■リンリンランラン ガムランラン
何度も述べているように軍が馬鹿だと国が亡びます。その二大代表例である大日本帝国とフランス第三共和政ですが、フランスの場合はその頂点に立つ男が驚くほど無能だった、という悲劇があったのです。それが連合軍の最高指揮官であったガムラン(Maurice Gustave
Gamelin)でした。第一次大戦の英雄であり亡霊であるこの男がフランスを滅ぼした、と言っていい面があるのです。この点、ドイツにも第一次大戦の亡霊、ヒンデンブルクやルーデンドルフなどが居ましたが、すでにキレイさっぱり死んでいました(その代わりヒトラーが残されるのだが)。もっともガムランはこの二人よりは一世代若いんですけどね。
1940年ごろ、恐らく開戦直前に撮影されたと思われるガムランの肖像写真。
見ての通りの老人で、1872年生れの彼は開戦時には68歳でした。近代戦の指揮を執るには歳を取りすぎていたと言っていいでしょう。ガムランは第一次世界大戦で頭角を現した軍人でした。開戦直後にドイツ軍の進撃を食い止めたマルヌ会戦の作戦立案で功績を上げ、以後、開戦時には少佐に過ぎなかったのが終戦時には准将にまで出世していました(少将だった説もあり)。
このため彼の軍事的な思想は第一次大戦の強烈な成功体験に裏付けられたものであり、全ての戦争は何年も塹壕戦のように膠着した戦いが続く、陣地戦と砲撃戦の総力戦になると常に考えていました。この点はドイツ軍がソ連と一緒にポーランドに攻め込んだ時から変わらず、この千載一遇のチャンスに(ドイツ国境にドイツ軍は居なかった。そのすぐ先はドイツの心臓部ルール工業地帯である)フランス軍が何もしなかったのは、長期戦に備えて軍備を整えるべきで、無駄な戦闘は避けるとするガムランの意見があったと言われています。さらに速攻でドイツがポーランドを攻略した後もその考えを変えませんでした。このため速戦即決の覚悟で攻め込んで来たグデーリアンによる戦争の「テンポ」に全くついて行けず、何が起きているのかも良く判らないまま自滅に近い負け方をする事になるのです。
さらにその発想が第一次大戦期から全く進化していない人物だったため、自らの司令部をパリ郊外の城、14世紀から17世紀にかけてフランス王家が使っていたヴァンセンヌ城(Château
de
Vincennes)に置きました。何で中世の城に20世紀の戦争司令部を置くのか良く判りませんが、このため電話はごく限られた数しか引かれておらず、さらに無線装置も置かれて居なかったとされます。よって開戦後はバイクによる伝令がここから前線に向けて飛ばされていた、という話があります。ちなみにパリ郊外のヴァンセンヌ城から後にグデーリアンが突破するセダンの街までざっと200qの距離です(笑)。その上で各部隊の独自の判断による指揮を許さず、さらに前線の決定にも口を出していたいのですから、連合軍の指揮系統が大混乱に陥るのは目に見えていました。そして実際、その通りになり、フランス軍とそれに巻き込まれたイギリス軍はまともにOODAループを回す事もできないまま、ドイツ軍に蹂躙されてしまう事になるのです…
さらに副官であり現地指揮官であったジョルジュ将軍との対立から現場からの意見を無視したり、ドイツB軍集団の攻撃は囮ではないか、という指摘を握り潰したり、それらに加えて戦前の1940年2月の段階で我軍はヨーロッパ最強の陸軍であるとしたうえで「ドイツ軍から攻撃を仕掛けてくれたらな100億マルクくれてやってもいい。ありがたい事だからな」といらん発言をしたりと、誰だコレを最高指揮官に任命しちゃったの、という人物でした。電撃戦の一方的な勝利にはドイツの作戦立案の見事さと同時に、この男に代表されるフランス側の対応のまずさ、という点もまた無視できないものがあったのです。
といった感じで、今回はここまで。
|