■織田家の事情

そもそも那古屋(名古屋)のすぐ南に位置する知多郡北部は織田家のお膝元と言っていい土地ですから、当初はその勢力圏内に入ってました。その中心地である鳴海は交通の要衝であり、城のすぐ横を東海道と鎌倉街道(鎌倉往還)が通り、城の西の入海は引き潮になると通行が可能で、そのまま熱田神宮下までの6qを北上する最短経路として利用できました(更科物語で尾張国鳴海浦の章に出て来る、潮が満ちる前に走って突破したとされる浦がこれ)。

よって、鳴海城を抑えると三河から那古屋(名古屋)方面に至る道を完全に掌握でき、ここを奪われるとその侵攻はやりたい放題になります。この点も長篠の戦いにおける長篠城にちょっと似てる点ですね。

よって当初は信長のパパ、信秀の代にここを織田家が奪い、山口左馬助(教継)がその城主として入れられていました。
ところが信秀が亡くなり、信長が織田弾正忠家の家督を相続すると佐馬助はこれをあっさり見限ってしまいます。まあウツケで評判な若様ですから、仕方ないところでしょう。

このため同じ知多郡にあった二つの城、水野氏が治める大高城と近藤氏が治める沓掛城も巻き込み、今川義元の側に寝返るのです。後に桶狭間の戦いの主要舞台となる城ですね。以下の地図で見れば判るように、この二つの城を織田側に残すと自分が完全包囲されてしまいますからこれは当然でしょう。鳴海城は当時まだ信長の居城だった那古屋城から直線距離で12q、兵を率いて進軍しても半日で到達する距離ですから、これによって織田家はその喉元にナイフを突きつけられた状態に追い込まれてしまうのです。

この辺りの位置関係を確認すると、以下のようになります。



国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

現在の海岸線と河川の位置は当時とは全く異なるので、近代的な埋め立てが行われる前の地図、国土地理院による明治期の名古屋周辺低湿地図を引用させてもらってます。ただし鳴海の一帯は遠浅の入海だったため、既に江戸期に埋め立てられて農地にされてしまっており、明治の段階でもかなり地形が変ってしまっているのに注意が要ります。

具体的には熱田神宮〜大高城の間には入海があり、現在の名古屋市南区東部の笠森台地一帯は当時独立した島になっていました。一説には松巨島と呼ばれていたとされますが、確認はできませんでした。とりあえず島だったのは確かなようです。

よって凡そこの辺りまでだろう、という部分を上の地図では水色で上塗りしています。島の東側の海は引き潮の時には完全に干上がり熱田神宮に至る最短経路となったのはすでに述べた通りです。後に信長が大高方面に向かうときは満潮でこの最短経路が通れず、陸路から南下しました。

その後、信長が家督を継いだ後、天文二十二年(1553年)四月に左馬助は九郎二郎という不思議な名前の息子(別名が教吉)と共に信長の領地に侵攻、両者は三の山および赤坂の地で合戦となります。ちなみにこの時期、信長は織田弾正忠家以外の織田一族と抗争中であり、実弟の信行も柴田勝家などの有力家臣と信長の実の母と組んで対立してましたから、まあ散々な状態だったと言えるでしょう。
とりあえず、この時は今川の援軍も無かったため、両者痛み分けに終わったようですが、以後、織田家内部の抗争などにより信長はしばらくこの一帯に手出しが出来ないまま過ごすことになります。

後に弘治元年(1555年)旧歴四月に信長は対立関係にあった織田信友(織田一族ではあるが信長の織田弾正忠家とは祖父の代で分離した別系統)を計略で殺し、その居城である清洲を奪って移り住むのですが、これは鳴海方面から距離を取りたかったのも理由の一つではないか、と個人的には思っています(鳴海城まで約18q)。

その後、ほぼ那古屋周辺を手中に治めた段階で、信長は再びこの地の奪回を試み、今川軍が守る鳴海と大高の城の周辺に砦を築いてこれを包囲、兵糧攻めに持ち込もうとしました。ここに今川義元が駆けつけるのです。

ちなみに山口左馬助はそこまで今川に貢献しながら、後に駿府に息子とともに呼び出され処刑されてしまう、という不運に見舞われます(桶狭間の戦いの直前だと思われるが正確な年月は不明)。

この結果、鳴海一帯は今川の直轄地になるのですが、そんな事したら評判ガタ落ちで、以後、味方に付く人間は居なくなってしまうはずです。義元ほどの人物がなぜそんな事をしたのか謎ですが、大高城の水野氏もほぼ同時に城を取り上げられたようで、桶狭間の戦いの前には両方の城に今川家の家臣が城主として入っていました。この結果、今川軍で現地の土地勘がある人物は沓掛城主の近藤一族くらいしか居なかったのです。 そして後で見るように、沓掛城はこの一連の戦いではほとんど出番が無かったので、今川軍は不慣れな一帯で作戦行動を強いられた事になります。一方、一連の抗争によって織田軍団はこの一帯に完全な地理勘を持っていました。この差は小さくなかったでしょう。

■それ以外の事情

以下はやや余談ともいえる話を少し。

元康(家康)が織田家の人質だったのは6歳から8歳までのほぼ2年間と見られます。記録は残って無いのですが、好奇心のカタマリである信長が見に来ないはずがないですから、両者に面識はあったと思います。その後、人質交換で今川家に渡され、桶狭間で今川軍の主力が壊滅して自由の身になるまで、ほぼ10年以上の年月を駿府で過ごしたわけです。
家康は晩年、徳川とは縁もゆかりもなかったかつての今川の本拠地、駿府(静岡)に居を構えますが、これが幼少期への郷愁だったのか、それとも一種の復讐的な凱旋だったのかは、本人にしか判らない部分です。

そして桶狭間の今川軍の壊滅により戦地の真っただ中で突然自由の身となった元康は、今川勢が放棄して逃げ去った松平家の本拠地、岡崎城を奪って独立を果たすことになります。岡崎城に元康(家康)が入るのが合戦後四日経過した5月23日なのですが、三河物語によれば、「捨て城ならば拾おう」と述べて入城したとされ、13年ぶりの帰還の感慨としては、なんとも家康らしい言葉だと思います。ちなみに城には松平家の家臣が残っており、彼らが元康を迎え入れ、松平家を再興させる原動力となって行くのです。

翌永禄四年に配下の城に信長から攻撃を受け、両者は対立関係に入りますが、間もなく和睦したと見られ、以後は信長の生涯を通じて最強の同盟関係を維持し続けるのです。
家康は一度決めると徹底的に約束を守る人ですが、それにしてもこの同盟における徳川の献身ぶりは驚くべきものがあり、やはり信長と家康には幼少期以来のなにか繋がりがあったように思います。後に、桶狭間においても、元康はちょっと怪しい動きをしますしね。

この織田と徳川の同盟、後世では清洲同盟の名で知られますが、いつ、どうやって結ばれたのか、当時の資料にはほとんど記録が無い、という不思議なものの一つだったりします。そもそも清洲同盟なる名称も当時の記録には一切見られません。少なくとも「信長公記」、「三河物語」などには締結の経緯が述べられてなく、いつの間にか同盟者になってしまっているのです。この辺りも信長、家康の不思議な関係の一つでしょう。

という感じで、今回はここまで。


BACK