■柵と鉄砲と騎馬隊と
さて、いよいよ決戦開始となるわけですが、その前に
長篠の戦いと言えば、これ、という感じの、
織田・徳川連合軍による防護柵の構築と鉄砲の大量投入、
そして武田の騎馬軍団について、少しだけ触れて置きましょう。
まずは防護柵から。
地元の設楽ヶ原周辺では、こういった柵の再現物が数か所にあるようでした。
写真は新東名高速の長篠設楽ヶ原パーキングエリアのもの。
が、実際の柵に関しては、高さも構造も、当時の資料には、なんら具体的な記録がありません。
よって長篠合戦の屏風図のものも含めて、現在、我々が見れる防護柵は、
全て後世の人間による想像の範疇を出ません。誰も現物、見てないんですから(笑)。
この点は、要注意です。
この隙間だらけの柵では槍を構えての突撃に対して、なんら防御になってない、
という指摘は昔からよく見ますが、それ以前の問題として、
ホントにこんな形だったの、というのは誰にもわからないんですよ(笑)。
ちなみに、唯一、防護柵に関する寸法が登場するのは
一番怪しい(笑)四戦紀聞であり、その信憑性は微妙ですが、
とりあえず円周(幅)1尺(約33p)ほどの材木で造られてるとされ、
これが事実なら、もう少し太いものだったと思われます。
それを丸太小屋の壁のように横にした木を積み上げた構造だった可能性だってありますし、
もっと支柱の密度が高かった可能性も捨てきれません。
あるいは柴垣のような構造だったかもしれないのです。
ただし、この時代にはまだ大ノコギリによる杉板は
そう気軽に使える材料では無かったはずで板塀ではないでしょうね。
ついでに、前回も書きましたが“近年の資料”によく見られる、防護柵の前には川が流れてた、
川の名前は連吾(子)川だった、というような妙に詳しい話は、
基本三資料には一切、記述がありません。
かろうじて例の130年後の四戦紀聞に、陣地は川を境目にしていた、と書かれてますが、
川の名前の記述はありませぬ。
恐らくこの辺りの話の元は徳川美術館が持ってるヴァージョンの長篠合戦図の絵あたりであり、
18世紀(1700年代)初期以降、これまた合戦から130〜180年後に書かれたものです。
これは日露戦争の奉天会戦を、21世紀の西暦2050年ごろ絵にしてみました、
描いた本人はそんな戦い、当然見た事ないし写真すら残ってないけどね、というような話であり、
そんなもの信用できるか、という事になります。
よって、この点は完全に無視します。
ちなみに、連吾川の名を私が書籍で確認できたのは、明治に入ってから書かれた
例の陸軍参謀本部の長篠戦史が最初でした(笑)。
とりあえず、わずか3日前後で、幅2q近くに柵、さらに空堀まで造った可能性まであるわけで、
そんな凝ったものでは無かったのだけは確かでしょう。
ここで念のため、各資料それぞれから、柵に関する記述を確認して置きます。
■信長公記
家康が「滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ」とあるだけです。
すなわち滝川一益(おそらく陣地中央に居た)の陣の前に騎馬突撃を防ぐ柵を置いた、
しかもそれは家康がやったのだ、という記述です。
これ以外、一切防護柵に関する記述はありません。
■三河物語
「谷を前にあてて、丈夫に作(柵のこと。三河物語名物の誤字というか当て字)を付けて」
待ち構えていた、と書かれており、柵は谷の後ろにあった、という事になります。
これも記述はこれだけ。詳しい構造は全くわかりません。
■甲陽軍鑑
本文中では前後二か所、品第十四と、品第五十二の中で触れられてます。
柵は三重に造られ(三重ふり)、防御用の要害(切所)として三段に構えていたとの事。
■四戦紀聞
何度も書いてるように、合戦後130年近く経ってからまとめられた
後世の記録なので参考程度ですが、
二重、三重の空堀と土塁(恐らく空堀を掘って出た土で造った)を造り、
そこに目通り1尺(目の前の高さの胴回りで約33p。かなり太いのだ)の材木で柵を設け、
これを要害(切所)として陣地の前に置いた、とされてます。
■参考
前回、ちらっと触れた榊原一族の家譜によると、長篠の戦いでは、
武田軍に第一の柵を突破され、第二の柵まで侵入されたところを、
榊原康政がこれを撃退、武功をたてたとされてます。
よって少なくとも柵は二重以上に築かれていた事になります。
この資料は成立時期が微妙なんですが、榊原家の手による記録であり、
おそらく現場に居た康政の語ったところだと思われるので、参考にはできると思います。
実際、甲陽軍鑑側にも、各所で第一の柵までは突破した、という記述がありますし。
(ただしこの家譜の実物を私は見てない。陸軍参謀本部の戦史からの孫引きである)
ざっと見るとわかるように、意外なほど、柵についての記述はなく、
特に織田・徳川側はそれほどこの柵について関心を持ってません。
やられた武田側の記録である甲陽軍鑑側に多少、詳しい記述があるくらいです。
とりあえずこれらをまとめて見ると、
●騎馬武者対策
防護柵は騎馬武者対策である、としてるのは信長公記のみ。
ただし後で見るように、武甲陽軍鑑では武田軍は騎馬突撃なんてしてない、とする。
さらに言うなら、信長公記ではそもそも柵が陣地全体の前にあったかも怪しい記述となってる。
が、全線にわたって防護柵を構築しないと、隙間を抜けて敵に後ろに回られてしまい、
今度は自分たちが柵によって動きを封じられてしまってかえって危険だ。
よって普通に考えれば、全線に渡って柵は造られていた、と考えるべきだろう。
●谷と堀
三河物語では柵が頑丈に造られていた、さらに地形上、柵の前に谷があったとされる。
一方、四戦紀聞だと谷ではなく自ら堀った空堀だったとされ、堀は二重、三重になっていたと書かれてる。
信長公記、甲陽軍鑑に堀に関する記述は無い。
が、通常、柵だけで敵の突撃は防げるものでは無いので、なんらかの堀があったと考えるべきだろう。
●三段構え
甲陽軍鑑だけが柵は三段構えだったとする。
何度も書いてるが、著者とされる高坂弾正は現場に居なかったので信憑性は一段落ちるが、
榊原家譜によって、少なくとも二段以上だったのは確認できる。
といった感じになります。ここら辺りをざっと図にするとこんな感じです。
陣地の前には堀、あるいは谷が最低でも一つあったはずで、
さらに甲陽軍鑑や榊原家家譜によれば、柵は単純に二重、三重に並んでいただけではなく、
それぞれの間に兵が入っていて、多重防御壁を構築してた事になります。
これはもう完全に砦といっていいもので、本来なら防御戦の戦法です。
実際、甲陽軍鑑には、「さながら城攻めのごとくして」と書かれており、
武田側もまるで攻城戦ではないか、と違和感を感じていたようです。
(この辺りの記述は長篠の戦いに関する品第五十二ではなく、前半の品第十四にあるので注意)
数で圧倒し、攻勢を掛けねばならない織田・徳川連合軍が取った戦法としては異常と言って良く、
これで武田軍が突撃して来なかったら、世紀の大マヌケ作戦、という事になったでしょう。
が、長篠城を取り戻すことで、本来ありえないはずだった武田軍の突撃を
相手に強いてしまったところが信長の戦術のキモでした。
やはり天才なんですよね、この人も。
ちなみにこの防護柵は、その後ろに隠れて鉄砲隊が撃つための防壁、
と“近年の資料”では書かれるのを見かける事がありますが、
これも当時の資料には、そんな記述はありません。
三河物語や信長公記には、柵の外で戦ってる鉄砲足軽が
敵に接近されたり騎馬突撃を待ち受けるとき、一時的に
その背後に入った、と取れる記述がありますが、基本的に
鉄砲足軽は陣地から出て戦っていたとされます。
ではその柵は、本来、どのような目的で造られたのか。
こういった防御的な戦術は本来、数で劣る軍が、多数の軍勢を向かえ討つ時に使うべきものです。
圧倒的多数だった織田・徳川連合なら、こんな面倒なものを造らず、
数で押しつぶすだけでも勝てたはずです。
そもそも敵が先に攻めてこない限り、防御陣地は無用の長物になってしまうのですが、
この点に関しては既に見たように信長式キツツキ戦法によって、
武田軍団の退路を断つことで、他に手を無くしてしまい、解決したわけです。
が、これが出来なかったら、おそらく両者ニラミ合いで終わってた可能性もあります。
(勝頼が自らの意思で突撃を仕掛けた、というのは現場に著者が居なかった甲陽軍鑑の記述であり、
だったらなぜ信長到着から数日間、武田軍は動かなかったのだ、という疑問に答えてない)
長期のにらみ合い覚悟なら、敵の奇襲を防ぐための陣地作りもありですが、
(これはローマ軍が得意とした。またその究極系が第一次大戦の塹壕戦となる)
先に見たように、信長は短期決戦に持ち込む算段をして、酒井奇襲部隊を出してるわけで、
そんな考えを持っていたとは思えません。
この辺りは、総指揮官だった織田信長に直接聞いて確認しない限り、
完全な正解は得られないでしょう。
が、残念ながら本人の連絡先を私は知らないので、
ここではとりあえず私の考えで、推測を立ててみます。
信長公記にあるように、武田の騎馬突撃を恐れた、
というのが一つの理由なのは、ほぼ間違いないと思います。
ただし、厳密にはこの辺りも微妙な部分があり、
武田側の記録である甲陽軍鑑によると、武田軍は先立つこと2年半前の三方ヶ原の戦いでも、
この長篠の戦いでも、騎馬突撃なんて全くやっとらん、と書かれます。
特に長篠の合戦場は騎馬武者が十騎すらも一緒に走れるような地形じゃなかった、
騎馬突撃なんてできるか、とまで言ってるのです(品第十四の記述)。
こうなると、どうも武田軍がホントに騎馬突撃を得意技にしてたのかすら、怪しいところがあります。
(ただし信長公記によると長篠合戦中に一度だけ騎馬突撃があったような記述がある)
それでも、この柵を構えた防護陣地を築いたのは、
騎馬であれ歩兵であれ、とにかく強力な突破力を誇る
武田軍の突撃を防ぐのが第一目的だった、と思われます。
ちなみに敵側の甲陽軍鑑では、これを強敵に向かう知恵である、と誉めてますね。
ただし、それで騎馬武者を破ったと宣伝するのは噓つきだ、と同時に非難もしてますが(笑)。
とりあえず2年半前の三方ヶ原で、織田・徳川連合軍は、
兵を楔形に配置した魚鱗の陣による武田軍の突撃に
押し切られる形で惨敗を喫していますから、相当、警戒はしてたはずです。
楔形、▼形に兵を密集させて突っ込んでくる魚鱗の陣が相手では
どんな分厚い戦線も、一点突破される可能性が捨てきれません。
しかも相手は無敵伝説の武田軍ですから、
織田・徳川側の兵も腰が引ける可能性があります。
となると前線を突破された挙句に、まっすぐ本陣を突かれてしまい、
これを殲滅される恐れはあるのです。
よって推測ではありますが、その突撃対策がこの柵である、という事になるでしょう。
実際、この時の戦いで武田側は三方ヶ原で圧勝したときの魚鱗の陣形が使えず、
横一文字に展開する単純な戦法に終始しています。
さらには、ここから西に敵を逃がさないようにし、後の包囲殲滅戦を
完全なものにするため、という目的もあった可能性が高いです。
信長は戦の前に、チョーラッキー、武田軍を殲滅させるみゃー(意訳)と言ってますから、
この地峡から武田軍の逃げ道を完全に塞ぐため、柵を造った可能性は高いです。
直前の天正二年(1574年)に織田家のお膝元ともいえる長島の一揆を討伐した時、
例によって信長は、これを皆殺しにしたる、と考えました。
このため、一揆勢がたてこもる長島城、中江城の周りに
城内からの脱出防止用に周囲に幾重ものの柵を設け、その上で火攻めにしています。
なので信長にとって柵というのは敵の皆殺しの前準備、という面があったとも思われるのです。
といった辺りが柵に関するお話です。
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