■ボイドのその後の活動 戦闘理論編

次はボイドの戦闘理論とその啓蒙活動の展開を見て置きましょう。

彼の戦闘理論は1976年9月の「破壊と創造(DESTRUCTION AND CREATION)」理論の完成と前後して、同年中にまとめられた講義内容「戦闘の諸形態(Patterns of Conflict)」によるものが最初でした。OODAループが登場するのもここからです。当初は彼の友人へとペンタゴン内でのみ講義を行っていたのですが、同年中に空軍大学で初めて一般に対して講義が行われます。ただし、ボイドはその内容に満足しておらず、以後、何度も改定されながら講義が続けられるのです。最盛時には年30回以上の講義を行ったとされますから、月に2回から3回、広いアメリカ中を回っていた事になり、ボイド、タフだなあ、と改めて思う所です。当然、無報酬ですし。

その後、1982年に「指揮と統率のための有機的設計(Organic Design for Command and Control)」にその内容は進化するのですが、以後も要請があれば「戦闘の諸形態」の講義も行っていたようです。実際、両者は重ならない部分もいくつかあり、この辺りは後で少し見る事になるでしょう。

この両方の戦闘理論を組み上げる背骨となっていたのがOODAループとなります。逆に言えばOODAループは単体では意味がなく、これを使った戦闘理論になって初めて意味を持つもの、という事です。

ちなみに「F-22への道」で見たエネルギー機動性理論と同じように、彼はその戦闘理論に関しても直接出向いて自分で説明するのを好みました。どうも相手に誤解の余地を与えないよう直接説明し、質疑応答を受け、完全な形で説明したかったから、そして常に理論を進化せていたため、以前の説明はすぐに旧式化してしまったからのようです。
このためOODAループとその戦闘理論に関して、書籍はもちろん、論文、レポート、どれもボイドは残してません。講義で配られたパンフレットやスライドが残っており、その講義は一部がYou tube でも見れますが断片的なものに過ぎません。

本人は1997年に他界してますから、21世紀の我々はそれらの資料と、ボイドからブリーフィングを受けた人々の話などからその詳細部分を想像するしかないのです。すなわち、この記事も必然的に筆者の推測を一定量、含みます。この点はご了承のほどを。ただし論理的な話ですから理詰めで考えれば必ず正しい結論に必ずたどり着けます。よって、筆者は一定の確信を持って、この記事を書いおりまする。

■ボイド前夜のアメリカ軍の戦い方

さて、話を戻しましょう。
驚くべき事に1960年代から1970年代半ばまで、まさにベトナム戦の時代とその直後のアメリカ軍上層部では、軍事的な知識の学習は軽視され欠落していました。それは出世に繋がらないからです。ここら辺りは、戦後の国防長官にやたらと企業経営経験者が就任し、その意向が重視されてしまった影響もあったようです。

この結果、軍の上層部は組織の維持管理、そして経理と予算運用には長けていたものの、実戦指導能力は明らかに欠落しているという状況を迎えます。当時はMBA(経営管理修士)の勉強はしていても、孫子やクラウゼヴィッツといった古典なんて知らない、という士官がいくらでも居ました。そもそも軍の教育機関ですら、これらをまともに教える事はほとんど無かったようです。
さらにベトナム当時の若い指揮官、大尉、少佐は朝鮮戦争を知らない世代であり、誰もまともな実戦経験がなかったのです。 これでは地獄のベトナムで戦争なんてできませぬ。

信じがたいような話ですが事実でして、この辺りに関しては先に紹介した本、「A NEW CONCEPTION OF WAR」の前書きの中で、当時佐官級の士官だった退役海兵隊中将  Paul K. Van Riperさんが怒りと共にいろいろ実例を述べてますから、興味のある人は読んでみてください。



1961年1月から1968年2月まで7年間に渡り国防長官を務めたロバート・S・マクナマラ(Robert Strange McNamara)。
わずか2か月ほどの期間ではあったものの、フォードの社長(ただしPresident で最高責任者CEOでは無い)まで務めた人物で、社長国防長官の代表例となっています。

彼がもたらした数値に基づく組織運営がアメリカ軍を効率的にし、軍の制服組の暴走を抑え、大統領と国防長官による文民統制を取り戻したのも確かでした。が、同時にそれが軍人の会社員化を招き、軍事的に素人にしてしまう、という皮肉な結果の一因ともなったのです。

ちなみに彼の三代前、アイゼンハワー大統領が指名した国防長官ウィルソン(Charles Erwin Wilson)は同じアメリカの自動車会社、ゼネラルモーターズの社長でしたし、それを引き継いだアイゼンハワー政権二人目の国防長官マクロイ(Neil H. McElroy)もP&Gの社長だった人です(ただし両者ともこれまたPresident)。巨大な組織である軍を管理するにはそういった経験が重視されたのかもしれませんが、この辺りが軍の会社員化の始まりだったように思います。

この結果、軍の士官は管理職(Manager)ばかりで指揮官(commander)がいない、と言われる状況になってゆき、その影響は重大でした。猫はネズミを捕らなくても可愛いから許されますが、軍隊が戦争で勝てなくなったら単なる無駄飯食いの役立たずです。
そしてこの点はベトナムで完全に証明されてしまう事になったのです。

ちなみにベトナム戦の途中でその地位を去ったマクナマラ以降、大企業社長出身の国防長官は途絶えたので(短期間の長官代理では居たが)、やはり弊害が大きかったのかもしれません。

こういった軍人のサラリーマン化の危機感は当時の軍上層部よりも、ベトナムで実際に地獄を見てきた現場指揮官に強く意識されてました。このため彼らが司令官クラス、すなわち大佐以上に就任し始めた1970年代後半から、より強く意識されるようになったようです。

そしてベトナム後の冷戦の再開で、新たな問題も登場します。
アメリカとヨーロッパは地続きでは無いのに、ソ連は異なる、すなわち開戦と同時に怒涛のように莫大な数の戦車と兵が西になだれ込んでくるのは明白だったのです。アメリカを中心とするNATOがこれを迎え撃つには、アメリカの全陸上戦力をヨーロッパに展開するという非常識な手段しかなく、それでも数の上では不利なのが明らかでした。
では核を使うか、とすると、当然、ソ連側もこれに報復して来ますから、さらに事態は困難になります。これをどうやって迎え撃つのか、だれ一人として考えて無かったのが当時のサラリーマン化したアメリカ軍だったと言えます。

■ボイドと海兵隊

最初にその危機感を強烈に感じたのはアメリカ海兵隊でした。

陸海空に次ぐアメリカ軍、海兵隊は名前の通りだと海の兵隊さんですが、実際は敵前上陸による水陸両用戦(Amphibious)、そして最前線での戦闘を担当する強力な軍隊です。このため揚陸戦から陸上戦まで独立して作戦行動がとれるよう、艦船から航空機、戦車、攻撃ヘリまで自前で持っています。この単独で陸海空で戦える能力から、アメリカによる紛争では真っ先に現地に派遣され、矢面に立たされる軍となっていました。

このため実戦最強というイメージがあり、これを利用して、湾岸戦争ではオトリ部隊にもされたりもしてます(海兵隊の上陸艇がイラク沖をウロウロして砂漠を突破してくる主力、多国籍軍機動部隊から注意をそらした。ちなみに沖縄戦でも似たようなことをやってる)。よってその実戦能力の低下は武力行使をいとわないアメリカの先兵である彼らにとって、文字通り死活問題でした。



陸軍のような歩兵と戦車、さらに支援用ヘリコプター、海軍のような輸送船、強襲揚陸艇(空母に近い)、そして空軍のような航空兵力(必ずしも空母からの運用を前提としない)を持った“第四の軍隊”がアメリカ海兵隊です。

もともとは海軍内の武装警察、護衛兵といった存在だったのですが、腕っぷしが強かった連中なので陸戦兵員として艦からの上陸戦闘も担当していたのでした(帆船時代は敵艦に乗り移っての戦闘もやったはず)。後に海軍から半ば独立(海軍省の管轄なので完全独立ではない)、第二次大戦の対日戦でその存在を大きくアピールし、戦後は、陸海空を一人で賄える即戦力部隊として重宝される事になります。

が、逆にこの軍隊だけの特徴的な戦力は無く、このため、ジャングルと田んぼの中のゲリラ戦となったベトナムでは陸軍だけでも十分だったじゃん、という意見が国内から出始め、その存在が脅かされ始めます。そしてベトナム戦後も続いた冷戦では、大陸国家であるソ連の強大な機甲部隊と核戦力を前に、海上からの揚陸戦を主任務とする小規模部隊の海兵隊の存在意義が問われる事になってしまうのです。すなわち軍の消滅の危機が訪れます。

第二次大戦後に予算争奪を目的として、空軍が海軍不要論と唱えたように、アメリカでは他の軍が不要と見ると、あれを潰してウチに予算を回せ、的な行動が起きることは珍しくありません。その結果、第一次世界大戦後の陸軍航空隊(後のアメリカ空軍)のように、いかに自分達が必要な存在か、を海兵隊は国民に対して訴える必要に迫られる事になったのです。

実際、1973年7月にニクソン政権で国防長官となったシュレシンジャー(James R. Schlesinger)は「既に過去20年以上に渡って行われてない敵前強行上陸のための軍が必要だろうか」といった発言を行っていましたから、問題は切実でした(ちなみにみシュレシンジャーはF-16とA-10の開発許可をした国防長官でもある)。

この結果、出てきたのが身軽で速攻で現地に派遣できる即戦力という面の強調でした。
他の軍隊が派遣の準備に数カ月、そして陸海空の作戦調整と言う面倒な問題を抱えてるのに対し、単独の指揮系統で陸海空で動け、自前の輸送手段も持つ海兵隊の即応力はずば抜けています。

ただし同時に陸海空の専門部隊に比べると全ての戦力が中途半端であり、小規模である事も意味します。その小規模な戦力で、数と火力で勝負するソ連軍と戦えるのか、そしてソ連以外の軍隊が相手でも、小規模戦力しかない海兵隊が各個撃破されてしまわない方法はあるのか、とういう問題が出て来ます。

すなわち、海兵隊が生きる道は世界中のあらゆる戦場に即座に派遣できる即戦力である、ただしその少数戦力で大規模戦力と互角に戦う、場合によってはこれを撃破する必要があるが、それは本当に可能なのか…が1970年代後半から1980年代にかけて海兵隊を悩ました問題だったのです。

そんな中で海兵隊の中で徐々に登場して来たのが、必ずしも強力な火力で正面からぶつかる必要は無い、敵の弱点を叩けばいい、という考え方でした。その考え方とボイドの戦闘理論が奇跡の合体を遂げたのが後に見る機動戦闘(Maneuver warfare)だったのです。
それは敵の兵器や兵を撃破するよりも、その指揮系統と戦意を挫く事を目的としたものでした。簡単に言ってしまえば、高速行動で相手をパニックに追い込み、その実力を発揮させないうちに勝ってしまう、という戦い方です。

■ボイドの戦闘理論と海兵隊と

1987年にアメリカ海兵隊の新たな戦闘理論をまとめた教本(Doctrinal manual)、Warfighting(戦争戦闘)が発行となりました。
これが後に世界の陸戦を革命してしまう戦闘理論、機動戦闘(Maneuver warfare)が世に出た最初になります。

それまでの海兵隊では艦砲射撃や航空支援を含む膨大な火力で敵の本隊を徹底的にたたき、その後で歩兵と機械部隊が堂々とこれと戦って力で制する、といういかにもアメリカらしいマッチョな戦闘が基本となっていました。

実際、太平洋戦争の島嶼戦ではこのやり方で最後まで戦い、日本軍を一掃するのですが、戦力では圧倒的に優位だったはずの海兵隊は最後の沖縄戦に至るまで常に膨大な損害を被っていました。圧倒的に優位に立っていた日本軍相手でこれですから、数と火力と勝るソ連相手にこの手が通じるとは思えないわけです。

ところが冷戦のピークを迎えた1960年代から軍上層部が急速にサラリーマン化し、軍人にして軍事に興味がない時代がやって来たため、何の疑問も無く、以後もこの戦闘理論は維持され続けていました。
さらに強力な火力で叩くべき敵本隊なんて存在しないゲリラ戦によるベトナムの戦場のジャングルと泥濘の中で、海兵隊は強烈な絶望を味わう事になります。

そしてベトナム戦後に改めて冷静に検討すると、強力なソ連軍相手に海兵隊では使い物にならないのでは、揚陸戦も必要ないし、という問題が登場、その存在意義すら問われる事になってしまったのです。

この結果、ベトナムの前線で戦って絶望し、そして幸運にも生き残った若い士官たちが海兵隊の上層部に入り始めた1970年代末から戦術、戦略の研究が活発に行われるようになりました。その舞台となったのが海兵隊の機関誌、Marine Corps Gazette(マーリンコープス ガゼット 海兵隊新聞) で、その紙面で多くの研究が発表、討論され、やがて「機動戦闘(Maneuver warfare)」という戦闘理論の形を成して行くのです。

ちなみに機動戦闘と言うとなんだか皆で走りながら戦闘してるような名称ですが、そういったものではありません。
従来の海兵隊の戦術、敵正面からぶつかる戦い方、まず強力な火力で制圧し、その後、全兵力でぶつかって敵を潰す、というマッチョな戦法を捨て、敵の弱点を突き、敵の戦意を挫き、可能な限り敵兵力とはまともにぶつからず最低限の被害で勝つ、という考え方でした。

その究極系が高速戦によって敵の指揮系統と行動を麻痺させ制圧する、という考え方です。すなわち敵の兵器や兵を叩くより、その指揮系統を叩く事で一気に勝つ、という事です。これこそがボイドの戦闘の理想形であり、そのために使われるのがOODAループの高速化でした。
両者の理想は完全に一致しており、その弱者で強者に勝つための理論の土台を造り、そして背骨となるOODAループの考え方を持ち込んだのがボイドだったのです。

海兵隊は、1980年1月に行われたボイドのブリーフィングで、その理論にいきなり、そして完全に魅了されていました。

これは海兵隊の士官学校の2時間授業に客員として呼ばれたボイドが5時間を要求、乗り気でないまま受け入れられ、行われたものでした。最初は5時間もこのオヤジは何をやるんだろう、という雰囲気の中でスタートしたものの、ボイドによる歴史上の数々の戦闘の説明、その勝因の解説に、ドンドン会場はヒートアップして行きます。そしてこちらも命が掛かってる以上、黙って話を聞いてる連中では無いですから質疑応答が次々と行われ、結局、ボイドの主張した5時間でも全く終わらない事態となります。

この時は7時間を過ぎたあたりでタフなボイドが先に参ってしまいました(笑)。
最後はイスに腰掛けたまま質疑応答に応えていたそうですが、ついに8時間を過ぎた段階で質疑応答の終了が宣言されると、会場内から抗議の声と次はいつ来るのだという声が殺到、ボイドの再公演がその場で決まってしまったようです。

この流れを受け、ボイドは後に海兵隊の戦闘理論(Doctrine)の策定に深く関わって行くことになり、これによって彼らの戦いは根底から別次元に進化する事になるのです。それがいわゆる機動戦(Maneuver warfare )なのですが、この辺りはまた後で。
ついでに私はドクトリンと言う軍事のカタカナ英語が大そう嫌いなので、普通の日本語、戦闘理論とします。ご了承のほどを。

「機動戦闘」を海兵隊の第一教本、すなわち行動原理(Fleet Marine Force Manual 1、いわゆるFMFM-1)であると定めた当時の最高責任者、海兵隊総司令官(Cmmandant of the marine corps)だったグレイ(Alfred M. Gray Jr)は、その理論作成に深く関わった当事者の一人でもありました。
そのグレイが「機動戦闘」がまだ海兵隊内で論争中の段階だった1983年に(つまりまだ海兵隊総司令官に就任する前)、機動戦闘理論の完成に必要な知識を持っている人物が居るならボイドだ、と名前を上げてその支持を表明しているのです。

他にも1979年に海兵隊の水陸両用戦学校(Amphibious Warfare School (AWS))の校長で、ボイドを海兵隊に呼んだ最初の人物の一人、ワイリー大佐(Colonel Michael Wyly)が後にボイドこそが機動戦闘理論の父だ、と証言していますから、世界の陸戦の様相を一変させた教本、「機動戦闘」の完成にボイドは深く関わっているのです。

このため、海兵隊のボイドに対する尊敬は最後の最後まで続きました。
後の1997年におけるボイドの葬儀には、古巣の空軍からはわずかな人数が参列しただけだったのに対し、海兵隊からは多くの士官が参加した上に、儀仗用ラッパ手、ライフル手が海兵隊から派遣されています。このため知らない人が見たら、海兵隊の退役大佐だったと思われても不思議はない状況だったようです。

■ボイドの戦闘理論と実戦

後の1991年の湾岸戦争の多国籍軍の作戦で、本来、その戦闘理論の理想形が完成するはずでした。
ところが現地最高指揮官だった陸軍の将軍がこの点を全く理解してないマヌケだったために失敗に終わります。とりあえず圧倒的な戦力差があったため、戦争には勝ちましたが、本来は包囲せん滅させるはずだったイラク軍の主力部隊をほぼ逃がしてしまうのです。

一方、ボイドの理論など知らなかったはずの1940年に戦われたドイツ軍による西方電撃戦は、その理想形とも言える高速戦闘でした。よりによって自軍の最高指揮官ヒットラーの介入で最後の最後で包囲殲滅に失敗するのですが、湾岸戦争に比べれば9割以上は成功していた理想形と言って良く、このため、当記事では後にこの電撃戦を詳しく見る事になります。

では、その機動戦闘とはどういったものなのか、を知るにはまずOODAループを知り、ボイドが「概念化」と呼んだ考え方を知る必要があります。その辺りは次回以降、詳しく見て行く事になるでしょう。

という感じで、今回はここまで。


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