電撃戦とOODAループ

今回からドイツの三大発明の一つ、電撃戦(Blitzkrieg)を取り上げます。参考までに残り二つは、内燃機関自動車と9oパラベラム弾。
これは近代戦の大革命であり、同時に無意識のうちに高速OODAループを様々な角度から取り込んだものであるため、まさに「勝つためのOODAループ」として最適の題材だからです。

電撃戦とは

電撃戦と聞くと1940年、シベリア鉄道経由で日本からナチスドイツに贈られた「黄色い電気ネズミ師団」によるフランス侵攻の事と思われがちですが残念ながら俗説ピカ。その実態はドイツが産んだ天才の一人、グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)閣下と、堅実な貴族系の秀才、マンシュタイン(Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein)閣下の合作で産まれた、人類の戦争の形態を変えてしまう戦術でした。ちなみにグデーリアンも貴族の血筋で、その回想録を読むとヒトラー伍長相手に自分の血筋と家系の歴史自慢話をブチかましたしりしております。グデーリアン閣下でこうなんだから、他の連中はさらに酷かったんだろうなあ、そりゃヒトラー、バリバリの平民出でコンプレックスの塊なんだから、貴族系ばかりの軍上層部を嫌うし憎悪するよね、と思う。おそらく逆に参謀本部の連中はヒトラーの事をあの平民の素人が、くらいに思っていたはずだし。



■Photo:Federal Archives

人類の戦術屋十傑衆くらいに入れる才能を持つ上に、戦場指揮官としても一流の才能があった恐るべきドイツ軍人、グデーリアン閣下。ちなみに有名なこの写真、自信満々であり電撃戦成功後の写真みたいな印象を持たれてますが、実際の撮影は1938年11月で開戦前の段階だったりします。そういった人物なんでしょう。


ただし生み出した本人達もその破壊力と効果は想定外であり、最初から狙って行われたモノではありませんでした。電撃戦の呼称も作戦後に出て来たものです。

そもそもフランス侵攻戦に関しては、オトリ部隊によって敵を釣り出し、これを奇襲によって包囲殲滅するだけの作戦のはずだったのです。ところがその包囲殲滅の過程で、単に進軍してるだけで、あれよあれよと敵部隊が勝手に壊滅してしまう事態が発生し始めます。この点、敵の英仏連合軍はもちろん、ドイツ軍上層部、さらには参加してる本人たちまでもがその破壊力に驚愕する事になるのです。ただし動物的勘で勝手に電撃戦に自主参加してしまったロンメル暴れん坊将軍だけは本能的にその結果を予見していた感じがあります。ただ動物的本能で動く人なので、その成功体験を基にアフリカで戦った結果、当初は成功するものの、電撃戦の限界、補給のお粗末さのために最後に敗北する事になるのですが(補給不足はドイツ軍全体の問題で、かつ地中海を渡るアフリカへの補給部隊を叩き続けたイギリス側の努力も大きい。さらに敗北時に本人はアフリカに居なかったわけだが、根本的にロンメルに補給軽視の傾向があったのは否めない。補給の問題が勝利に必須では無いのが電撃戦の特徴の一つだが、それでも作戦限界を決めてしまうのはやはり補給なのだ)。

では具体的に電撃戦とはどういったものか、と問われた場合、筆者は以下のような戦術を指すと考えています。

■敵防衛線を迂回する、あるいは防衛線の弱い部分を見つけて集中突破し、時間が掛る上に被害も大きい大規模な戦闘を回避する。

■そこから高速部隊が敵勢力圏内に突入し、後方部隊を無視、あるいは最低限のけん制だけを行って一気に奥地まで侵攻する(21世紀初頭の現在まで、これが可能な部隊は機甲部隊、すなわち戦車、装甲車、トラック等で兵員と火力を高速で送り込める機械化部隊のみ)。

■敵の背後に進出した高速部隊がそのまま敵兵力を包囲し、戦闘準備が出来てない後方部隊から殲滅を開始、包囲殲滅戦に入る。この結果、敵は全滅するか降伏するかの二択しか無くなる。

以上のような戦闘の利点としては、

■戦闘準備が入念に成されている敵最前線相手の戦闘を避ける事によって自軍の損失を抑える。

■戦線の後方に展開する敵部隊は通常は戦闘態勢になく、まともな戦闘ができない。よって一方的に蹂躙、あるいは存在を無視できるため、高速な侵攻が可能となる。

■この高速侵攻により撤退、あるいは増援の時間を与えずに素早く敵への包囲網を完成させてしまう事が可能。後で見るように包囲殲滅戦は紀元前から現代に至るまで最強の戦術であり続けているから、この段階で勝負は決まる。

同時にこれらの高速侵攻により、OODAループ的にもまた、多大な成果が得られるのです。その辺りを理解するためにOODAループの基本形を改めて確認して置きましょう。



電撃戦におけるOODAループ運用上の利点としては、以下のような点が上げられます。

■高速で敵陣深くに侵入するため、接触、発見の報告を短時間で大量に敵陣に発生させる。すなわち「観測」結果の膨大な発生を引き起こせる。このため「観測」結果の報告が殺到する敵の司令部&指揮官の情報処理能力は速攻で限界を向かえて飽和し、OODAループは停止する。ループが回らない以上、いつまで経っても敵は「行動」すなわち反撃に至る事ができない。

■自軍が高速移動しているため、敵はその現在位置の確認に追われ続ける。よっていつまでも「観測」が続き、その先にまでループを進める事ができない。ループの完全停止である。これは司令部が新たな命令を出せなくなる、という事でもある。命令無しで軍隊は動けない。このため少なくとも本格的な反撃作戦に至る「行動」は不可能となる。



要するにこの状態に追い込める、という事です。いつまで経っても「観測」段階で留まり続け、最後の「行動」に至れません。「行動」に至れない以上、まともな反撃は不可能なのです(散発的な物は可能だがその有効性は指揮系統の自由度による。この点は連載中に後述)。その間、こちらは一方的に敵の包囲殲滅にまで進んでしまうんですから、そりゃ強いわ、という戦術なのです。

さらに言うなら、敵の「行動」どころか「判断または仮説作成」すら行わせないので(行ったとしても正しい「判断」と「行動」に至る可能性は極めて低い。すなわち無意味である)、一切の作戦指示が行えない、指揮系統の完全な麻痺を敵軍に引き起こします。その状態で一方的に敵から攻め込まれ、さらに包囲されつつある、という状況に敵部隊が気が付いた段階で、パニック、士気と組織的秩序の喪失、すなわち大混乱が発生しやすくなります。このため敵兵はまともに戦闘すらしないまま、恐怖に駆られて我先に逃げ出す可能性が高まるのです。実際、これまでに人類が成功した電撃戦では孫子の兵法の理想形とも言える「戦わずして勝つ」現象が必ず発生しています。

人類と電撃戦

ではこれまでに人類が行った電撃戦を紹介しておきましょう。ちなみに厳密に言うと、人類が行おうとした、となります。なぜならば、完全に成功した電撃戦は未だに一度も無いからです。全ての成功例で敵を壊滅状態に追い込む、までは成功していますが、最後の包囲殲滅まで辿り着いた事は未だに一度もないのです。

まず人類初の電撃戦は恐らくチンギス・ハーンのモンゴル帝国がやったと個人的には推測してます。ただしあの人たちはまともな記録を一切残さなかったため詳細は判りませぬ。モンゴル帝国の公式記録は漢訳版を読むだけで死にそうになる「元朝秘史」しかなく、しかも死にそうになりながら読破しても軍事的な記述は皆無なのです(経験者談)。さらにモンゴル帝国の基本方針として敵は皆殺しか殲滅なので全員死んじゃったか、生き残った連中も思い出すのもいやだったかでまともな記録が無く(イスラム圏は「世界征服者の歴史」などいくつかの記録を残したが、バクダッドの都市攻防戦などが主)、なんであんなに強かったのか正確な所は誰にも判らんのです。

モンゴル帝国は事実上の迫撃砲というか榴弾砲を使っていたので戦術以外、兵器面でも強かった可能性があります。それでも騎馬兵が主である事、ヨーロッパ戦線までの到達速度が異常であることなどを考えれば、速度を生かして電撃戦のように戦っていた、と考えるのが妥当かと思われるのです(火薬で爆散する鉄球及び陶器製の手榴弾を実用化していた。いわゆる“てつはう”である。この実物は元寇船から引き上げられている。ヨーロッパ戦線では投石器を使って投じていた記録があるから日本でも使っていた、と考えていいだろう。モンゴル帝国は秘密兵器、イスラムの投石器を改良した回回砲を持っていたから運用は得意だったはず)。



九州国立博物館に展示されている、沈没した元寇船から引き上げられた「てつはう」。1281年の弘安の役の時の沈没船のものらしいです。てつはうの上には穴が開いており、ここから中に火薬と鉄片を入れ、爆発時の殺傷力を上げてました。穴から導火線を出して着火してから投じていたと思われます。ちなみに直径15p、3sほどで、砲丸投げの砲丸より大きいですが、中が中空な分軽く、ちょっと練習した人間なら10mくらいは投げれそうです。ただし蒙古襲来絵詞などでは元軍側の頭を超えて飛んで来ている事、ヨーロッパ侵攻時には投石機を使っていたという記述がある事、右奥に見える石弾等も見つかっている事などから元寇軍は投石機を持ち込んでいた、と筆者は推測しています。ある程度の距離が無いと自分も危ないですからね。日本に投石機があった事は無いため、日本側では最後まで何が起きているか判らないままで、ゆえに記録も無いのでしょう。



とりあえず正式に記録が確認できる、という条件の電撃戦は既に述べたようにナチスドイツ時代のドイツ陸軍の天才、グデーリアンが行った機甲師団による電撃戦が最初でしょう。この点、良く知られる低地諸国&フランス相手のいわゆるフランス戦ではなく、その前のポーランド侵攻から、既に基本的な思想は同じである作戦が行われていました。ただしこの時はポーランド側の抵抗も戦力も十分とは言えず、その効果が最初に確認されたのは、やはり1940年5月に始まる対フランス戦と思っていいでしょう。ただしこの人類初のまともな電撃戦はあまりの成功にビビった最高指揮官、ヒトラーが作戦指揮に乱入したため、最後の最後で包囲殲滅に失敗します。

その後、第二次大戦中にロンメルによるアフリカ戦線、ナチスドイツの最後っ屁であるアルデンヌ攻防戦(バルジ攻防戦)、対してアメリカのパットンによるフランス横断大作戦など、電撃戦に近い戦闘がいくつかありましたが、どれも筆者の考える電撃戦には足りぬ、という感じなのでここでは取り上げません。

次に成功したのは1950年の戦争ながらまともな記録が全くなく、何考えていたのかよく判らん電撃戦です。
これは朝鮮戦争開戦時の北朝鮮による機甲師団の南下によるものでした。6月25日の早朝に38度線を超えてから三日で韓国の首都ソウルを突破、最終的に300km近くも進撃して、約一か月後には韓国軍と慌てて日本から応援に来た米軍を朝鮮半島南端、釜山一帯に追いつめてしまいます。韓国政府というか、あの大統領を信用して無かったアメリカがまともな兵器を与えておらず、韓国軍には戦車も航空機もロクに無かった故に成功したのですが、それでも迷わず一気に南下した北朝鮮側の機甲部隊の判断は見事でした。ただし最後は補給の問題から息切れしてしまい、釜山の最終防御線を突破できずに、8月に始まるアメリカ率いる国連軍の攻撃の前に敗れ去ります。さらに言うなら北朝鮮軍の場合、実は何も考えて無かった、という可能性も高く、少なくとも本格的に包囲殲滅を狙ったとは思えない動きをしてるのも事実です。とりあえず行くとこまで行っちゃえ、的な感じで。それでも雪崩式の大勝利を引き起こしてしまうのが、電撃戦の怖さなのです。



韓国の首都ソウルにある戦争記念館には朝鮮戦争(現地では6.25戦争と呼称してた)の展示があります。そこには真っ赤な照明に浮き上がる戦車、第二次大戦時の最強戦車にして朝鮮戦争初期の主役、T-34/85が展示されてました(模型)。これが一気に突入して来たわけで、怖かったんだろうな、という展示になっています。韓国側にとってこの電撃戦はちょっとしたトラウマのように見えました。



狂人と言っていいのにアメリカが選んでしまった初代韓国大統領、李さんを信用して無かったアメリカは韓国軍には全くまともな装備を与えてませんでした。ついでにこの直前に朝鮮半島はアメリカの防衛線の外という宣言までしていたので、まともな駐留軍も居ませんでした。

さらに当初、日本から送りこまれたアメリカ軍はそもそも占領軍の兵であり、実戦経験も少ない二線級の部隊でした。その連中が持っていたとされるのが右側の75o無反動砲です。ただしこれ、T-34/85相手には歯が立たず、救援どころか自分たちが殲滅されそうになる事態に追い込まれるのでした。

このため、あわてて画面左の最新対戦車ロケット、いわゆるスーパーバズーカーを装備した部隊を送り込みます。ただし日本に在庫は無く、アメリカから送り込んだため到着は7月12日以降、北朝鮮がまいっちんぐな感じに侵攻を開始してから20日近く経ってからでした。


その次の電撃戦までは実に40年近い時間が掛かりました。それが1991年1月に始まった湾岸戦争、いわゆる「砂漠の嵐」作戦における地上戦です。この時、アメリカを中心とする多国籍軍はイラク軍の主力が居座るクウェート国内を避け、その西、イラク領内の砂漠地帯から機甲部隊を高速北上させる奇襲に出たのです。これによってクウェートからイラク国境に至る道を遮断、現地に居るイラク軍を一気に包囲殲滅してしまう、という人類史上最大級の電撃戦でした。その人類史上最大だった機甲部隊が最後に西から東に進路を変えるため、左フック作戦とも呼ばれていました。

ちなみにOODAループの生みの親、ボイドがこの作戦立案に関わっていたらしい事を、当時の国防大臣、チェイニーがインタビューでほのめかしています。実際、この時期にボイドはワシントンDCに呼び出されていました。ただしこの電撃戦も現地の指揮官が作戦の意味を全く理解していないマヌケだっため、途中で部隊の整理のために一日近く進撃を止めてしまい、イラク軍の精鋭部隊を包囲網から逃がしてしまうのです。



今は無き当サイトの記事、「湾岸戦争編」で使った地図。
イラク軍が占領したクウェート国内と国境線一帯には精鋭である共和国防衛隊が配置されていました。これとの戦闘を避けて西の砂漠を一気に北上、北の国境線でイラクとクウェートを結ぶ幹線道路を抑えて退路を絶ち、包囲してしまう作戦です。この機動から左フック作戦の別名を持ちます。成功してればタンネンベルクの戦い(後述)級の大戦果が期待されたのですが、現地指揮官だったアメリカ陸軍の将軍が無知で馬鹿だったため、最後の包囲殲滅には失敗します。海兵隊の将軍に指揮させておけばなあ、と個人的には思う所。


最後は2022年9月、ロシアの侵攻を受けたウクライナ軍が行ったものとなります。当時ハルキウ州南部を占拠していたロシア軍に対し、奇襲を仕掛けたのです。敵前線を突破した機甲部隊は州北部を東に横断、そこから敵占領地区の奥深くを一気に南下します。これは一帯からロシア本土への退路を断つ機動だったため、ロシア側はほぼパニックとなり多くの戦力が戦わずして撤退してしまいます。このためウクライナ軍はほぼ五日ほどの戦闘で約150kmを突破、バラクレアからクピャンスクを経由しイジューム周辺に至るまでの一帯からロシア軍を掃討してしまいました。ただし、この時もウクライナ側に十分な予備戦力が無かったため完全な成功には至りませんでした。逃げるロシア軍を完全に補足できず、最後の包囲殲滅には失敗しています。

といった所が全人類60万3523年の歴史における電撃戦の成功例なのですが、全て最後の包囲殲滅に失敗しているのも特徴です。ただし多くは作戦のまずさではなく、主に理解の無い指揮官の失策によるものだったりするため、電撃戦の価値を少しも損じるモノではないでしょう。 そもそも最後の包囲殲滅に失敗しながらも、戦闘には圧勝してるのです。

といった感じで電撃戦の大まかな内容を見ておきましたが、近代戦の戦い方と、ギリシャ時代(少なくともアレクサンドロス大王時代)からあったっとされる包囲殲滅戦を理解しないとよく判らない部分があるかと思います。次にその点も見ておきましょう。


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