■その結末

さて、では最後に、ここまで見た合戦の流れを、例の現地地図で確認して見ましょう。



とりあえず、武田軍の攻撃は五段階に分かれており、
各軍団が順番に柵で守られた織田・徳川連合軍の陣地に攻撃をしかけた、とされます。
ただし攻撃の順番は、甲陽軍鑑と信長公記では大きく異っており、
信長公記では最後に馬場信春の軍団が来た事になってますが、
甲陽軍鑑では右翼で最初に攻撃したのが馬場であるとされてますね。

さらに甲陽軍鑑によると、軍団は左翼、中央、右翼の三つに分かれており、
右翼と中央は主に織田軍と、南側の左翼が主に徳川軍と戦いました。
ただし、こういった記述は残りの二つの資料に出て来ません。
この辺りの事実関係は検証のしようが無いので、とりあえず、武田軍は五段階に分かれていて、
それが次々と攻撃して来たのだけは間違いない、という所でしょうか。
ちなみに、この内、騎馬攻撃の記述があるのは信長公記のみで、
三番目に来た小幡一党の赤武者の攻撃が騎馬攻撃だった書かれてます。

そして信長公記、三河物語によると、武田軍の全ての攻撃はほぼ無駄に終わり、
主に鉄砲足軽隊によって壊滅させられてしまった、とされます。
ただし武田側の記録である甲陽軍鑑では、武田軍の右翼は最低でも一段以上の柵を突破して
佐久間の軍団が守っていた陣地に攻め入ったとされています。

先にも書いたように、この辺りは榊原家の家譜でも同様の記述がありますから、
織田、徳川陣ともにある程度、柵を突破されていた可能性が高いです。
鉄砲による被害は甚大だったと思われますが、それだけで決着が付いたわけでなく、
最後は柵による防護陣地の構築が、大きなカギになっていたと思われます。
なので武田軍も全員が全員、鉄砲で撃ち倒されたわけでは無いようです。

さて、もう一度、同じ図を。



ここで他の軍団と違い、防護柵に対する単純な突撃以外の戦法を
現地で模索したのが左翼の山県軍団でした。
甲陽軍鑑によると、柵が切れるであろう、南端部の川沿いに迂回しようとしたとされ、
これを阻止するために徳川側から大久保兄弟が討って出て、柵の外での戦いとなったと書かれてます。
山県軍団の動きについてはほかの資料に記述は無いのですが、
三河物語に大久保兄弟が柵を出て戦った事が書かれてますから、おそらくこの辺りは事実でしょう。
が、結局、その行動も阻止されてしまい、さらに山県本人は鉄砲で撃たれて即死してしまいます。

ちなみに戦場にいた武田四天王の三人のうち、内藤のみ、
その最後の記述が無いのですが、おそらく乱戦の中で戦死したと見られます。
ただし、例の四戦紀聞では、内藤も撤退戦まで生き残り、
最後に勝頼の退却を確認してから引き返して戦い、戦死したことになってます。

とりあえず五段階の突撃すべてが終わっても、織田・徳川の防御陣地を抜けなかった武田軍は、
将も兵も大半を失ったため、勝頼が持っていたと思われる予備兵力を温存したまま、敗走に入ります。
それを見て、織田・徳川連合は柵内から討って出て、追撃に入ります。
この時、信長公記では、さらに後方からも攻撃があったと書かれてます。
おそらく長篠城から西に向かって進んできた酒井奇襲隊を指すと思われますが、詳細は不明。
とりあえず、武田軍はすでに完全に包囲されてたのは間違いないでしょう。

この時、勝頼が逃げ切るのを助けたのが馬場のようで、その戦いぶりは甲陽軍鑑だけでなく、
敵である信長公記でも見事なものだった、と称賛してますから、よほどの戦をやってのけたのでしょう。
ちなみにこの段階で馬場はすでに60歳を超えてたはずで、スーパーナイスミドルという感じですね。

その馬場が最後に戦死した(事実上の自殺だが)のが長篠橋の辺りとされ、
これは滝沢川を超えて長篠城の北に出る伊奈街道の橋だったと思われます。

が、織田・徳川側はこの地における包囲殲滅戦を狙ってるのですから、
既にこの橋まで酒井奇襲部隊が進出していて、武田軍の退路を断っていたはずです。
このため、信長公記にあるように、ここに追い込まれ、逃げ場を失った多くの兵が
橋以外の場所で川を渡ろうとして溺れ死んだようです。
さらには山に逃げ込んで、道に迷った挙句に餓死したものも多かったとされますから、
やはり退路はほぼ完全に封鎖されていたと思われます。

ちなみに個人的には酒井の性格と強力な火力からして、橋を抑えるどころか、
対岸に渡って武田軍の追撃をやってたと思われるのですが、確証は無し。
ついでに合戦中も背後から武田にちょっかい出してたと思われ、
信長公記に二度ほど記述がある後方からの攻撃というのが、それじゃないかと。

でもって、武田軍としては、ここを無事に突破してもその先には長篠城があり、
そこにも兵は居たでしょうから、結局、その退路としては
滝沢川を渡らず、川沿いに北に向かうしかありません。
ここで同じ地図をもう一度。地図の右上から川沿いに北に向かうと鳳来寺です。




これが信長公記にある「鳳来寺の方へ」という道で、この北には
8世紀、飛鳥時代に開山した鳳来寺という古刹があるのです。

有海原からその鳳来寺に向かう川沿いの道が鳳来寺道でした。
ただし、現在みられる鳳来寺道が整備されたのはおそらく江戸期以降、
家光によって寺の大造営がされてからでしょう。
今では全く面影が無いようですが、鳳来寺は江戸時代になると
多くの参拝客が訪れる全国的に有名な寺でした。
(徳川家康の生母が参拝したら、家康が生まれた伝説があった)

なので合戦当時の段階で、この道がどの程度まで整備されていたのかは不明で、
おそらくほとんど獣道のような道しかないところを、
武田軍の生き残りは抜けて逃げたのではないか、と思われます。

この道を通った場合、北の鳳来寺山の下で伊奈街道と合流、
さらに飯田街道に入れば駒場(現在の阿智村)に出る事が可能です。
信州に残っていた高坂弾正が勝頼の敗報を受け、
急ぎ8000人(品第五十二の記述。品第十四だと1万1000人)の兵を連れ、
この駒場まで勝頼を迎えに来た、とされています。

その他、勝頼が逃げる途中のほのぼのエピソードなどが甲陽軍鑑にはあるのですが、
合戦そのものには関係ないので、ここでは端折ります。

さて、最後にこの合戦での戦果ですが、数字らしい数字は、
信長公記にある武田軍の損害が「侍(指揮官)、雑兵、一万ばかり討死」の記述のみです。
これが長篠城の抑えの部隊も含む15000人全体の数字なのか、
設楽ヶ原で合戦した12000人だけの損失かははっきりしないのですが、
それでも1万の損失となると、事実上の全滅に近く、これはちょっと多すぎる気もします。
が、何度も書いてるように、武田軍の退路を断った上で、圧倒的多数による
包囲殲滅戦をやってるわけですから、その可能性がゼロとは言い切れません。
実際、そうだったかも知れないのです。

特に街道を抑えられた山中に取りこのされたのですから、討死しなかった兵の多くも
ほとんどが梅雨で増水した川で溺れたか、山中で迷って死んだ可能性が高いでしょう。
(よほどの地理勘と山歩きの経験のある人間でないと、
単独で長篠から信濃の国までの深い山間を突破して帰れるものではない。
さらに途中の住民に殺される事も多かったろう)

いずれにせよ、指揮官級の武将の内、武田一門でない人間のほとんどが戦死してしまってるのに対し、
織田、徳川方にそういった損失は全くありませんでしたから、完全な圧勝です。
同じような一方的な勝負に終わった、2年半前の三方ヶ原の戦いの時、
負けた織田・徳川連合軍の指揮官級で戦死したのは織田軍の平手汎秀(ひろひで)だけでした。
これに比べ、長篠の戦いで負けた武田軍の名のある武将の損失はまさにケタ違いですから、
これが包囲殲滅戦、そして新兵器の鉄砲の恐ろしさなんでしょう。

ちなみに例の(笑)四戦紀聞だと、
武田軍で首を取られるもの1万3000とさらに大きな数字になってます。
対して織田・徳川の雑兵の損失は負傷(手負い)と討死合わせて6000人。
決して少ない数ではないですが、これは負傷者を含むとされるので、
戦死だけならずっと少ない事になります。
まあ、いずれにせよ、信用できる数字か、と言われると微妙ですが(笑)。
(ちなみに四戦紀聞での織田・徳川連合の数は織田軍5万人、徳川軍不明となってる)

とりあえずこの長篠の戦いは日本の合戦史上、極めて稀にみる完全な包囲殲滅戦で、
さらにそこに新兵器の大量投入という面まで持つ、という非常に興味深い戦いであったのは事実です。
(ただし先にも書いたが、最初に鉄砲の大量投入がされた合戦というわけではない)
21世紀に至るまでの日本の軍事屋さんで、まともな包囲殲滅戦を成功させてるのは、
おそらく、この時の信長だけじゃないかと思います。
犠牲となった武田軍としてはタマッタもんじゃないですが、後世の人間としては、大いに参考にするべきものです。

といった感じで、予想以上に長くなってしまったこの記事の連載はここまでとします。


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