では実際の戦闘を見てゆきましょう。以前に触れたようにフランス側には三個の機甲師団+急遽編成された兵員不足の第4装甲師団があったのですが、この中でまともな戦闘を行ったのは最強の第1装甲師団と、最弱の第4装甲師団のみでした。その最強の第1装甲師団は戦力的に圧倒的な優位にありながら敗北してしまいます。その敗因はやはりOODAループの回転速度の緩慢さからくる行動の遅さ、無線機の不備によるコミュニケーションの不足だったと見ていいでしょう。
まずは大前提の確認から。このフラヴィヨンの戦車戦。書類上の数字で見るとドイツ側は二個装甲師団、フランス側は一個装甲師団であり、数の上ではドイツ有利に見えますが、実際はフランス側が圧倒的に優勢でした。さらに戦車の性能でもフランス側が優位だったのです。
まずは数の問題。フランス側は一個師団と言っても四個大隊構成で、そこに第6独立戦車大隊が支援に入っており(ただし一部は未だフラヴィヨンに到着しておらず大隊の1/3前後の12両前後のみが参加)計五個大隊規模でした。対するドイツ側はロンメルの第7装甲師団が三個大隊、ハルトリープ率いる第5装甲師団は既に見たように二個大隊のみの参戦でした。すなわち両軍とも五個大隊規模の戦力であり、フランス軍が一個師団と言っても戦力的にはドイツ軍の二個師団に匹敵したのです。さらにロンメルは挨拶がわりの奇襲を終えると速攻で走り去ってしまったので、事実上、ドイツ側はハルトリープ率いる二個大隊で、フランス側の五個大隊規模の戦車部隊を相手にする事になりました。

■Photo:Federal
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さらに戦車の性能でもフランス側が有利でした。すでに何度が登場した電撃戦における無敵戦車、シャールB1bis。フランス最強の第1装甲師団はこれを二個大隊規模、65両保有していました。ストンヌ攻防戦で見たように車体左側面の冷却用換気スリットを狙えばなんとかなりましたが、両者が動き回る戦車戦で、そこを狙い撃ちにするのは困難ですし(射撃の時は停車するがスリットを狙える姿勢とは限らない)、ドイツ第5装甲師団の兵達は恐らく最後までその弱点に気がつかなかったと思われます。
残る二個大隊はオチキス39(短砲身ながら37o方を装備)が約90両、そこに第6独立戦車大隊の12両が加わり、160両を超える戦車が一帯には展開していました。フランスが投入した機甲戦力としては最大規模のものです。
対するハルトリープ率いる第5装甲師団は当時最新鋭だったIII号、IV号戦車は30両のみ、戦車戦では使い物にならないI号とII号戦車が90両で計120両。すなわち数でも戦車の性能でも圧倒的に不利でした。

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今回の戦闘で主役を務めた第5装甲師団 第31戦車連隊の主力はI、II号戦車で、約90両を持っていました。I号は事実上戦力にならず、写真のII号戦車も主砲は20o機関砲ですから、到底、対戦車戦なんてできないシロモノでした。よって今回の戦車戦では後方に回され、一部が囮としてフランス戦車を88oFLAKの射線上におびき出す(後述)のに使われるのにとどまりました。

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当時最新鋭だったIII号、IV号戦車は30両しかなく、その多くはより非力なこのIII号戦車でした。主砲は短砲身の37oで、とてもじゃないがシャールB1bisの装甲に太刀打ちできるものではありません。実際、既に見たようにストンヌの戦闘では、たった一両のシャールB1bisに11両ものIII号戦車が撃破されています。ただしこのフラヴィヨン戦ではキャタピラを狙い撃ちにして相手の動きを止める、という戦術で一定の活躍をしたようです。

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ドイツ側の戦車として唯一、シャールB1bisに対抗出来たのがIV号戦車でしたが、この時期は主砲の75o砲は短砲身で対戦車戦闘では十分とは言えない破壊力でした。装甲も正面以外は不十分で、実際、例のストンヌの戦闘では一台のシャールB1bis相手に2両のIV号戦車が一気に撃破されています。よって、このフラヴィヨンでも苦戦したはずです。

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ちなみに38(t)戦車は当時としては強力な長砲身の37oでしたが、これもシャールB1bis相手では力不足でした。ただし第15装甲軍団の主力戦車と言っていいこの戦車、どうも31戦車連隊にはほとんど配備されていなかったようで、記録上、その名前が出て来ません。恐らく参戦していない可能性が高いです。といった所が両軍の戦力事情でした。とにかく圧倒的に不利だったのがドイツ軍だったのですが、それでもハルトリープ率いる第5装甲師団は勝ってしまうのです。電撃戦の中でも今一つ注目されてない戦いですが、この勝利は驚くべきものと言ってよく、やはりハルトリープは戦闘指揮官としては一定の才能があったと思われます(ただし戦闘の指揮を直接執ったのは連隊長のヴェルナー(Paul-Hermann
Werner)。戦車部隊の指揮官として優秀な人材だったようだが対フランス戦の末期、6月30日の戦闘で戦死してしまう)。
ここで再度、この地図で全体の状況を確認して置きましょう。

戦闘は午前10時、広大な範囲に散らばっていたフランス第1装甲師団の南部に居た第28戦車大隊(シャールB1bis)と第25戦車大隊(オチキス39)が給油作業中、進撃して来たロンメル率いる第7装甲師団と接触して始まります。その直前、ドイツ空軍の爆撃によって既に損害が出ていたので、警戒はしていたと思うのですが、給油中で動けなかった事もあり奇襲を許してしまったようです。
ただしシャールB1bis相手では奇襲を掛けても効果が薄かった事、ロンメルとしては先を急ぎたかったので本格的な戦闘には発展しなかった事で、その損害は最小限で抑えられたと見られます。そして約1時間後、その北側で遅れて来た第5装甲師団が接触、戦闘を開始します。これを見たロンメルは驚くべきことに第7装甲師団を一帯から撤収させ、そのまま西のフィリプヴィルに向かってしまうのです。進撃速度を優先とする電撃戦な展開では正しい行動ですが、圧倒的に優位な戦力を持つ相手なのですから、本来、第5装甲師団と協力してこれを叩くのが大原則なはず。ところがロンメルはその原則を無視して、自分の師団だけを先行させてしまったわけです。やってる事は正しいのですが、褒められた行動では無い気がしますね。これが全体の戦況を見て指揮する軍団長ホートの判断なら問題無いのですが、そういった指令が出た形跡はなく、ロンメルの独断だったと思われます。結果的にこの判断がロンメルを電撃戦の主人公の一人にするのですが、それは後始末を押し付けられた第5装甲師団の活躍があってこそで彼一人の功績では無いでしょう。この辺り、やはりどうも素直に褒められない部分があるんですよね、この人は。
そして一定の損失はあったものの、まだ十分な戦闘能力を持ち、さらに給油が終わって戦闘態勢を整えつつあったフランス第1装甲師団相手に、ハルトリープ率いるドイツ第5装甲師団は苦戦を強いられる事になります。戦闘が長引くにつれて、一帯に散らばっていた部隊も徐々に集結し、当然、数の上でも戦車の性能でも劣るドイツ側はいつ負けても不思議は無い状況だったと思われます。実際、対戦車戦に投入されたIII号戦車の主砲ではシャールB1bisの装甲を撃ち抜けず、ドイツ側は軽いパニックに陥ります。
この状況を救ったのは無線による連携と現場指揮官への大幅な権限委譲による素早いOODAループの回転(特に連隊長ヴェルナーの指揮は見事だった)、フランス戦車を翻弄し毎度おなじみ燃料切れに追い込んだ事、そして何よりドイツ軍の守護神、またも登場、アハトアハトこと88oFLAKの存在だったのです。

■Photo:Federal
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偶然ですが、この15日はドイツ対フランスの対戦車戦闘祭りとなっていました。この第5装甲師団対フランス第1装甲師団だけでなく、既に見たようにラインハルト軍団の第6装甲師団が行き掛けの駄賃とばかりに無抵抗に等しいフランス第2装甲師団を粉砕(最終的には翌16日に第8装甲師団によってトドメを刺される)、さらに北のB軍集団唯一の装甲軍団、ヘプナー率いる第16装甲軍団がシャンブル―(Gembloux)でフランスの軽機械化師団二つを相手に戦車戦を展開していました。
写真はその第16装甲軍団がシャンブル―で戦った時の写真で、88oFLAKが砲身を水平にして、すなわち対戦車戦闘に投入されている事が確認できます。これ以前にも散発的に対戦車戦に投入されていた可能性はありますが、この15日の対戦車戦闘祭りを境に一気にドイツ軍の対戦車砲の座を3.7cm
PaK36から奪う事になるのでした。ちなみに写真のように移動用車輪を取り付けたまま戦闘に投入が可能だったことも大きな利点となります。ついでに大きな迎角を取らない限り対空戦闘も可能でした。この写真だと周辺に砲兵が居ないのが気になるところですが詳細は不明。
特に第15装甲軍団の勝利は88oFLAKによるところが大きく、その最初の戦闘がこのフラヴィヨンだったのです。後のT-34/75を始めとするソ連戦車軍団相手でも戦えたアハトアハトはシャールB1bisの装甲を余裕でぶち抜け、フランス戦車の有効射程距離外からこれを仕留められました(なにせ8000mを超える高度まで重力に逆らって砲弾を撃ち上げる兵器なのだ)。
フラヴィヨンではドイツ側は無線による連携で巧みにフランス戦車を88mmFLAKの射程内に誘導、これを次々に仕留めました。加えて途中からドイツ空軍が支援要請に応えて急降下爆撃部隊を送り込み、一定の損失を与えます。そして最後は翻弄するように逃げ回る事で燃料切れに追い込み、動けなくなった所を装甲が脆弱な背面にまわってこれを撃破したようです。この辺り、フランス軍はなぜか戦闘前でも戦車のタンクを満タンにしない、という不思議な文化がここでも維持されていた事になります。
さらにフランス側の戦車のほとんどに無線が無く、あっても故障が多くて使い物になりませんでした。このため連携した戦いは行えず、さらに現場の独自判断が禁じられた中で新しい戦闘指令を受け取る事も無く、OODAループの回転が停止したままの中で戦いを続けることになります。こうしてフランス側は各戦車が連携して戦うことなく独自に行動し各個撃破されて行きました。そもそも歩兵援護のための兵器として認識されていたため、集団の対戦車戦など考えておらず、恐らくその訓練、規範などは無いに等しかったと思われます。その結果、これだけの優位を持ちながらフランス側は敗れ去る事になりました。
午前11時ごろに戦闘に入ったドイツ第5装甲師団は最終的にその日の夕刻までかかって戦闘に勝利しました。戦闘に参加したフランス第1装甲師団と第16独立戦車大隊約160両の戦車の内、フランス国境まで撤退する事に成功したのは僅かに36両、損失率は7割を越え、フランス最強の装甲部隊は完全に壊滅したのです(ただし後にフランス国境を突破して来たロンメルの第7装甲師団との戦闘にその一部が参加している)。
そしてこの戦闘中にロンメル率いる第7装甲師団は一気にフランス国境付近まで進出、ベルギー国内に居たフランス軍の退路を断ってパニックを引き起こしていました。すなわちここからロンメルの戦場でも電撃戦らしい戦わずして勝つ戦いが展開して行く事になります。引き換えに第5装甲師団はここで一定の損失を受けた事と補給の必要が生じたことで取り残されてしまいます。この結果、以後、第15装甲軍団は事実上、ロンメルの暴走によって戦って行く事になるのです。
といった感じで、今回はここまで。
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