■織田・徳川連合軍の奇襲

さて、では対する織田・徳川連合の状況はどうだったのか。
この決戦場は徳川家の領内でしたが、信長公記、三河物語を見る限り、
全体の指揮を執っていたのは織田信長でした。
そして信長は武田軍が滝沢川を超えて有海原に出たのを見て、
日本戦史上、最大最高の包囲殲滅戦を挑む事を決心し、次々と手を打ってゆきます。

ここで、現地の地形を再度確認しておきましょう。
濃い緑の部分が、大軍の移動は困難な山岳、丘陵部です。
薄い緑色の部分が平野部ですね。



信長公記を読む限り、決戦の数日前には勝頼は主力部隊を率いて
滝沢川を渡って対岸の有海原に入っていたようです。
この時、織田・徳川連合軍の陣から二十町、約2qの間まで進出して対峙してます。

その後、現地に到着した信長は、武田軍が行動が制限される山間の渓谷部で、
退却が困難な大河を背にして、文字通り背水の陣についてるのを見て、
「チョーラッキーだみゃー、武田軍を殲滅するだぎゃー(意訳)」と述べたとされます。
シロウトの私が見ても、その通りでしょう。
となると武田軍の歴戦の指揮官たちは、もう勝てる気がしなかったはずです。
この点、勝頼もシロウトでは無いですから、わかってたと思うんですが…。

ちなみに信長公記では武田軍が城を包囲したまま、鳶ヶ巣山の砦を中心に、
川を正面に置いて高台に布陣したら、織田・徳川連合は打つ手がなかった、
としてますが、これもその通りでしょうね。
ただし、この場合、どっちかが痺れを切らして退却しない限り対陣は続くので、
さらなる長期戦に武田側の補給が耐えられたかは微妙ですが。

参考までに信長公記には、設楽ヶ原は長篠城に比べ低地だったので、
敵からよく見えないよう、うまく隠ぺいしながら兵を配置した、とあります。、
このため、もしかすると武田側は、織田・徳川連合軍の兵数を正確に把握できておらず、
思ったよりも少数だ、と勘違いして合戦に臨んだ可能性もあります。
この時期は梅雨ですから、おそらく道は濡れており、砂塵もあまり立たず、
遠目から敵の軍勢の数を判断するのは結構、難しかったはずです。

さらに2年半前の三方ヶ原の戦いの時には、武田側は織田軍の大規模援軍を警戒してたところ、
実際に救援に来たのは少数の軍勢だけで、これを知った信玄が決戦を挑み圧勝してます。
この経験から、今回も織田はビビッて大した援軍を出してきていない、
と勝頼が判断した可能性も考慮する必要があるでしょう。

さて、この段階で、少しでも戦術眼のある人間なら、
長篠城の位置が持つ意味に気が付きます。
手薄になって残された武田側の包囲軍を急襲して長篠城を奪回し、
この狭い地峡部にある街道、すなわち信州にぬける別所、伊那の両街道を
数千人の軍勢で抑えてしまえば、有海原、設楽ヶ原は完全に封鎖されるのです。

そうなると武田軍は西正面は織田・徳川の大軍に、北は山岳地に、
そして南は乗本川に囲まれた状態に置かれて、退路を断たれ、
事実上、完全包囲された形になります。
後は数で圧倒してる織田・徳川連合に磨り潰されてゆくだけです。
もし、この条件に気が付いてなかった、となると勝頼は相当なマヌケ、という事になりますが…



図にするとこんな感じですね。
通常の包囲殲滅作戦では四方を友軍で囲み、相手の機動力を奪って全方位からタコ殴りにするんですが、
長篠の合戦の場合、山と川という天然の要害が南北で武田軍を封じ込めてしまうため、
左右から極めて効率よくこれを磨り潰してしまえます。
とくに長篠城に向けて地峡は狭くなってゆくため、長篠城には少数の兵力を置くだけで、
完全に地峡部の出口を閉めてしまう事ができるのです。
後は空気を圧縮するピストンのように、織田・徳川連合軍の本隊が武田軍を押し込んで行くだけです。

なので長篠城の救援に成功すれば、後は大軍である西正面の織田・徳川軍が
ゆっくりと前進して武田軍を磨り潰すだけであり、
歴史上稀に見る、完全な包囲殲滅戦の始まりとなります。

さらに記録は残ってませんが、普通に考えれば、武田軍はその糧食などの物資も、
後方基地にあたる長篠城包囲の砦に置いてきてるはずです。
よって長篠城包囲軍を撃破し城の籠城軍と合流に成功すれば、
その段階で織田・徳川連合の圧勝はほぼ確定となります。

ここまで地形を使っての見事な包囲殲滅戦は、ある意味、戦争芸術に近く、
桶狭間の合戦と言い、信長の戦術は時として天才としか言えない面を見せます。
まあ、桶狭間でも、この長篠でも、敵がマヌケだった、とういう面も大きいのですが(笑)…。

こういった地形を使った包囲殲滅戦としては、包囲殲滅戦の永世名人ハンニバルが
ローマ軍相手にやったトラジメーノ湖(Trasimeno/ラテン語読みならトラシメヌス )の戦いが有名です。
紀元前217年の第二次ポエニ戦争の時、湖の北岸を進行中だったフラミニウス率いるローマ軍を
左右から挟み撃ちにし、さらに北からも襲撃して逃げ場のない湖畔に追い込み壊滅させた戦いですね。
これは後のカンネーの戦いと並んで、
ハンニバルの戦争芸術の頂点とされる事が多い戦いです。

が、この長篠の戦いも見事なもので、この地形を使った
完璧に近い包囲殲滅戦の戦術に比べれば、
鉄砲の大量投入なんてオマケみたいなもんでしょう。



グーグル大地様の画像で確認するとよく判りますが、左端に見えてる設楽ヶ原は北が山、
南は深い流れの急流、乗本川に囲まれて逃げ場がありません。
そして画面奥、東に向うに連れてこの幅は狭くなってゆき、
長篠城の辺りで南北から山が迫ってきてるため、城とその対岸にある高地、
鳶ヶ巣山を抑えられてしまうと、この地峡からの逃げ場が無くなります。

そして、決戦地となった設楽ヶ原の南北幅はわずかに2〜3q。
そこで作戦を完全なものにするため、
織田・徳川連合軍は設楽ヶ原の北から南まで前線に防護柵を造ってしまい、
唯一、開けた地形になってる西側を完全封鎖、
武田側の逃げ道を完全に塞ぎ、包囲網を完璧に仕上げて来ました。
信長の大好きな、敵は皆殺し戦法の舞台の完成です。

後は、この柵の前まで敵をおびき出して鉄砲隊によって大損害を与え、
その後から数にモノを言わせた突撃を掛ければ、この合戦は終わりです。

ただし、この防護柵が誰の発案か明確な記録はなく、信長公記では
家康が建てさせた、ともとれる記述になっています。
もっとも、逆に徳川家側の記録ともいえる三河物語では
信長、信忠が有海原(これは間違いで設楽ヶ原)に押し出し、柵を造ったと書かれており、
また意外に短期決戦と力勝負好きな家康がこんな面倒なことはしない思われる事などから
普通に考えると信長の発案による、と見るのが自然でしょう。
(三河物語によると家康は小牧・長久手の戦いで小牧山に築いた砦にすら柵と堀に関して熱心では無かった)

ついでに言うなら、こういった土木工事による合戦、というのは羽柴(豊臣)秀吉が
最も得意としたところなので、彼の発案ではないか、と私は想像してますが証拠はありません。
ちなみにたまに見かける記述、信長は岐阜城を出る段階で
材木を各兵に持たせて行った、という話は宝暦13年(1763年)ごろ、
すなわち合戦から90年近く経ってから編纂された大三川志に出てくるものです。
これを陸軍参謀本部の長篠の役の戦史研究が明治になってから紹介し、
以後、広まったもので、イマイチ信憑性に欠けます。
ある程度の工具、材料は持っていたかもしれませんが、
全材料を岐阜を発つ段階から持ってきたとは思えませぬ。

そもそも現地の地形を知り、そして武田側が川を渡って来たのを
確認した後でないと、この戦法は使えないのです。
となると信長が現地入りしてから合戦当日まで3日の間で仕上げたはずで、
相当な突貫工事であり、この手の仕事が大得意だった秀吉が、
やはり一枚噛んでる気がするんですが、あれだけ自慢話好きの男が、
この点には後にも特に何も言ってないので、違うのかなあ。

ちなみに土木工事好きの戦争の天才には、もう一人、ローマのカエサルが居ますが、
この人も人たらし、とにかくその魅力で周りの人間をどんどん味方にしてしまう、
という秀吉とよく似た面がある人でした。
この両者の不思議な一致は個人的に興味深いところなんですが、
今回のお話とは無関係なので、とりあえずパス。


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