■マンシュタイン大作戦
さて、お次はマンシュタインによる作戦計画を少し具体的に見て行きましょう。1939年の10月21日、「黄色の事例作戦案その1」を受け取ったマンシュタインが考えついたのは以下のような包囲殲滅戦でした。本人は直ぐに頭に浮かんだ、と述べるのと同時に、詳細は徐々に完成させた、ともしてますので、以下のような形になったのは機甲番長軍グデーリアン将軍からの助言を受けた後(後述)、1939年11月以降だと思われます。
この作戦の基本的な考え方は以下の通り。
■英仏連合軍もドイツ軍主力が北の平野地帯からフランスに進入すると予想してるハズ。第一次世界大戦の経験があるからね。となると、敵の主力部隊も北の平野部に集結する可能性が高い。
■その場合、北は海、東はドイツ軍のB軍集団、そして南は大軍の移動に向かない丘陵地帯となる(地図で黄色からオレンジ色の部分)。すなわち西側で敵主力部隊のケツをA軍集団が封じてしまえば逃げ場は無くなり、後はドイツ軍が大好きな包囲殲滅戦に持ち込める。これで勝てる(厳密には左右からの挟撃戦だが、地形で行動を塞ぐのも一種の包囲で十分な脅威となる。実際、織田信長は同じように地形を利用した包囲殲滅戦で長篠
で圧勝した)。
■だったら北のB軍集団は主力ではなく、敵を釣り出すための囮部隊とするべきだ。進撃はほとんど無し、派手に暴れて敵の注意を北の平野部に引き付け、そこに拘束するだけだから、戦力は最低限でいい。対して中央のA軍集団を主力としここに最強の打撃力を持つ部隊を配置する。これが包囲部隊となり高速で敵の背後に回り込み敵主力を背後から強襲する(既に説明したように軍隊は正面方向以外からの攻撃に弱い)。
■ただしこの場合、A軍集団にはドイツ軍大好き高速機動が必須だが、一気に英仏海峡の海岸線まで進出する手段が無い。戦闘中の敵国内だから、これまでのように鉄道は使えない。
■鉄道が使えないなら、トラックと戦車、すなわち自力で高速移動しちゃう機械化部隊を投入すればいいのザマス。よって高速機動のための機甲部隊をA軍集団に集中配備する(戦車部隊には打撃力と同時に速度が求められたのである)。その機甲部隊は強力なマジノ線が切れる北限、ベルギー南部の丘陵地帯、アルデンヌ地区からフランス国境を超えセダンに突入、要衝であるムーズ川(オランダ語ではマース)を渡河する。敵が警戒してないアルデンヌ丘陵地帯の突破は奇襲効果を得る意味もある。
■ただし敵国内を高速移動移動するA軍集団の南面、すなわちフランス国内方向の左翼がガラ空きになる。ここに横槍の形で攻撃を受けたらあっさり壊滅だ(後述するように常識的なドイツの参謀本部の皆さんがこの作戦を断念したのは恐らくこれが理由だと思う)。だがこれほど広大な戦線を防御する戦力はドイツ軍に無く、そもそも高速突破する機甲部隊の進撃速度について行けない。
■防御できないなら攻撃しちゃえばいいのザマス。すなわち奇襲に驚いた敵が反撃に出る前、敵部隊の集結中にA軍集団から分離した攻勢防御部隊が南部に突入、敵が態勢を整える前に叩く、それが無理でも敵の注意をこちらに引き付ける。即ち攻撃こそ最大の防御なり。
■後は敵がこちらの包囲殲滅の意図に気付く前、そして脱出する時間を確保する前に、高速機動部隊が海岸線に到達、敵主力のケツを封鎖してしまえば終わり。恐らくダンケルク周辺がその封鎖地点になる。
■ただし西の平野部から敵が脱出する可能性があるので、戦車部隊に続く自動車化歩兵、すなわちトラックに乗って高速移動できる歩兵部隊が主要街道沿いの街を占拠し脱出路を塞ぐ。さらに一帯には後から歩兵部隊が追随して、どんどん占領してしまう。
といった所でしょうか。要約してしまえば、B軍集団が逃げ場の無い北部平野に敵主力を誘い出した上で戦闘に巻き込み拘束、その隙にA軍集団が高速機動で海岸線に到達、敵の退路を断って包囲殲滅戦に入る、という事です。目新しい要素は高速機動にモルトケ以来のドイツ軍大好きだった鉄道ではなく、機械化部隊、エンジン積んで高速に移動できる戦車とトラックを利用した点でしょう。逆にいえば、それ以外の点では高速包囲殲滅大好きドイツ参謀本部伝統に乗っ取った作戦に過ぎないのも事実です。
この辺り、なぜ高速機動による包囲殲滅が大好きなドイツ参謀本部で他に誰も思いつかなかったのだろう、という疑問もあります。実際、数学ハルダーなんかはオレも同じことを考えていた、と戦後に述べてます。まあ、ハルダーの場合、いろいろ怪しいですけどね(笑)。この辺りは恐らく多くの参謀が似たような作戦を考えはしたんだけど、高速移動の手段に機甲部隊を使う事を思いつかなかった、機甲部隊の事を良く知らなかった、A軍集団の側面がガラ空きになる問題に対する解決策を思いつかなくて断念した、といった辺りが実情では無いかと思います。
ついでにながらこの作戦におけるA軍集団の機動を例のリデル・ハートは軸を中心に旋回する回転ドアと表現し、フリーザによる「電撃戦という幻」でもそれを踏襲してますが、判りにくいだけの比喩なので止めた方がいいでしょう。単に高速機動による包囲殲滅に過ぎません。リデル・ハートはその程度の人です。
ちなみにヒゲのハイテンション野郎(ドイツ語だとヒトラー総統)も後に、オレがこの作戦を考えたのだ、と述べていますが正しくありませぬ。彼は主力部隊がアルデンヌの森経由でセダンからフランスに進入する、という進撃路を思いついただけで、そこから先の包囲殲滅なんて全く考えてませんでした(後にグデーリアンから作戦の説明を受けた時、セダンでムーズ川(オランダ語ではマース)を渡河した後どうすんの?と質問して来た、とグデーリアン閣下が述べているから、何も考えていなかったのは間違いない。一気に海岸まで突破します、と応えると黙ってしまったらしいので、恐らく何をしたいのが理解できなかったのだと思う)。
■グデーリアン見参
このナイスな作戦を考え付いたマンシュタインは速攻で意見具申の書類をまとめA軍集団指令のルントシュテット将軍の許可を得た上で、犬猿の仲である「上司」ハルダー参謀総長に送り付けます。「電撃戦という幻」によるとマンシュタインは10月31、11月6、21、30日、12月6、18日、そして年が明けた1940年1月12日と合計7回も意見具申をハルダー相手に行ったとされます。さすがにちょっと執拗だな、という印象ですが、この辺りは相手が大嫌いな上司ハルダーという部分が少なからずあったのかもしれません。
ただしマンシュタインも、自分の作戦に対して完全な自信を持っていたワケではなありませんでした。主に歩兵畑を歩んで来た彼は機甲部隊が丘陵地帯のアルデンヌ森林地帯を突破し、その後一気に海岸線まで走破できるのか、という点に完全な自信が無かったのです。ただし幸いなことに、間もなく同じA軍集団にドイツ軍最高の機甲部隊専門家、グデーリアン将軍が配属となります。マンシュタインはこの点の疑問をはっきりさせるべく、1939年の11月末にグデーリアン将軍に相談を持ちかけたのです。
■Photo:Federal
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疾走する指揮官グデーリアン閣下ついに登場。マンシュタインから相談される形で電撃戦の舞台に上がる事になったのです。さらにマンシュタインが左遷されてしまった後(後述)は、その主役となってドイツ軍を引っぱって行く事になります。本人の回想録によるとドイツ軍の再軍備前、1929年ごろから既に機甲部隊の研究を始め、部隊にオートバイとトラックを改造した装甲車程度しか無い中でも機甲部隊こそが陸軍の主力となると確信していた、としています。すなわち第二次世界大戦開始時には、既に機甲部隊一筋十年の大家だったわけです。世界一の戦車屋だったと言っても決して過言ではないでしょう。
しかしドイツの将軍ってどれもこれも目からビームやレーザー程度は普通に発射しそうな面構えの人が多いですな。
グデーリアンによるとA軍集団に配属が決まった後、司令部があったコプレンツ(Koblenz)には11月中旬に移った、との事なので恐らくその直後にマンシュタインが相談を持ちかけたのでしょう。そこで作戦の概要を聞いたグデーリアンはマンシュタインの考えに全面的に賛成しました。この点、グデーリアン自身が第一次世界大戦時にアルデンヌ地区を通過したことがあったのも幸いだったでしょう。さらに高速機動作戦成功の条件として、可能な限り最大数の、できれば全機甲部隊をA軍集団の攻勢部隊に配備する必要がある、と助言しました。最強の打撃力を誇る戦車部隊は集中運用でこそ最大能力を発揮するからです。逆に少数の分散配置では各個撃破されてオシマイ、という可能性が出て来ます(百人のジャイアン軍団は無敵だが、一人のジャイアンではドラえもん抜きの状態でのび太に負ける事が状況次第で発生する。「ドラえもん」てんとう虫コミックス6巻参照)。
この時の話し合いを基に12月4日にマンシュタインは参謀本部に作戦案を送った、とグデーリアンは述べています。よって12月6日提出された五回目の意見具申の前に話し合いがあったと見ていいでしょう。
ただしこのマンシュタインの意見具申は、当然のごとく陸軍総司令部(OKH)から歓迎されませんでした。理由は恐らく二つ。まず参謀総長のハルダーは数学大好きでもマンシュタインは大嫌いであり、ライバルであり犬猿の仲だったマンシュタインからの提案を受け入れ、自らの計画を破棄するだけの人間的な器量は持っていない人物だったこと。そしてもう一つは、そもそも軍最高司令官であるヒトラー総統の意見を基にした作戦である以上、それが間違えていると判っていてもどうしようも無かった事でしょう。
このため1940年の1月に至るまで意見具申を行い続けたマンシュタインは疎んじられ、A軍集団の参謀を解任された上に、27日付で第38軍団の軍団長へ転出する事になるのです。この第38軍団は未だ編成が終わっておらず、書類上だけの机上の存在であり、さらに軍団の指揮官ですから(軍集団、軍に継ぐ規模の編成が軍団)、参謀総長の座に近いと言われていたマンシュタインに取っては完全な左遷でした。この辺りの人事は参謀総長のハルダーによるものでしたから、ある意味で嫌がらせに近いものもあったと思われます。こうして対フランス戦の開戦前にマンシュタイン案は握りつぶされ、本人も左遷されてしまってお先真っ暗、という状況になるわけです。
ところがここから数々の大逆転が起こり、あれよあれよという間にマンシュタイン作戦がドイツ軍の作戦案として採用され、電撃戦に至る道が開けることになるのです(ただしマンシュタインは左遷されたままだった…)。その最大の理由が、例によってパラノイアのヒゲの伍長(ドイツ語でヒトラー総統)の気が変わった事でした。
では今回はここまで、次回、その辺りの事情を見て行きましょう。
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