■その1 馬関戦争と砲
(*注 以下は長州がやった馬関戦争でイギリス軍最高の勲章であるビクトリア クロス受章者が
3名出ていたので、イギリスも意外に苦戦したのか、という書き込みに対する回答になってます)
いや〜長州ダメダメでしょう。
多分、その前の薩英戦争で、英軍に全く良いところが無かったので、
無理やり勲章あげちゃったのじゃないでしょうか。
そもそもキューパー提督は薩英戦争が最初の実戦だったらしく、
薩摩の砲台の射程内に艦を停泊させたり、相手の反撃を予想せずに薩摩の軍艦を拿捕したり、
でもって薩摩の旧式砲台から反撃食らって艦長戦死させてますから。
まあ、その反省で下関では上手くやれていますが、
長州の侍も全然抜刀突撃とかしてないんですよ。
薩摩なら絶対やったと思います。
もっとも主力部隊が京都に行ってたのもダメダメの理由とは思いますが。
(*注 禁門の変で長州藩の中心戦力は京都に居た)
そもそも大砲は攻城兵器として投石機の代わりに使用されたもので、
当初は実体弾を使っていたものですが、
これと別に榴弾は存在していて(モンゴルのてつはう、とか毛利氏の焙烙火矢とか)、
当然榴弾を大砲で撃ちたいという考えは出てきます。
ところが、比較的高速で撃ちだされるCannonで使う榴弾の信管を作るのが
難しかったらしく(まあ、最初は長さを調整した導火線程度だと思いますけど)、
16世紀の中頃に榴弾発射を目的として、低初速の臼砲が作成されたらしいです。
臼砲はなぜか戦国時代の日本には入ってきていません。
実体弾を発射する大砲はあったわけですが、島原の乱のときに原城を
砲撃しても全く効果が出ず、オランダから「臼砲なら榴弾射撃ができるよ」、
と聞いて急遽作製を命じています。
このとき作製された臼砲は靖国神社にあったらしいですが、
戦後行方不明になり、現在はそのレプリカがおいてあります。
直後にちゃんとした砲術士官から臼砲射撃を学んだりもしているのですが、
200年の平和で大砲に興味を示す人はいなくなってしまいました。
幕末になってあわてて大砲の輸入や製造を始めるのですが、
当初は32ポンド青銅砲が中心だったようです。
これは戦列艦の標準的な大砲ですが、19世紀中頃から艦砲の技術進歩が始まり、
フランスで開発されたペクサン砲は榴弾の発射が可能になります。
さらにダールグレン砲やらパロット砲やら、
ついにはアームストロング砲も開発され、どんどん大型化していきました。
ところが日本の大砲は32ポンド砲が中心だったため、馬関戦争
では完全にアウトレンジされてしまいました。
戊辰戦争では両軍ともに四斤山砲などの最新兵器を使用していますが、
日本では馬の調教技術が発達していなかったため、
馬匹索引ではなく人間が引っ張っていくことがことが多かったようです。
そういえば映画やTVドラマでも人間が大砲引っ張ってますね。
撮影上の都合もあるのでしょうが、映画用の大砲と違って
実物はそれなりの重量はあるので、運搬は大変だったでしょう。
馬が使えないのと、重量物を長距離輸送できるような車輪がなかったため、
江戸初期でも大砲はソリにのせて人間が引っ張ったそうです。
関が原の合戦では石田三成が大砲を使用していますが、
あれを大垣城から急遽ソリで引っ張って
行ったのだとしたら、まあ大変だったでしょうね。
それとも雨で道がぬかるんでいたほうが、ソリで運ぶのは楽なのかな。
写真はイギリスで使われていた鉄製の臼砲(きゅうほう)。
ヨーロッパ系の言語の場合、対応する固有名詞があり、
英語だとモーター(Mortar/綴り注意)となります。
これは臼の意味で、まあ、見た目そのまんまです。
良く見ると、枝豆のように二つの丸い部分が連続して構成されてるのがわかると思いますが、
下側の球体部が火薬を入れて爆発させるところ、上の球体部が
丸い砲弾を詰め込むところとなってます。
一種の投石器、投射器で、バネなどの動力の代わりに、火薬の爆発力を使ったれ、というもの。
城壁や高所の要塞の中にいる敵目掛けて、
放物線状に榴弾(爆発して、その衝撃波や飛散する弾丸の破片で被害を与える砲弾)を
放り込む、というのが目的となっています。
なので、巨大な手榴弾を手で投げないで火薬の力で遠くまで飛ばすもの、
と考えると理解しやすいでしょう。
実際、まさにそういった手榴弾を遠くまで飛ばす兵器である迫撃砲も、
英語だと軽臼砲(Light
mortar)あるいはそのままMortarと呼ばれています。
■その2 馬関戦争-2
下関戦争ではビクトリアクロス受章者が3人でているとのことでしたが、
一人は最年少の受章者で割りと有名です。残り二人は知らなかったのですが、
調べてみたら一人はアメリカ人だとのこと。
それも米国海軍ではなく英国海軍に勤務していたアメリカ人。
当時はそんなことができたのですね。他国の海軍に士官が「出向」
することがあったのは知っていましたが。
実はこのときアメリカは南北戦争の真っ最中で、
横浜には帆走軍艦が一隻いただけでした。
そこで急遽ターキャンという商船をチャーターして戦争に参加しています。
船主は砲台の射程範囲には入らないということで契約したらしいですが、
当然無視して、他国の陸戦隊の上陸を支援しています。
で、米国も莫大な賠償金を手にするのですが、さすがに気が引けたのか、
明治になって返還しています。このお金で大桟橋が作られました。
(*注 明治期の横浜港造成工事のこと)
また、ターキャンは後に幕府が輸送船として購入し、太江丸と命名しました。
戊辰戦争で土方達を箱館まで運んだのは、この江丸でした。
長州は馬関海峡を通過する外国船を砲撃するため、
砲台の建設を始めるのですが、藩内には洋式砲台の知識を持つ人物がいませんでした。
そこで蘭学者に設計を依頼するのですが、「蘭」学者ですから
オランダのテキストを基に設計します。
オランダですよ、オランダ。平地ばっかりの。
なので、馬関海峡には山が迫っていたにも関わらず、
山上や山腹ではなく、海岸沿いに砲台を作ってしまいました。
このため陸上側のメリットは全く生かせず、おまけに崖下に建設した砲台もあったため、
崖のどこかに砲弾が命中したら、岩やら何やらが転がり落ちてきて
砲台を破壊してしまいました。
別に軍人でないサトウですら、日記に「放題の設置場所が悪い」と書いています。
これは軍人から聞いたのかもしれませんけどね。
数年後、幕府は箱館に砲台を作りますが、さすがに山の上に作りました。
しかし、これを見たプロイセン領事でもとプロイセン陸軍士官であったフォン・ブラントは、
「砲台は脅威だが、陸戦隊を上陸させれば簡単に占領できる」と述べています。
砲台だけ作って、それを防御するラインを作っていなかったのですね。
平和慣れすると、「兵器」は理解できても、「戦術」までは目が届かないのでしょうか。
しかし、そのバカにした当人たちのお国は、
後に「後ろから攻められるとは思っていませんでした、テヘ」のシンガポールや
絶対増援部隊来ないだろうという青島要塞で、
バカにされた国に降伏してしまっています。
シンガポールは計画では本国艦隊の半数が日英開戦後180日以内に
派遣される計画があったらしいですが、これでも間に合いませんよね。
青島はさすがに無理とドイツも思ったらしく、中国と返還交渉していたらしいですが、
日英が「うんって言うなよ」と脅したので、あんな状態になったそうです。
つうかドイツ、あんなところに植民地持って何したかったんでしょう。
どうも19世紀半ばから、「植民地を持つ」こと自体を目的にしていた気配がありますよね。
ブラントは北海道植民地計画とか建ていて、ビスマルクから「無理」と拒否されています。
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