■迎撃は難しいのか
さて、そんな感じでドタバタはあったものの、
MO機動部隊では、速度を最大30ノットまで増速し、
攻撃部隊の帰還距離を短くするため南下を続けます。
最初の菅野機の報告だと敵機動部隊まで235海里(約435q)の距離でした。
が、さらに南下した攻撃隊の発艦位置(南緯11度32分、東経156度6分)からだと、
その距離は約227海里(約420.5q)前後となっていたはずです。
これは空母攻撃隊発進の一つの目安となる240海里よりは近距離でしたが、
この攻撃距離は母艦がさらに前進して、帰還の距離を短くする、
という前提に立ってましたから、MO機動部隊としても
さらに南下する必要があったわけです。
(前日のUSSネオショー攻撃の時は170海里以下の距離と見積もられていたので、
それ以上、接近の必要は無かった)
そして攻撃隊発進直後には、接触中の菅野機から
敵空母から攻撃隊発進の報告が入ってましたから、
既に上空に上がっていた瑞鶴のゼロ戦3機に加え、
10:20ごろまでに翔鶴の全9機が加わって、計12機で上空警戒に入った、
というところまでは既に説明しました。
その後、10時30分前後に菅野機以外の索敵機の帰還、着艦が始まるのです。
瑞鶴から友軍攻撃隊確認のために発艦した6機(7機?)は、
この索敵機の帰還に紛れて着艦した事になります。
ところがその直後と言っていい10:43ごろ、
USSヨークタウン攻撃隊が艦隊に接近してるのが発見されてしまうのです。
当然、一度着艦してしまった瑞鶴のゼロ戦6機(7機?)は
これの迎撃には間に合わなくなります。
このため、艦隊護衛に残した19機のゼロ戦の内、
最初に来たUSSヨークタウン隊を迎撃したのは上空に居た12機だけでした。
残りの瑞鶴に着艦してしまった7機の内、4機は敵の攻撃開始とほぼ同時、
10:58に再発艦してますが、最初の急降下爆撃隊の迎撃には間に合ってません。
さらに残りの3機は先頭の機体がエンジン故障で離陸できなくなってしまい、
甲板を塞いでしまった上に、艦が回避運動を始めて
離艦に必要な風速が得られず、最後まで戦闘には参加しないで終わったようです。
よって艦隊防衛用に残した19機のゼロ戦の内、
最初に飛んできたUSSヨークタウン隊の迎撃戦に参加できたのは12機だけでした。
攻撃開始後、4機が上空に上がったものの、
残りの3機は最後まで戦闘に参加できず、という事になったわけです。
すなわち、最初の空襲に対する迎撃は、全力とは言いがたいものでした。
母艦艦隊への敵の反撃がある、という航空戦闘は
日本側も初めてであり、慣れてなかったのか、
という気もしますが、それでも、どうも褒められない印象がありますね、この辺り。
前日の祥鳳もそうなのですが、友軍機からの連絡によって、敵襲は確実、
という状態でもなぜか日本側の空母は全力で迎撃戦闘機を上空に上げてないのです。
■Image
credits:Catalog #: 80-G-71198
Now in the collections of the National
Archives.
少しだけ脱線しますよ(笑)。
あまり知られてませんが、ゼロ戦の場合、発艦前の駐機状態が、
アメリカ側とはかなり異なる部分があったりします。
せっかくだから紹介して置きませう。
少なくとも1942年までの艦載ゼロ戦の場合、発艦前、
エンジン始動後まで主翼から飛行甲板に対し固定用の索を付けてるのがよく見られるのです
このため車輪の固定具を外す作業員のほか、さらに2名の作業員が主翼下に居る事があります。
写真は真珠湾攻撃の時のゼロ戦隊(翔鶴?)とされてるもの。
この写真だと、すでにプロペラが回ってる手前の機体の右翼下(向かって左)の作業員が、
主翼に付けられた固定用の索を取り外そうとしてるのが見て取れます。
反対側の左翼下の作業員も、この固定索を外してるのがわかるでしょう。
真珠湾時は荒天下の発艦だったため?とも思ってたんですが、
思った以上に多くの写真でこれが確認できるので、
(南太平洋海戦の時の写真など)
策で固定したままエンジンを始動し、発艦直前にこれを外す、
というのは、意外に普通に行われていた可能性が高いです。
ただし、例外的な写真もいくつかあるので、必ずしも、とは言い切れませぬ。
基本的には、やはり荒天下での発艦用かなあ、と思いますが…
とりあえず、こういった発艦を、意外に普通にやってたようだ、というお話でした。
この辺り、五航戦側に同情的な見方をするなら、
レーダーがない日本側の場合、上空の雲は艦隊を守るのと同時に、
こちらからの発見も遅らせる事になった可能性があります。
さらに言うなら先にも指摘したように、接触中の菅野機が敵攻撃隊発進を報じたのは
USSヨークタウン、USSレキシントンの両空母ともに
実際の発進後30分近く経ってからであり、この結果、MO機動部隊側では、
まだ時間に余裕がある、と思い込んでいたのかもしれません。
まあ、それでもどうだかなあ、という部分ではあるんですが…
ちなみに、このMO機動部隊の艦隊護衛のゼロ戦隊の内、
瑞鶴の13番小隊の隊長だったのが
著名なゼロ戦エースの一人、岩本徹三さんでした。
彼の手記によると、敵攻撃隊到着の20分前に上空に上がった、としてますが、
記録を見る限りでは攻撃隊発進直前の9:00ごろから
上空警戒に上がっていた最初の瑞鶴の小隊が、彼の部隊です。
つまり20分前どころか敵の攻撃開始まで2時間近く、
ずっと上空で待ち続けたはずですが、
この日の記録は細かい部分では怪しい所があるので、
実は岩本さんが正しく、一度着艦して待機していた、
といった可能性は完全には否定できません。
いずれにせよ、この辺りの正確なところは、確認の術がないんですけどね。
ただし彼の手記によると、この迎撃航空戦の最中、母艦の瑞鶴とは
無線電話、あるいは無電で連絡を取り合っていた、
とされますが、さすがにこれはどうでしょうね…。
当時の他の関係者の証言や、ゼロ戦の無線の信頼性、
さらには一人乗りのゼロ戦で、片手で電信を打てたのか、といった辺りから
これは岩本さんの記憶違いではないかと思います。
母艦から、モールス信号の無電を一方的に受信していただけ、
こちらからの返信は無し、というのならあり得る話だと思うのですが…。
といった感じに、さまざまなドタバタがあった日本側ですが、
とりあえず、一定の数の迎撃戦闘機を上空に上げて、
アメリカ側の最初の攻撃を迎え撃つ事にはなりました。
では、対するアメリカ側の艦隊はどうだったのか、というと
こちらはこちらで大変だった、というのを次回、見てゆきましょう。
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