き去りにしてアヴェーヌまで進む事を選択します。
こうして護衛無しの無線指揮車一両だけで、未だフランス軍の展開する一帯をロンメルは東に向かいます。ロンメルによって二個戦車大隊と一個オートバイ狙撃兵大隊が前夜の内に一帯を突破していたわけですが、これを占領して制圧する歩兵が決定的に欠けていました。このため一時の混乱から立ち直ったフランス軍の一部が反撃に出ており、決して安全な一帯では無かったのです(ただし大半の部隊は混乱から潰走に入っていたが)。この辺りの無茶と成功はロンメルの度胸と運が勝った好例と言っていいでしょう。孫子が、そしてナポレオンが指摘しているように「運」は戦争に置いてかなり重要な要素であり、これに恵まれることが天才の重要な要素の一つとなります。この点でもロンメルは確かに天才なのです。
そんな状況の中でアヴェーヌに向かったロンメルですが、途中、かなりの数のフランス兵が呆然と道路周辺に居るのを発見します。ここでビビらず突入するのがロンメルでした、毅然とした態度で指揮車の上から怒鳴りつけ、状況がよく判らないまま現地に取り残されたフランス兵を捕虜として一緒にアヴェーヌ方面に歩かせてしまうのです。恐らくこれを見た他のフランス兵が既に一帯はドイツに占領されたのだと勘違いし、投降するか逃げ出すであろうという計算の基の行動だったと思われます。ただしさすがに全体を監視するのは無理で、途中で多くが逃げ出してしまったようですが。
その後、間もなく貴重なドイツの最新型戦車、IV(4)号戦車が路上で立ち往生しているのに一行は出会います。これを見たロンメルはさすがにホッとしたようで、これで助かったと述べています。たった一両の戦車ですが、当時としてはかなり大型で短砲身とは言え強力な75o砲を搭載するIV(4)号戦車の持つ「説得力」は強力でした。

■Photo:Bundesarchiv
当時のドイツの最新兵器、IV(4)号戦車はロンメルの第7装甲師団には数量程度しか無かったはずで、その存在は貴重でした。シャールB1
bisには敵わないし、後の独ソ戦でも長砲身に換装するまでT-34/76に敵わなかった戦車なんですけどね(換装した後も決して優位では無かったが)。それでもその車体の大きさと強力な75o砲装備による「説得力」は心強いものでした。そしてその周囲にも多くのフランス兵が集まっており、これらは自主的に投降して捕虜になっていたようです。
同時に戦車や対戦車砲を持つフランス軍部隊がこの先、アヴェーヌに至る道路上に集結しているらしい、との情報がIV(4)号戦車の搭乗員からもたらされます。これを聞いたロンメルはさすがに危険と判断してそれ以上の単独行を諦め、一度、ロンドゥシの先に置いて来たIII号戦車の場所まで戻る事にするのです(ただし実際は集結はしていたものの戦闘準備はしておらず、後で見るように片っ端から捕虜になってしまう)。
ちなみにIV(4)号戦車は動けなかっため現地に置き去りにされます。この場を抑えて置く事、東のアヴェーヌに向かうように捕虜を誘導する事を命じてロンメルは西に戻って行ってしまうのです。薄情にも見えますが、師団司令が危険な最前線に必要も無いのに滞在する意味は無く、これは正しい判断だったでしょう(さすがのIV(4)号戦車でも一両では何も出来ないとロンメルは判っていたはずで、この命令の主眼は貴重な戦車を捨てるなよ、ここに留まれ、という意味だったと思われるが)。
その後、安全確保のためIII号戦車の位置まで戻ったロンメルはついに「無線機は故障中」という芝居を放棄する事にし(笑)、アヴェーヌを突破してサンブル川に向かっている部隊は急ぎ自分と合流するように命令を飛ばします。これを受けて間もなくトラックに乗った狙撃兵中隊が道路の向こうに現れ合流、ロンメルは再度アヴェーヌに向けて進撃を開始するのです(この部隊の所属は不明)。結局、その後はアヴェーヌに至るまで他の部隊は一切現れなかったのですが、この戦力だけで以後、道中で出会ったフランス軍部隊を片っ端から捕虜にしながらロンメルは進む事になります。
そのロンメルの部隊は間もなくアヴェーヌの西地域で膨大な数のフランス軍部隊に次々と接触するのですが、ロンメルは全く臆することなくこれらに立ちふさがりました。この辺りもロンメルのクソ度胸による戦果であり、圧倒的な数のフランス軍部隊に対し、貴様らは捕虜だと宣言して武装解除、アヴェーヌまで付いて来いと命じながらロンメルは進み続けるのです。せいぜい中隊規模の兵力しか持たないロンメルに対し、圧倒的な数のフランス軍は次々と投降、最終的に40両を超えるトラックを兵員ごと鹵獲してしまう事に成功したのです。すなわちフランス軍の中ではただの一人として、このちっぽけなドイツ軍部隊を襲ってしまえと思わなかったわけで、謎としか言いようが無い部分でもあります。この辺りがロンメルのカリスマ性の神秘なのかもしれません。
最終的に16日から17日にかけて第7装甲師団が得た戦果は捕虜約1万名、鹵獲兵器は戦車100両以上、装甲車両約30両、トラック40台以上、そして砲20門と凄まじいものになりました(戦死した兵、破壊された車両は数に含まれないのに注意)。先に見たように、護送中に逃げ出したフランス兵も多く、最終的にはほぼ一個装甲師団規模(フランスの正規装甲師団は120〜150両前後の戦車で構成される)を含む数個師団の戦力を壊滅させてしまったと思われます。対して第7装甲師団側の人的損失は戦死35名、戦傷59名のみ、戦車は10両以上を失ったと見られますが、それでも圧倒的な、まさに桁違いの勝利でした。これが典型的な高速電撃戦の結果であり、恐ろしさでもあるのです。
こうして膨大な捕虜部隊を引き連れたロンメル一行は最終的に昼12時頃にアヴェーヌに到着、ここで取り残されていた第3戦車大隊と第6狙撃兵連隊の第1大隊と合流、ようやく戦力的に安心できる状況になりました(ただしこの辺りのロンメルの記述は混乱が見られ、狙撃兵大隊はまだ居なかった可能性もある)。同時期、アヴェーヌの北で少なくとも48両の大規模なフランス戦車部隊が集結しており、現地には一個戦車大隊しか無かったロンメル師団は一時的に危機的な状況に置かれました。ただし道路一帯に隠れるでもなく集結していたため、急遽、砲兵陣地を展開した第7装甲師団配下の第78砲兵連隊第2砲兵大隊がこれを滅多打ちにして壊滅させてしまいます。このため、フランス戦車部隊はまたも戦闘する前に敗れ去ってしまったのでした(そもそも本当に攻勢に出る気だったのかも怪しい部分があるが)。
以後、大規模な反攻はなく午後16時ごろには師団本部の一団も現地に到着します。これによってほぼ36時間ぶりにロンメルは師団本部と合流する事になりました(笑)。恐らくこの段階で軍団本部とも連絡を取ってメチャクチャ怒られたと思うんですが、この点に関してはロンメルは一切記述してないので詳細不明。そのままロンメルは師団本部とアヴェーヌで夜を過ごし、各部隊の翌日以降の配置を決定しています。ほぼ同時に、もはや現状を追認するしか無いと判断した第15装甲軍団(その上の第4軍司令部からの命令の可能性もあるが確認できず)から、翌18日にはル・キャトにの北西約20qに位置するコムブヘィまで進撃せよ、との命令が下されました。その後、ロンメルは16日の昼以来、ほぼ36時間ぶりに休息を取るのですが、わずか1時間半休んだだけったと述べています。念のため、再度地図を掲載して置きましょう。
翌18日朝7時ごろ、ル・キャトに取り残されたロォテンバーク大佐から、ル・キャトとサンブル川の間に有力なフランス軍が集結している、燃料弾薬の無いまま、戦闘になる可能性ありとの報告がもたらされました、驚いたロンメルは急ぎ第3戦車大隊と補給部隊、さらに第37装甲捜索大隊をアヴェーヌから現地に向けて送り出し、本人も急ぎ部隊を追いかけて再度ル・キャトに向かいます。報告にあった一帯には戦車を持つ有力なフランス軍がすでに展開しており、予想以上の激しい戦闘となりました。この戦闘ではロンメルは指揮を執らず、最終的に第3戦車大隊に一帯迂回させて敵の背後を取る事で突破しル・キャトに向かいます。ただし、なぜか補給部隊はこれに続いて居らず到着は遅れ、結局、残された部隊によってその後も戦闘はほぼ夕刻まで続く事になります。
このため第3戦車大隊とロンメルがル・キャトに到着したのは昼の12時ごろ、補給部隊はさらに遅れての到着となり現地に取残されていた第1、第2戦車大隊と第7オートバイ狙撃兵大隊は補給待ちで動けない状態が夕方ごろまで続くのです。このため前日からほとんど戦闘に巻き込まれず弾薬に余裕があった第3戦車大隊が単独で先行してコムブヘィに向かう事になります。戦力不足が心配されましたが、最終的に本格的な抵抗は受けないまま夕刻までに現地に入り、これで18日のロンメル師団の動きは終わる事になります。そしてこれを持ってロンメルの電撃戦は事実上終わりを迎えるわけです。
といった感じで今回はここまで。
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