蒸気の縮小、膨張を利用した機関(エンジン)はワットの発明以前にもあったのですが、
熱効率が悪く、燃料である石炭はベラボーな量が必要でした。
これをピストンのある場所と、蒸気を冷却する場所を分離し、
大幅に熱効率、結果的には燃費を向上させたのがワットの蒸気機関でした。
さらに彼はシリンダー(筒)内部を上下するだけの機関から、円運動をさせる方法を開発します。
つまり、それまで水車や風車、あるいは馬で回す回転動力機などに、
この蒸気機関が取って代われる道を開いたわけです。
これによってさまざまな工場動力として、蒸気機関は普及します。
そこからさらに船舶、鉄道の動力にもなって行くわけです。
写真はこれもロンドンの科学博物館にある、ワットが円運動を行うための遊星歯車、はずみ車を試験した装置。
■その1
蒸気機関と日本
英国の場合は、鉱山排水ポンプ->工場据え置き->蒸気船と発達したのですが、
日本の場合はまずは蒸気船でした。
ペリーの黒船のインパクトはでかかったのでしょう。
ペリーも遠征前に、
「日本人は知識としての蒸気船は知っているかもしれないが、
実際に見ることにより近代文明を理解するだろう」
と言っていました。
で、工場用の蒸気機関は、長崎製鉄所が最初で、25馬力だったそうです。
咸臨丸がオランダから日本に回航される際に、積んできています。
やっぱり軍事用が最優先で、民生品工場に蒸気機関が入るのは、明治になってから。
これも、本家イギリスから安価な綿製品が輸入されたおかげで、
日本の零細製造業が全滅し、代わりに富岡製糸場にような大規模工場ができたからです。
江戸にあった関口製造所では、砲口の中ぐり機械とか輸入して
使っていたのですが、こっとは蒸気ではなく水力を使ってました。
これもブルネルの設計による大型船、今度は東で(笑)、グレート イースタン。
1858年建造ながら船体のほとんどは鉄製で、実に総トン数18915トンというバケモノ客船です。
4000人の乗客を運べたとされますから、当時の技術水準をいきなり超越してしまうような船でした。
ただ、あまりにも大型で客船には向いてなかったのか、意外に早く退役、
その後は海底ケーブル敷設船として使われます。
なにせ大西洋とかを横断する長さの電線を載せるわけですから、
大きな船体はその手の仕事には向いてたわけです。
当然、当時の世界最大の船の上、ご覧のように、外輪に加えて、スクリューも搭載されてます。
ちなみに日本じゃ安政の大獄が始まった頃にイギリスじゃこんな船を造ってたわけです。
■その2 蒸気船と海底ケーブル
グレート・イースタンは最後は海底ケーブル敷設船になった訳ですが、
最初の大西洋横断海底ケーブルは、1858年、
つまり日米通商修好条約が調印された年に敷設されています。
これが可能になったのは、大西洋を横断する形で「海底山脈」があって、
超深海にケーブルを沈める必要がないことが分かったからでした。
で、この測深儀を発明した人は、ジョン・ブルックと言う人なんですけど、
実はこの人日米通商修好条約批准書交換使節団の護衛名目で
渡米した咸臨丸の実質的指揮官を努めました。
勝海舟は自分の手柄にしていますが、この人がいなかったら、
咸臨丸、下手すれば沈没していました
1858年の海底ケーブル敷設の際、米国側が使用したのは
当時米国最大の軍艦だったナイアガラでした。
分類はフリゲートですが、これは当時の艦種分類が
大砲の数(大きさは無視)に基づいていたため。
このナイアガラ、日米通商修好条約批准使節団が帰国する際、
ニューヨークから横浜まで彼らを送り届けています。
この時NYで使節一行はグレート・イースタンを目撃して
いますが、「軍艦」と思ったようです。
1858年の海底ケーブルは3週間で使用不能になり、
1866年にグレート・イースタンが再度敷設します。日本に海底ケーブルが
来たのは、1871年、ウラジオストクから長崎までのものでした。
ただ、この時点ではシベリア側の電信網が完成しておらず、
ヨーロッパと長崎が電信で結ばるのは翌年になり
長崎から東京までの電信が完成するのは、もう少し後になります。
この海底ケーブル敷設を指揮したのは、デンマーク人の
エドゥアルド・スエンソンで、この人、フランス海軍に出向し
ていて、幕末の日本に滞在して、慶喜に拝謁したりしています。
■その3 太平洋と蒸気船
アメリカ船が初めて太平洋を横断したのは1790年。
アメリカ軍艦が初めて太平洋を横断したのは1846年。
アメリカの蒸気軍艦が初めて太平洋を横断したのが、
実はこの使節(*注 上記にある訪米使節団のこと)を送り届けた1860年なんです。
正使が乗ったポーハタンは石炭を使い果たしてホノルルに寄港しています。
咸臨丸は一挙に太平洋を横断しているので、
ひょっとすると太平洋を横断した「最初の蒸気軍艦」かもしれないです。
カリフォルニアがアメリカに割譲されたのが1848年、
金鉱の発見が1849年で、それからカリフォルニアは急激に発展するのですが、
当初は水がなかった。それで、洗濯物は太平洋を横断し
て中国まで運び、そこで選択してからカリフォルニアまで戻したそうです。
そっちの方が安かったとか。
1860年、日米通商修好条約批准書交換使節団を乗せたアメリカの軍艦、
ポーハタンに随行する形で渡米した咸臨丸の模型。
勝海舟らが乗り込んでいました。
帆船のように見えますが、良く見ると中央部に煙突があり、蒸気機関を搭載してます。
しかもスクリュー船なんですよね。
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