コウノトリの強襲

この開戦の日、グデーリアン率いる三師団以外にもベルギー国境を超えていた部隊がありました。空軍が用意したフィゼラーFi-156シュトルヒ(コウノトリ)に搭乗した大ドイツ連隊に所属する二個中隊です。北のB軍集団の大規模空挺作戦に比べると控えめでしたが、南のA軍集団も空挺作戦を展開していたのです。それがニーヴィ(Niwi)作戦でした。

この強襲航空部隊は10日の早朝にビットブルク近郊(開戦前にグデーリアンの第19装甲軍団の司令部があった街。両者は連絡を取り合っていた可能性が高い)の飛行場から離陸、開戦と同時にルクセンブルグ国境を越えました。そのまま6時前にはベルギー国境を越えて敵地に強行着陸しています。よって最も早くベルギーに侵入したのはこの二個中隊だったのです。ただしその戦果は微妙であり、そもそもホントに必要だった作戦なのかも疑問です。しかもこの作戦が10日の午後、第1装甲師団がベルギー軍との想定外の激戦に巻き込まれる引き金になってしまいます。この辺りも見て置きましょう。

このニーヴィ作戦、そもそも色々と無理があり過ぎる内容で、これまた「皆さまの国家元帥」、衝撃の白いデブ、ゲーリング航空相兼空軍総司令官が一枚咬んでいた気が。いつもの余計な横槍で空軍の活躍の場を得ようとした臭いがします。ただし数学大好きハルダーの日誌によると作戦三カ月前の2月には既に立案されていたとし空軍への言及はありません。

ちなみにルクセンブルクに対する空挺作戦も当初計画されていたとされますが、これはさすがに必要無いと判断され中止になったようです(ローザ(Rosa)作戦)。



軽量で使い勝手が良く、ドイツ軍の空飛ぶ軍馬として活躍したフィゼラー社製の小型連絡機、Fi156シュトルヒ。

向かい風の中、後方に押し流されながら離陸したという話などがいくつもあり、離陸に必要な最低滑走路はマイナス10mといった伝説(笑)を持つ機体。ただし軽量な分、非力であり強行着陸に必要な堅牢性もほぼ無いような機体でした。

なんでそんな機体で航空強襲作戦をやる事になったのかと言えば、既に見たようにドイツ空軍の主力輸送機Ju-52のほとんどが北のB軍集団の作戦に投入される事が決まっていたから。よってA軍集団の作戦に回せる機体が無かったのです(ただし数機が参加しており、作戦後半で物資輸送に投入されたと思われる。ただしこれまた強行着陸後を試みて少なくとも2機が撃破されてしまっている)。このため約100機のFi-156シュトルヒが搔き集められ、作戦投入される事になったのです。



ちなみにFi-156の写真や現存機の展示は着陸状態のものが多いのですが、アメリカ空軍博物館ではぶら下げ展示になっています。これを見れば飛行中の主脚の緩衝装置部はビヨーンと下に伸びてしまうのがよく判るかと。この姿がコウノトリを連想させシュトルヒ(コウノトリ)の愛称が与えられたのでしょう。

どこでも離着陸できるのがウリの軽量機だったわけですが、当然ながら小さいエンジンは非力で本来は二人乗りでした。すなわちパイロット以外の兵員は一名しか乗れないサイドカーのような機体だったのですが、この作戦時には二人の武装をした兵を乗せたとされています。搭載されていた後部の機銃等を外す等で軽量化したのでしょうが、かなり無茶な運用だったと思われます。さらに二個中隊、400人を運ぶのに100機しか用意できなかったのです。当然、一機当たり2名の兵しか乗れないのでは機数が足りませぬ。このため、第一波を送り届けた後、引き返して第二派を搭載、再度現地に強行着陸をする、という作戦になっていました。この段階で上手く行くわけないだろう、という感じですが、実際、そうなって行きます。

強襲着陸して占拠する地点としてはベルギー&ルクセンブルグ国境から10q前後に位置する小さな集落、ニーヴ(Nîves)とヴィトリー(Witry)が選ばれました。理由は不明。とりあえず第1、第2装甲師団の想定進路上ですが、特に何があると言う地点では無いのです。一帯の連絡路と通信を妨害し、敵の行動を制限する、第19装甲軍団の存在に気がついたベルギー軍の増援が国境地帯に向かうのを妨害する、敵の国境防衛戦を背後から脅かす、と指令書には書かれてますが、わずか400人の二個中隊にそれは期待しすぎだろう、という話でしょう。さらにそもそもそんな必要があったのか、という話になるわけです。既に見たようにベルギーはさっさと南部から引き上げるつもりだったわけですから。

■大混乱の作戦と優秀過ぎるガルスキー中佐

とにかく開戦の10日の早朝、98機のシュトルヒに分乗して第一波の約190人は離陸します。北のニーヴに向かう第11中隊は42機に分乗、南のヴィトリーに向かう第10中隊は56機に分乗してそれぞれ目的地に向かいました。どちらの編隊も敵機に発見される事を避けるため高度30m以下と言う低空を飛んでベルギー国境を目指します(恐らく重くてそれ以上高度が稼げなかったという面もあると思う)。ちなみに作戦全体の指揮官、“優秀過ぎる”ガルスキー(Garski)中佐は北のニーヴに向かう42機の先頭の機体に乗ってました。そして間もなく、ベルギー国境を越えた途端、両編隊は大混乱に陥るのです。



まず北のニーヴに向かっていた第11中隊の42機はあっさりベルギー側に発見されて地上から機銃で撃たれまくります。このため回避運動に入ったのですが、一帯は濃霧という事もあって航路を見失い(計器飛行中だったと思われる)、全然違う方向、南西に向かってしまいます。この結果、北のニーヴどころかヴィトリーからも遥かに南に位置するレグリーズ(Léglise)に着陸する事に(なぜここに着陸したのはよく判らないが航続距離の限界だった可能性が高い)。さらに事態の混乱はこれでは終わらなかったのです。着陸してみたら離陸時の42機をはるかに超える大量のシュトルヒが周囲に在り、さらに苦労して周辺に散らばる兵員を搔き集めたみたらなぜか180人近い人数が居たのです。総員80人前後の部隊のはずなのに。

理由はベルギーの妖怪による怪奇大作戦では無く、南のヴィトリーに向かっていた第10中隊の編隊もまた濃霧に巻き込まれていた結果でした。このため第10中隊の編隊の9割近い51機が編隊の先頭を行く先導機を見失い、混乱状態に陥ります。不幸にしてそこに北から迷い込んで来た第11中隊の編隊が現れ、これ幸いと付いて来てしまった結果でした。さらに部隊は半径で3qという広範囲に散らばって着陸してしまったので、兵を呼び集めるのに苦労する事になります(これが空挺作戦の最大の難点で、後にノルマンディー上陸戦で連合軍は同じ苦労を味わうことになる)。

気の毒だったのは正しくヴィトリーに着陸した5機のシュトルヒに乗っていた第10中隊の兵達でした。朝6時に着陸、先頭の機体を出て周囲を見回したガルスキー中佐はわずか5機のシュトルヒしか周囲に居ない事に驚愕します。すなわちたった10人で敵中に放り出されてしまったのです。ここからガルスキー中佐の苦労が始まるのですが、彼はこの人数でも必要と思われた任務を積極的にこなして行きます。それは軍人として本来なら賞賛に値する行動なのですが、それが予想外の混乱を呼び込むことになるのでした。ガルスキー中佐は必要以上に優秀だったのです。

ただしにシュトルヒの多くは敵地からの離陸に成功、ドイツ国内へと戻っていました。このため第二波の部隊は二時間後の8時頃に正しく目的地に空輸され、これによってガルスキー中佐率いる第10中隊はなんとか持ち応えたのです(第一波の損失は8機とされるが、残りの内どれだけが第二波に投入できたのかは不明。最終的な損失は16機、全体の17%前後だから北のB軍集団に比べれば損失は軽かったのは確かだが)。

一方、誤ってレグリーズに着陸してしまった第11中隊の指揮官も苦労してました。自分たちが目的地のニーヴの遥か南に着陸、しかも第10連隊のほとんどの兵員と共に居る事を知り驚愕、急ぎ一帯の民間車両を調達(すなわち盗んだ)、北のヴィトリー向かおうとします。ところがよりによってベルギー軍の戦車部隊に接触してしまい、これを放棄、徒歩で北に向かう事になります。結局、ヴィトリーでガルスキー中佐の第10中隊と合流する、すなわち少なくとも最低限正しい目的地に一定の人員が揃ったのは午後の13時になってからでした。ところが、この段階で第19装甲集団は既にベルギー国境を超えつつあったのです。すなわちこの作戦は何の助けにもなりませんでした。最終的にガルスキー中佐の率いる部隊は同日の17時30分ごろ、第1装甲師団の先陣部隊に合流、危機を脱します。

…では、終わらないのです。まず北のニーヴに向かう第11中隊の第二派はよりによって正しくニーヴに送り込まれてしまいました。すなわち現地に降りて見たら誰も居ない、しかも先遣部隊はヴィトリーで第10中隊に合流するとそれ以上北上するのを止めてしまっていました(この理由は不明。ヴィトリーまでは北上したのだから、第二波と合流するためさらに北上するべきだったと思うが)。この結果、100人前後の兵数で敵中で孤立、さらにベルギー領内へ進出して来たフランス第2軍に属する第5軽騎兵師団と接触、対戦車砲なんて持たない部隊は危機的な状況に追い込まれます(軽騎兵師団は一定の機械化部隊で戦車を持っていた。この師団は以後、ヌシャトーからブイヨンに至る戦線で第19装甲軍団と衝突、壊滅する)。結局、翌11日の朝になって付近まで進出して来た第2装甲師団に救出されるまで死闘が続くのです。

以上を一言でまとめると「何の意味も無かった作戦」なのですが、それで終わらせる訳には行かないのがこのニーヴィ作戦のやっかいな所です。実は優秀過ぎるガルスキー中佐はわずか9人の部下を率いて果敢に敵の連絡網の破壊に掛かっていました。この結果、現地の電話線を片っ端から切断、さらに一帯を通過するベルギー軍の連絡兵を捉えて捕虜にしていたのです(ただし連絡兵を捕らえ始めたのは第二波の到着後)。その結果何が起きたか。先に述べたようにベルギー軍は国境地帯で徹底抗戦する気は無く、軍を北のブリュッセル周辺に集める気でした。よって一帯のアルデンヌ猟兵の部隊には10日の昼過ぎに撤退命令が出ていました。ところが優秀過ぎるガルスキー中佐が片っ端から一帯の電話線を切断したため現地部隊との連絡が取れず、さらにその後に送り出された伝令兵のオートバイまでガルスキー中佐の部隊が捕らえてしまったのです。

さあ、どうなるか。本来ならとっとと撤退するはずだった国境地帯の一部に撤退命令が届かず、結果的に進撃して来た第1装甲師団相手に徹底抗戦に入ってしまうのです。この結果、グデーリアン率いる第19装甲軍団は全く想定していなかった開戦初日の激戦に巻き込まれる事になります。この優秀過ぎるガルスキー中佐による悲劇は次回、見て行きましょう。

とりあえず今回はここまで。


BACK