ここで再度、地図で状況を確認して置きましょう。工兵部隊が造った「弱いマジノ線」の突破口は極めて狭い物だったのですが、ロンメルを含む第25戦車連隊は一列縦隊になってこれを突破、シヴリからの砲撃で燃えているソル・ホル・シャトー方面の家屋を目標に前進を開始しました。

ロンメルは「我々はかの高名なマジノ線を突破し敵中深く進撃している。これは決して美しい夢想ではなく現実だ」と陶酔ぎみに述べていますが、当然「ホンモノ」のマジノ線とは比べ物にならない貧弱な防衛線を越えただけです。明らかに誇大評価であり、この点はあのリデル・ハートですら「それは言い過ぎ」とツッコミを入れてます(笑)。こういったハッタリがなければ、もう少し素直にその才能を賞賛できるんですけどね、ロンメル。
ちなみに戦車連隊の突破後も一帯では歩兵の戦闘が続いていたのですが構わずロンメルはドンドン前進します。これは敵が一帯に地雷を敷設するのを恐れ、先手を打つためだったのですが、この行動が結果的にロンメルの電撃戦を完全な形で実現してしまう事になります。この辺りの素早く動く本能的な判断など、確かに天才ではあるんですよね、この人。
ロンメル率いる第25戦車連隊はフランス側で最初の集落であるソル・ホル・シャトーを南に迂回(恐らく地雷原と集落に居るフランス軍を避けるため)、その西側でようやく道路に戻った後、高速進撃を開始します。その先にもフランス軍が駐屯していたのですが、夜間で完全に油断していたため、少なくともソル・ホル・シャトーから数kmの間は何の抵抗も受けず、かつロンメル師団側もほとんど攻撃を加えることなくこれを突破してしまいました。ついでにこの段階で撤退するフランス軍どころから避難民の集団にもロンメルは追い付いてしまいました。彼らはドイツ戦車を見ると道路横の畑や果樹園に逃げ込んだため、路上には避難民が放棄した手押し車などが散乱していたとの事。
その後、ソル・ホル・シャトーから2q前後侵攻した所でフランス側の第二防衛線と思われる一帯に遭遇、ここで砲撃らしき閃光を目撃したロンメルは自分たちが攻撃されている事に気がつきます(高速侵攻する戦車はエンジン音とキャタピラの轟音で砲撃音ですら聞こえない)。ただし第25戦車連隊の車両に被害はありませんでした。この間、ロンメル師団長自らが何度も戦車長ハッチを開けて顔を出し、周囲の状況を確認する大胆な行動を取っていたようです(夜間だから狙撃される恐れは無いが砲弾の破片が飛んで来る危険性は残る)。確かに度胸もあるんですよ、この人。
ここまで余計な戦闘を避けていたロンメルですが、この段階で初めて連隊に攻撃命令を下します(ロンメルとその副官は連隊指揮官ロォテンバーク大佐が乗る戦車に同乗していた。すなわち砲手と装填主は降ろされていたハズで、その戦車は戦闘不可能だった可能性が高い)。この命令によって第25戦車連隊は加速を開始、以後はロンメルによる「絶対的な指針による統制」に従い、走行したまま主砲と機関銃を左右に向け乱射し一帯を走り抜けます。この時、ロンメルは主に曳光弾を使うように命じていました。走行しながらの射撃ですから弾道の確認、修正のためでは無く(どんどん自車の位置が動くので光跡で射線を確認しても意味が無い)、夜間に飛び交う曳光弾による敵に与える心理的な効果を狙ったのだと思います。そして実際、このメッタやたらに目視できる弾を発砲しながら進撃して来るドイツ戦車の群を見た一帯のフランス軍はパニックとなり潰走が始まるのです(フラヴィヨン一帯から撤退していた第1装甲師団の生き残りと、ディナンの渡河戦で突破された第5自動車化歩兵師団&第18歩兵師団が一帯にあった。すなわちこの段階でロンメルは撤退中のフランス軍を追い抜いてしまった事になる)。
こういった発想などは確かに天才的ではあるんですよね、この人。以後アヴェーヌに至るまで、ほぼ一方的な蹂躙となり、周囲には撤退したフランス軍が残した装備、燃え盛る戦車などで阿鼻叫喚な情景が出現する事になりました。そしてこの辺りから路上に遺棄された砲や車両が増え始め、道路の周辺には何も出来ずにただ伏せて攻撃を避けるだけのフランス兵が無数に見え始めた、との事。それらに片っ端から砲弾と機銃弾を叩きこみながらの進撃となったわけです。
ちなみに進撃する第25戦車連隊側も軽い興奮状態にあったようで、この第二防衛戦を突破した後、今度はその攻撃を停止させるのが一苦労だった、とロンメルは述べています。第二戦線を突破してから攻撃を中止するまで少なくとも3q以上進んでしまったようです。ただし結果的にその攻撃が長引いたことによって、一帯の道路沿いに展開していたフランス軍は壊滅的な損失を被ることになります。引き換えに以後、第25戦車連隊は弾薬不足の問題を抱え込むことになるのですが。
アヴェーヌに接近するにつれ(シヴリからの砲撃で建物が燃えており遠くからでも視認できた)、避難民と逃げるフランス兵で道路は大渋滞になっていたのですが、これを掻き分けロンメルは進みます。ちなみにこの段階でロンメルの高速進撃に付いて来れていたのは第25戦車連隊の第1、第2大隊(本来なら三個大隊で第3大隊は既に遅れつつあった)と第7オートバイ狙撃兵大隊だけでしたが、構わず進撃を続けました。
一帯の状況を見たロンメルはアヴェーヌ周辺にはまだ強力なフランス軍が居ると判断、これも南から迂回して西側に回り込み、一帯に居た多数のフランス兵を戦わずして捕虜とする事に成功します。ただし後方から続いてた第2戦車大隊がアヴェーヌの集落に居た戦車部隊との戦闘に巻き込まれ足止めを食らいます。これはフラヴィヨンの戦車戦の生き残り、フランス第1装甲師団を中心とする16両の戦車でした。
この戦闘はロンメルがフランス国境を越えてから初めての本格的な反撃であり、これによって先行していたロンメルの第1戦車大隊は孤立、部隊はアヴェーヌの西(第1戦車大隊)と東(第2戦車大隊&第7オートバイ狙撃兵大隊)に分断されてしまう形になりました。後方の第2戦車大隊による戦闘だったのでロンメルは本人は指揮を執って居ないのですが、何とか朝4時までにフランス側の戦車部隊を撃破し両者は再度合流する事に成功します。そしてこの段階でロンメルはさらに先にある要衝、サンブル(Sambre)川の渡河地点、ロンドゥシ(Landrecies)の集落まで進出する事を考え始めるのです。
ここで念のため、再度地図を載せて置きましょう。

ちなみにロンメルに言わせると、この段階で師団本部(未だに約25q東、ベルギー領のフォワ・シャペルに置かれたまま)と無線連絡を取ったが軍団司令部から何ら指令が届いてないらしい、さらに無線が故障でよく通じないみたい、いや困ったね、仕方ないから18km(笑)先のサンブル川の渡河点を確保しに行く事にしたんだよ、との事。
当然、大ウソで(笑)16日22時ごろの段階で第15装甲軍団司令部は第7装甲師団司令部に対し「17日になったら弱いマジノ線を突破していい。だがアヴェーヌで止まって居ろよ」との命令を出し、これに対するロンメルの回答を求め続けていました。そもそも直前にロンメルは「弱いマジノ線」の突破を師団本部に連絡しており、この時、折り返しこの停止命令を受けたと思われるのです。普通に考えれば、その停止命令を聞かなかった事にするため意識的に無線を切っていたと考えるべきでしょう。実際、ロンメルは例のアヴェーヌでの戦闘では後方に分断された第2戦車大隊と無線で連絡を取り合っていますし、さらに言えば、そもそも第7オートバイ狙撃兵大隊と師団本部の連絡は取れていたのです。この大隊本部を経由して停止命令が伝えられた可能性は高いのですが、この点についてロンメルは一言も述べていません(笑)。
まあ、ここまで来たら敵が態勢を整える時間を与えず一気に攻め込むのが正解なのは事実で、ロンメルの判断は正しいのですが、同時に軍人として本来なら軍法会議ものの完全な命令無視でした。これで作戦に失敗していたらヒトラーのお気に入りのロンメルでもただでは済まなったと思いますが、幸いにしてロンメルの判断は完全に正しかったのです。
こうして17日の午前4時前後、ロンメルは独断で夜明け前のアヴェーヌから西のサンブル川河岸の街、ロンドゥシに向けて出撃します。直後に前日のフランス軍の崩壊を知らず、一帯で進撃準備中だったフランス軍と接触するのですが、幸いにして戦車を見たフランス兵は戦わずして逃げ出してしまい、一発の砲弾も撃たずに済みました。全く補給無しの進撃だったため、第25戦車連隊は弾薬不足に陥っており、以後は砲弾を節約しながらの進撃となります。そのままさらに西に進むと避難民の群に巻き込まれて大渋滞とハマっていたフランス軍に追いついてしまいます(西に向けて軍隊が撤退できる道路は限られていた)。もはや完全にパニックとないっていたフランス軍の多くは戦わずに降伏、例によってあれよあれよという間に捕虜と鹵獲兵器が向こうからドイツ軍部隊に飛び込んで来る状況となりました。ロンメルによると軽く数百人規模だったとの事。ただしフランス戦車に遭遇して戦闘になる場合もあったのですがドイツ側にほぼ損害は無かったようです。この辺りから再度ロンメルの電撃戦、すなわち戦わずして勝っちゃう戦いが始まる事になります。
こうして避難民と、それに紛れて撤退するフランス軍の縦隊を押し分け、夜明け後にロンメルはようやくサンブル川に到達します。フランス側はロンメルの高速進撃に全く対応できず、ロンドゥシの橋は無傷で残されて居ました。さらに対岸にあったフランス軍の宿舎に居た多数のフランス兵はこれまた戦わずして降伏、まとめて捕虜となってしまいます。この段階でロンメルもあまりの混乱した状況に困惑するのですが、とにかくサンブル川を越えた先にある集落、ル・キャト(Le
Cateau)まで前進する事にしました。途中、全く無防備の弾薬集積所を抑えるなど、これまた多くの捕虜、鹵獲品を得ながら最終的に6時15分(ロンメルによる。ドイツ軍の記録だと6時30分)集落に到達します。ここで再度フランス軍の戦車部隊による反撃を受けたのですが、間もなく撃退に成功、ようやくロンメルは戦車連隊の進撃を停止させ、一度師団の状況を整理する事にしたのです(一切の補給を受けて無かったので燃料も限界だったらしい)。
ところが確認してみると第25戦車連隊の第1、第2大隊、そして第7オートバイ狙撃兵大隊の一部だけがこの進撃に付いて来れた戦力の全てでした。火力だけは十分にありましたが、兵数的には師団の半分以下の戦力です。第3戦車大隊を含む他の部隊は後方を振り返っても見えず、自分たちが敵中に孤立している事を発見したロンメルは驚きます。
ちなみロンメルは知らなかったのですが、第25戦車連隊と並ぶ師団の主力、機械化歩兵部隊の7狙撃兵旅団配下の部隊の多くは師団司令部付近に居たため軍団からの待機命令に従わざるを得ず、未だにその場を動いてませんでした。すなわちその大半がベルギー領内のフォワ・シャペルにあり、16日の夜はそこで野営に入っていたのです。結局、17日の朝8時、すなわちロンメルがル・キャトに入ってから1時間半経ってからフランス国境に向けて移動を開始します。ところが一気に移動を開始したため、「弱いマジノ線」の狭い突破口で大渋滞が発生、さらにその進撃は遅れる事になります(明確な記録は無いのだが、ほぼ同時に第7装甲師団の司令部もアヴェーヌに向けて西進を開始したと思われる)。
この結果、朝7時の段階でロンメルは二度目の「オレの進撃を振り返る引き返し旅」に出てル・キャトからアヴェーヌに向けて引き返すのですが、その過程でこれまた続々と投降するフランス軍に巡り合うことになるのでした(アヴェーヌを目的地にしたのは師団司令部を次に置く予定地だったからだろう)。
といった感じで今回はここまで。
|