では次に第41装甲軍団が渡河地点に選んだモンテルメの戦況を地図で確認して行きましょう。

ここは川が凸型に曲がる、ヘアピンカーブを描く地点で、山間の谷間であり普通に考えると渡河戦闘には全く向いていない地形でした。北岸、ドイツ軍が侵攻して来た方がやや高く、川まで約200m、高層ビル並みの高低差があり、大部隊が展開するには向かない土地です。じゃあなんでここなの、というとこの位置でもう一つの障害、スモア川が分岐するからでしょう。ここで渡河してしまえば、スモワ川を渡らずに済む、すなわちマース川だけを渡河すればヨシ、となるからです。この点、30q近く下流で渡河したグデーリアン軍団は、その前にベルギー国内でスモワ川を渡河、戦闘になっていますから、これの渡河を避けたことが、ラインハルト軍団の高速進撃を可能にした理由の一つだったはずです。  



最初にこモンテルメに入ったのは第4狙撃兵連隊の第3大隊で、13日の16時には谷底の北岸の集落に到着していました。グデーリアン軍団がセダンで渡河開始したのと同時刻なのは偶然ではなく、当初の計画だと両軍団は同時に渡河を開始する事になっていたのです。このためライハンルトはとにかく一個大隊だけでも先行させたのでしょう。現地の橋は当然のように落とされていたのですが、それでも同大隊は単独で渡河を開始し、13日の22時30分ごろまでには南岸の一部まで進出に成功します。

この間、セダンほどではないものの、ドイツ空軍による爆撃が行われています。ただしこれまたほぼ効果が無かった上にドイツ側陣地を誤爆する事が何度かあって死者14名を出す羽目になっています。電撃戦と言えば空軍の協力、という話が根強いですが、実際はそれほど大きな役割を担っていたワケではないんですよ、航空戦力。一定の戦果に貢献しているのは事実ですが、必須の要素というほどでは無いのです。

モンテルメはフランス第9軍の担当地区でしたが、山地の地形を利用して巧みにトーチカと陣地を築いており、頑強に抵抗します。一帯には陣地守備戦闘を専門とする第102要塞歩兵師団配下の第42植民地歩兵連隊が配置され、ここにはその第2大隊が入っていました。機甲師団相手にはやや兵力不足の印象を受けますが、谷の周辺は丘陵地帯で戦車は戦闘に向かず、第6装甲師団の当初投入した歩兵戦力は二個大隊のみだったので、守備側が優位な陣地防衛戦なら十分に対抗できたのです。

このフランス軍の抵抗のため、以後、渡河作戦は大幅に遅れて行く事になります。翌14日からはドイツ側ももう一個大隊、第4狙撃兵連隊の第1大隊が加わり、二個大隊規模での攻勢を仕掛けますが、かろうじて1km前後前進するだけで終わってしまいます。このあたりのゆっくりとした戦闘状況を見たフランス軍はまさか装甲師団の渡河とは考えず、ラインハルト軍団の存在を見落とす一因になったようにも思われます(ちなみに後続の第8師団も16日にここで渡河する。ただし第2自動車化師団だけは6qほど南の地点で渡河)。

この結果、軍団指揮官のラインハルトはかなり焦りを感じる事になりました。13日の段階で渡河を終えて先行していなければ、後から追いついて来る第12軍の配下に置かれる事になっていたからです。実際、A軍集団司令部は翌15日正午12時を持ってクライスト装甲集団が第12軍の司令部配下に置かれる事を通達、さらに15日早朝4時に第6装甲師団以外の第41装甲軍団の各部隊に進撃中止命令が出されていました。よって軍団独自の指揮権を維持するためには、この第6装甲師団がなんとしてもマース川の先まで進撃済み、という既成事実を造らなくてはならないのです。この点は集団指揮官であるクライストからもしきりに渡河進撃を求める要請が来ており、ラインハルトとしては何らかの対策が必要でした。

このため日付が変わった15日の深夜1時に架設橋が完成すると、急ぎ戦力を対岸に渡し、早朝5時に一斉攻撃を開始、なんとか川に囲まれた半島部一帯を午前9時30分までに占領するのです。ただし指定時刻の12時までにさらなる進撃に移ることは出来ず、間もなくA軍集団司令部から、渡河に成功した第6装甲師団はマース川沿いに南下、第12軍の渡河を援護せよ、と命じられてしまいます。ただし命令系統の問題で(直接の指揮権を持つのは第12軍司令部でその上部組織であるA軍集団司令部からの直接指揮は越権行為)、強い拘束力のある命令では無かったらしくラインハルトはこれを拒否してしまいます。

その間に第6装甲師団の師団長っだったケンプフ少将がとにかく直ぐに動ける部隊を搔き集め急ぎ西に向かっての進撃を命じたのです(後の独ソ戦でケンプフ軍支隊を率いる事になるケンプフである)。第65戦車大隊、第6オートバイ狙撃兵大隊の二個大隊を中心に、中隊規模の工兵と砲兵、高射砲部隊などを付けて急遽組織したもので、指揮官の名からフォン・エーゼベック隊と名づけられました。午後15時に現地から出撃すると、以後、完全に油断していたフランス軍後方部隊の中に突入する形になりました。このため反撃らしい反撃を受けないまま、5時間後、20時には55q先のモンコーメに到達してしまうのです。セダンのグデーリアン軍団に気を取られていたフランス軍は完全に無警戒で、このモンテルメから突入して来たドイツ軍に全く抵抗もできないまま多くの部隊が降伏してしまったのでした。すなわちここでもドイツ軍の高速進撃の結果、戦わずして勝つ、という現象が起きたことになります。

さらにフランスの消える装甲師団、第2装甲師団が現地に入りしたとの情報があったため、ドイツ戦車部隊を友軍と勘違いしたフランス軍から歓迎されてしまう、という喜劇のような状況まで発生、最終的にこの先行部隊だけで2000人の捕虜を得たとされます。これは全くの予定外の事態だったはずで、これも戦わずして勝つ電撃戦の一部だったと言っていいでしょう。これが高速進撃戦の持つ破壊力なのです。

翌16日にグデーリアン軍団もモンコーメに到達、第8師団もマース川を渡河して来たため、ここに両軍団が合流、機甲5個師団による強烈な打撃力がフランス軍の居ない真空地帯に集結した事になりました。以後は英仏海峡を目指して快進撃を開始するだけです。もはやフランス軍に打つ手はありませぬ。これによって連合軍主力の包囲は決定的になり、事実上、対フランス戦は終わったと言っていいでしょう。以後、一カ月近く戦争は続きますが、ドイツ軍によるほぼ一方的な掃討戦になって行きます。まさに戦争の目的は敵戦力の殲滅であり、これを粉砕してしまえば後はやり放題、の典型的な例でした。



■Photo:Federal Archives

グデーリアンに比べると知名度が遥かに劣るのが写真のラインハルト閣下です。作戦当時は中将でした。後の対ソ連戦でも一定の活躍を見せますが、地味で堅実ながら特に目立つ功績も無い、というのが正直な印象です。この電撃戦でも彼の部隊の高速進撃が果たした役割は大きいのですが、それは結局、グーデリアン軍団が全て問題を片づけてしまった結果でもありました。実際、第41装甲軍団が遭遇したまともな戦闘は今回見たモンテルメのマース川渡河くらいなのです(後は例の無抵抗のフランス第2装甲師団を粉砕した戦果くらい)。

といった感じで今回はここまで。これで事実上、電撃戦の決着はついたのですが、その後の展開と、そしてもう一人の電撃戦登場人物、暴れん坊将軍ロンメルの行動、あとはフランスの狂人、後の第五共和制大統領、F-1を運転しない方のシャルルことド・ゴールの乱入などをを次回からは見て行きましょう。


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