■空からさらば




そんなわけで、航空機による着弾観測は1930年代中盤から、
米海軍においては、急速に興味が失われてゆく。
そもそもダメもとでがんばっていたのが、急に見捨てられ始めた理由は二つあって、
まず一つはこれまで散々見てきたレーダーの登場だ。

これが戦艦主砲の砲撃照準に使える、とアメリカ海軍が判断するのは、
例のFA Mark.1の実験が成功した1938年のこと。
でもって、ほぼこの段階で、天候やら煙幕やらに影響される航空機への興味は消える。
夜間にも使えないしね。

「日本海軍はどうなの?」

よくわからん(笑)。
航空機による観測はどうもダメっぽいぜ、というのは気付いてたらしいが、
それへのカウンタープランを持っていた気配がない。
一時、日米共に、光学系の進化、つまり測距儀に使われる
レンズやプリズムの精度を上げよう、という方向が行われたので、
まあ、そっち方向でがんばろう、と思ったのかもしれない。

ステレオスコープの測距儀などがこの流れで生み出されるのだが、
ステレオ式、アメリカでは1940年の演習時に、ちょっとでも視界が悪いと、
旧型より使えない、というレポートが出てたりするんだけどね…。

「それが理由の一つとして、残りの一つは?」

もう一つの原因が航空母艦、空母の本格的な展開だ。
これは簡単に想像がつくよね。



最後は結局、世の中は空母なのよね、という話になる…。
つまらないと言えばつまらないが、実は50年以上続いた空母至上主義が
少しずつ崩れ始めている…と言う話はまたいつか…



日米ともに1920年代後半から1930年代にかけて、
一気に空母の開発と配備が進んでしまう。
こうなると、戦艦クラスがいる大規模艦隊には大抵、空母によるエアカバーがある、
と考えるべきで、そうなるとまあ、まかり間違っても砲撃観測機なんて近づけない。
実際、大戦中は、空母機動部隊の40km〜60kmくらい手前で
索敵機が撃墜されるなんてザラだったから、着弾観測なんて問題じゃないんだ(笑)。
それどころか、1940年ごろからは、逆に見つかったら速攻で逃げなきゃならん状態になった。
レーダーのない日本海軍の場合、特に打つ手が全くないんだ。
ほんとにもう、どうしようもないわけさ。

「にゃるほどねえ」

と、ここまで書いておいて、実は例外があった。

「もったいぶって、いったい何?」

一つは演習時の着弾観測だ。
これは各戦艦の着弾が、標的に対しどのアタリに落ちたかを正確に見る必要があり、
航空機で見る以外、現実的な手段がなかった。
なので、単機で目標上空に張り付いて観測、というのは
戦艦の砲撃演習では、一般的なスタイルとなる。
例の着弾確認シートが一番使われたのは、日米共にこれだろう。

そしてもう一つが、対地砲撃、艦砲射撃だ。
レーダーによる照準は、実は海上だから出来た、という面が大きい。
陸上のどこかにある目標をレーダーで捕らえるのは事実上不可能だし、
何より、陸上では水柱が立たない。
なので、最初から最後まで、目標上空に観測機を貼り付けて、
無線で照準の指示を受ける必要があったんだ。
1943年後半以降はヨーロッパでも太平洋でも、戦艦クラスの
主要な任務はほとんどコレになってしまったため、
一時はジャマだから降ろしてしまえ、という話があった
艦載観測機は終戦まで残されたままになる。

が、どうも実際は、一緒に行動する空母から観測機は飛んでる場合が多いようだ。
まあ、450馬力のゲタばき水上機はあくまで最後の手段なんだろう。

まあ、そんな形で、細々とは航空機による着弾観測は生き残ってはいたんだ。

「…あ、ひょっとして?」

うん、お疲れ様、この連載、これにて終了だよ。


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