電撃戦に至るまで

前回は、マンシュタインによる電撃戦に繋がる作戦立案と、それが拒否された挙句に左遷されてしまった1940年1月末までの状況を見ました。開戦まであと四カ月の状態で、ドイツ側の準備状況はゴタゴタだったわけです。ちなみにマンシュタインの作戦はあくまでドイツ参謀本部伝統の高速機動による包囲殲滅に過ぎず、OODAループの高速回転による敵の指揮系統の崩壊とパニックまでは計算に入ってません。これらは現地で指揮したグデーリアン、そして何故か登場するロンメルの二人による高速進撃の結果、想定外の効果として現れて来るのです。この点はご注意あれ。マンシュタインは電撃戦の父の一人ですが、決して発明者ではありませぬ。電撃戦は自然発生的に偶然の産物として生れて来る事になります。

さて、そのマンシュタイン作戦案の拒否と左遷に至る1940年1月まで、ドイツ軍内に大きな動きが二つありました。
一つはヒトラーが自分の考えに飽きちゃった事(笑)。低地諸国からの進入はツマラナイし無意味と言い出し始めたのです。これは作戦案の大幅な見直しを陸軍総司令部(OKH)、そして数学大好きハルダー参謀総長に強いる事になります。

そしてもう一つが、「黄色の事例」作戦に関する指令書類が連合軍の手に渡ってしまった事、すなわち「メヘレン事件」の発生です。まずはこの両者について見て置きましょう。

■ドイツの動きその一 飽きちゃったヒトラー

「黄色の事例」の作戦計画が凡庸になったのは、ヒトラーがベルギーの海岸線からの侵攻とオランダ海岸部の制圧を求めた結果でした。ところがその後、ヒトラーは気が変わり、もっと大胆な作戦が必要だ、と言い始めるのです。理由は不明ですが、これじゃ勝てない、第一次世界大戦の再来だとヒゲ伍長の頭脳でも理解できた結果かも知れません。このため対フランス戦はポーランド戦終結から間も無い1939年11月開始を予定だったのに、どんどん延期され始めます。これには多くの理由があるのですが、少なくとも1940年1月まで引き延ばされてしまったのはヒトラーの気分がコロコロ変わってしまい、作戦内容が最終的に決定を見なかったからのが最大要因でしょう。


■Photo:Federal Archives

ヒトラーが軍事作戦にバンバン介入、ドイツ軍の戦いに常に混乱をもたらしていたのはよく知られています。同じような事をやった政治家にベトナム戦争最盛時の大統領、ジョンソンが居ますが、どちらも無駄に自尊心が高く狂人であるという共通点を持ち、そしてどちらも戦争は最悪の結果に終わりました。最高司令官は上申されて来た作戦や軍備に関する提案に可否を決するのみで、不満なら問題点を指摘し、配下の専門家にやり直させるべきなのですが、自称天才のヒトラーは自ら作戦立案に介入して来たのです。

この辺り、誇大妄想狂のヒトラーの性格もあると思いますが、旧貴族階級出身の連中が多い(第一次世界大戦後、ドイツ帝国が崩壊する1918年までドイツの貴族階級は特権階級として存在してた)軍上層部、特に陸軍参謀本部に対する一種のコンプレックスの裏返しもあったように思われます。平民どころか厳密にはどこから出て来たのかも判然としない出自で、第一次世界大戦時には下士官にすらなれずに一兵卒で終わったヒトラーが(本人が出世を拒否したという話もあるが私は怪しいと思う)、当時も軍上層部を占めていた貴族連中に強い反感を持っていても不思議は無いと思うのです。

さらにヒトラーの現在までに確認されている軍歴が事実なら、第一次世界大戦時、地獄のような戦場を渡り歩いており、よくぞ生き残ったな、という部分があります。未だに軍人の死傷率では史上一位のあの戦争で、バタバタと無駄に無意味に兵が死んでゆくのを見たヒトラーは、軍上層部に強い不信感を持っていたはずです。そして同時に軍上層部の元貴族階級側も、あの一兵卒の平民出の素人が、的な感情をヒトラーに対し持っていたはずで、両者の衝突は必至でした。結果的には貴族の坊ちゃん軍団は平民出の海千山千の山師の敵では無く、瞬く間にヒトラーが軍全体を掌握してしまうのですが(戦後にドイツ軍上層部の皆さんはドイツ軍人は政治に関与しないとか言ってゴチャゴチャ言い訳してるが大嘘である。ヒンデンブルグは第一次世界大戦中に軍事独裁政治をやってる。要するにビビったのだ。その段階でケンカは負けであろう)。

実際、このポーランド戦終了からフランス&低地諸国戦開戦までの時期(1939年10〜1940年2月ごろまで)、陸軍上層部とヒトラーの対立が頂点を迎えつつあり、ナチス党は陸軍幹部を集めてお前らは信用できない、空軍(ゲーリング国家元帥が掌握していた)のようにナチス党に従順になれと演説をブチかましたりしてました。陸軍側も黙っておらず、グデーリアンが代表としてヒトラーに面会、軍への侮辱を止めるように求めたりしてます。同時に陸軍参謀本部内でヒトラー暗殺計画が動いていたのは確かだったようで、あの数学大好きハルダーも一枚噛んでいました。ただし最後の最後でビビッてしまってこの暗殺計画は中止となり、以後、陸軍はヒトラーの暴走に死ぬまで付き合わされる事になるのです。この辺りのゴタゴタが開戦延期の一因になっている部分もあったと思われます。

ちなみにこの1939年の暗殺計画は、後に1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件の調査の過程で明るみになり、これでハルダーは逮捕されて収容所送りになります(実際は収容所に空きが無くてホテルに収監されたらしいが)。ハルダーとしてはこれでオレも終わり、と思ったかもしれませんが、前回見たようにこのおかげで連合国側から反ヒトラー派の中で最も高位の軍人だと見なされて厚遇されるのですから、人生、何があるか判ったもんじゃないですな。

話を戻します。
ヒトラーがいつ低地諸国からの主力突入を捨て「より斬新な作戦」を要求し出したのかはっきりしませんが、少なくとも1939年10月25日、最初の計画案が出て来た段階で「北の平野部ではなくベルギー南部の丘陵地帯を主力が突破してはどうか」と発言しています。ただし同時に無数の提案を行ったようで、ヒトラーお馴染みの数多くの思い付きを考察なしに口に出しただけ、という可能性が高いです。その後、11月に入ると既に見たように通算番号無し(7号と8号の間に出た)の総統指令「黄色の事例作戦について」の中でオランダ北部を占拠する事を求めていますが、主攻勢を海岸の平野部から移せとは述べてません。

ただしその直後から、アルデンヌの丘陵&森林地帯を突破してフランス国境を超え、セダン(スダンとも発音するが本稿は従来の日本語の資料と同じくセダンとする)を通過する経路にヒトラーは執着を見せ始めました。この点はモルトケ率いるプロイセン軍(ドイツ統一前)が、ナポレオン三世率いるフランス軍主力を包囲、降伏に追い込んだ記念すべき土地だから、といった辺りだけが理由で、それ以上の考えは無かったと思われます。実際、後で見るように、機甲部隊の作戦を説明するグーデリアンに対しセダンでムーズ川を渡河した後、どうすんの、と質問してるのです。あんたは何も考えて無かったんかい、という話ですな。

ここでもう一度、マンシュタインの作戦案の内容を確認して置きましょう。



マンシュタインの作戦案では主力機甲部隊は敵に気付かれずに移動し、かつ奇襲効果を狙うため、まずルクセンブルクからベルギー南部のアルデンヌ丘陵地帯を突破します。その先にあるフランスの国境沿いの街、セダンを占拠した上で要害であるムーズ川(オランダ語ではマース)を渡河する予定でした。セダンを選んだのは純粋に戦術的なり理由だったのですが、この点がヒトラーに好印象を与える最大要点になったと思われます。ドイツにとって幸運だったと言っていいでしょう。

このようにヒトラー本人が迷走し始め、それに付き合う陸軍総司令部(OKH)とハルダーも新たな作戦案を確定できないまま年が明けます。そんな状況の中で1940年1月10日に「メヘレン事件」が発生する事になるのでした。

その二 メヘレン事件の衝撃

これは1940年1月10日の夜、ドイツ空軍の将校二人がベルギー、オランダ方面に対する作戦指令書の航空輸送を行った時、エンジン故障によってベルギー領メレヘン(Mechelen)に不時着してしまった事件です。さらに作戦指令書を燃やす前に現地の警察に捕まってしまっため、ドイツの作戦計画が連合国に知られる事になります。機密文書を携えての飛行機の利用はこういった事態を恐れて禁止されていたのですが、その規則を破った上で最悪の事態を招いてしまったのでした。

ヒトラーはこの段階で1940年1月開戦をほぼ決意していたと思われます。ところが、この事件によって対フランス&低地諸国戦は再び延期となってしまうのです。さらに当然ながら、従来の「黄色の事例」作戦案は廃棄となり、新たな作戦、ヒトラーが言う所の「斬新な作戦」が本格的に求められる事になります。

ちなみにこの事件、ドイツ側は大災難と捉えていましたが、実は意外な効果を引き起こしています。
中立国だったベルギーはこの事件によってドイツが自国に侵攻して来る気である事を知り、英仏にその内容を伝え援助を求めたのです。当初は懐疑的な目で見られたものの、最終的に連合国側はドイツ軍の主力がベルギーの海岸線沿いにフランス北部に向かうのは間違いないと判断し、それに合わせて主力部隊の配備を展開させます。それはまさにマンシュタイン作戦に置いて連合軍主力を釣り出すべき場所であり、結果的に連合軍側はマンシュタインの罠にハマった形になってしまうのです。このため当時から戦後にかけて、主にフランス側からメヘレン事件は欺瞞情報を流し連合国を北部におびき出す陰謀だった、という話が出てたりしてます。当然、ドイツ側にそんな知恵も工夫も無くただの事故だったのですが、結果的にこの不運な事件はドイツ側に最大の戦果を与える要因の一つになってしまったのでした。ドイツにとってはこの上ない幸運だったと言えるでしょう。同時にこれによって凡庸な作戦案が廃案になり、マンシュタイン案への道が開けたことになったわけで、ドイツにとっては禍を転じて福と為す、の典型と言えました。上手く行く時は全て上手く行くんだよな、といういい例でしょうね。

マンシュタインの反撃

そしてこの事件の後、ハルダーによって作戦案を握りつぶされ、さらに左遷の憂き目にまであっていたマンシュタインが静かに反撃を開始します。

左遷決定後の1940年2月17日、総督官邸で開かれた新任軍団長のための朝食協議会の後、ヒトラー相手に自らの作戦案を直接売り込む機会を得たのです。これはマンシュタインの部下の一人が総督府に持っていた人脈を利用したものでした。 この会合でマンシュタインはヒトラーに自分の作戦案を丁寧に説明し、その全面的な賛同を得る事に成功するのです。ただし先にも触れましたが、ヒトラーはマンシュタインの計画を完全には理解して無かった可能性が高く、単に自分の発想と同じく主力部隊がアルデンヌ森林地帯経由でセダンに抜ける、という辺りが気に入っただけだと思われます。それでもこれによって極めて重要な以下の三要素がドイツの作戦に取り込まれる事になります。

■北のB軍集団に代わり、中央のA軍集団が攻勢の主力となる
■そのA軍集団に可能な限りの機甲部隊を集中配備する
■機甲部隊は敵の妨害を受けずに国境地帯を突破するためアルデンヌ森林地帯からセダンを目指す


ただし「メヘレン事件」の後、代案作成のため、陸軍もまた対策を論じてはいました。グデーリアンによるとA軍集団内で2月7日と14日に数学大好きハルダー参謀総長臨席の上で兵棋演習(作戦地域を表す盤上に部隊代わりのコマを置いて一種のゲームのように作戦をシミュレーションする演習)を行ったと述べています。

最初の7日の演習で機甲部隊の高速進撃とセダンにおけるムーズ川渡河についてグデーリアンが提案した所、ハルダーはこれを受け入れませんでした。この点は次の14日の演習で再度議論され、最終的にセダンまでの突進は認められたようです。それでもムーズ川を機甲部隊が単独渡河する事は許可されず、歩兵部隊の到着を待て、という結論になったとされます(この辺りは後に現場でも問題になるのだが詳しくは後述)。すなわちマンシュタインがヒトラーに直訴する前から、陸軍側もアルデンヌ森林地帯を抜けてセダンに機甲部隊を突入させる、という辺りまでは考えていたことになります。

ちなみに電撃戦を説明する場合、進撃が困難と思われていたアルデンヌ森林地帯からの突破と奇襲が主要事項のように説明される事が多いですが、これは単なる準備段階であり、それだけでは逆立ちしても勝てません。その後の快速進撃と包囲殲滅戦への恐怖こそが電撃戦です。この点、誤解なきよう。

この演習はマンシュタインによるヒトラーへの直訴後であり、だからハルダーはある程度機甲師団の独走を許したのだろう、とグデーリアンは述べていますが実際は両演習の方が先です。この点は彼の記憶違いだと思われます。すなわち陸軍側もマンシュタイン案をヒトラー受け入れる前に大幅な変更を行ってはいたのです(ただしマンシュタインの作戦内容は多くの人間が知っていたので、その影響を受けた可能性はある)。

ついでに「電撃戦という幻」の中ではこの二回の演習が無視され、筆者の自説に拘り過ぎて時系列的にいろいろメチャクチャな説明になってるので要注意。「電撃戦という幻」は優れた研究ですが、こういった部分がいくつかあります(マンシュタインとヒトラーの面会の説明も正しいとは言えないので読み飛ばした方がいい。会合そのものは軍団長就任の挨拶なので最初から予定されていたもので、その後の個人的な面談のみがマンシュタインの部下による根回し)。歴史を調べる場合、面倒でもキチンと一次資料に当たるしかないんですよ。

とりあえず、2月17日のマンシュタインによる直訴後、ヒトラーによる総統指令 改訂第10号(1月19日に最初に出された後、2月24日に修正再発布された)における追加命令として、以下の文章が付け加えられます(この10号と10号改が対フランス&低地諸国戦に関する開戦前の最後の総統指令)。

●ベルギー・ルクセンブルク領への攻撃の重心は南フランス方面とする。

●リエージュ〜シャルルロワ線(筆者注・ドイツ国境からアルデンヌ森林地帯に至る経路の北側の線)の南に展開した部隊は、ディナンとセダンの間(両者も含む範囲)でムーズ川の横断を強行し、フランス北部国境防衛線を突破してソンム河下流域に向かう道を開くこと


これによって主攻勢の担当がA軍集団に移る事、そしてアルデンヌの森からセダンに抜ける経路を使う事がほぼ決定となったわけです。ただしダンケルク周辺の海岸線までの進撃、そこから包囲殲滅に至る指示は無いのに注意。むしろフランス北の海岸線からソンム川河口部(ダンケルクの南西)に向かえと命じています。すなわち平野部を進撃してフランス北部へ向かえ、という初期の作戦案そのまんま、すなわち第一次世界大戦時と全く同じ経路での進撃を求めているのです。アルデンヌ森林地帯の突破は単に機甲師団による奇襲効果を狙っただけであり包囲殲滅なんて全く考えていない事になります。この辺りを見るとヒトラーがマンシュタインの作戦を全く理解して無かった事が判るでしょう。そしてこの両者の齟齬を埋めてしまうのが現場でひたすら疾走する事になるグーデリアンと、ホントになぜそこに居るのか判らないロンメルとなります。ちなみにマンシュタインがヒトラーに直訴した時、直前の朝食協議会にロンメルが参加してたのはほぼ間違いないのですが、その後のヒトラー&マンシュタイン会談まで同席できたのかは確認できず。同席してたなら、以後のロンメルの謎はほぼ解けるんですけどね。


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