■騎馬伝説と部隊配備
さて、最後は武田騎馬伝説について。
当然ながら、この時代の馬は現在の乗馬や競馬に使われる
サラブレッドようのな大型馬ではなく、古代に朝鮮経由で入って来た
在来馬と呼ばれている小型馬だった、というのはよく指摘されてる通りです。
(すくなくとも弥生時代以前の日本に馬は居ない)
画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
寛政7年(1795年)に描かれた騎馬武者の絵。
武士の装束とかは既に実戦向けではなく、江戸時代の形骸化したものだと思いますが、
とりあえず、馬が人に比べてかなり小さいのを見て置いてください。
絵の演出、という面もあるでしょうが、ロバじゃないの、という感じすらあり、
一歩間違えると動物虐待ではないか(笑)、という乗馬になっております。
長篠の戦いは、武田の騎馬軍団を織田・徳川の鉄砲が破った、
という説明をよく見かけます.
その内、鉄砲の威力が事実だったのは既に見ました。
が、残り一つの条件、騎馬軍団については
すでに何度も書いてるように微妙だったりします。
とりあえず武田側の記録である甲陽軍鑑では、
武田騎馬軍団説を完全に否定、騎馬突撃なんてやっとらん、と書かれてるのです。
甲陽軍鑑 品第十四の記述によれば、
「馬をば大将と役者と一そなへの中に七八人のり」
すなわち部隊の中では大将(指揮官)と役者(役人。この場合は大将の一族などか?)が
7~8人ほど馬に乗っていただけで、他の足軽などは、
「おりたつて鎗をとって一そなへにかかる」
つまり全て馬を降りて鎗部隊として戦った、と書かれてます。
騎馬は移動手段であり、戦闘手段ではない、という事でしょうかね。
なので長篠の戦いで防護柵によって武田武者(騎馬兵)を倒した、
という話もウソだと書かれており、長篠の戦場は馬を十騎ですら
まとめて走らせることができるような地形では無かった、としてます。
ただし後者は怪しく、当時は木などが茂った原野だったとしても、
十騎くらいなら、十分、走れる平原だったはずです。
この辺りは現地に行ってない高坂弾正の限界でしょう。
ただ、騎馬突撃はやってない、という話はある程度、事実のようです。
信長公記によると、五段に分かれた武田側の攻撃の内、
騎馬突撃だったと明確に書かれてるのは三番目の突撃のみです。
さらに三河物語では騎馬武者に関する記述は皆無となってます。
とりあえず、長篠の戦いでは、武田は騎馬軍団ではなかった、
基本は徒歩の槍部隊だった、と考えてほぼ間違いないでしょう。
ちなみにこの騎馬武者突撃で壊滅、という話は甲陽軍鑑を信じる限り、
合戦後に織田家が流したプロパガンダとされており、
事実なら日本人は500年を超えて信長に騙されていた事になります(笑)。
余談ですが陸軍参謀本部による長篠の戦史、
そして菊池寛の日本合戦譚でも騎馬突撃について触れてないので、
どうもこの辺りも、戦後になって急に広まった話のような気はします。
はい、といった感じで今回はこれまで。
次回、ようやく開戦です。
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