■テレフォン ファイト

最後に空母決戦の特殊性、とにかく遠距離で戦われる、という点を確認しておきます。
何の遮蔽物も無い海上の艦隊決戦は、戦艦の主砲の飛距離が伸びるに連れて、
既に第一次大戦のころから数十kmの距離を隔てて戦われるものとなってました。

が、それでもあくまで相手を視認できる距離の戦いですし、
結局第二次大戦期でも、せいぜい40km前後が戦闘開始の距離となっています。

が、2000kmといった日本縦断級の航続距離を持つ艦載機の戦いとなる
空母決戦では、その戦闘距離の規模は実に数百kmとなってしまったのです。
例えば世界初の正規空母決戦 珊瑚海海戦(2日目)は
両艦隊が約400km近く離れた状態で、互いの攻撃隊の発進が始まってます。

この遠距離戦闘ゆえに、両者の攻撃隊が出撃途中ですれ違ったりとか、
攻撃から帰ってみたら母艦が無かったといった、といったような
他の戦闘ではなかなか考えられない事態が発生することになり、
これらは全て、航空機による戦闘ゆえの現象でした。

空母艦隊決戦以前の戦闘の場合、戦艦の艦橋でもその高さはせいぜい50m以下で、
これだとせいぜい周囲25km前後しか見えません。
相手の戦艦のマストも高いので、これが水平線の上に出てるのを
40km前後からでも認識できたようですが、それでもせいぜいその辺りが限界でしょう。

ところが航空機なら、簡単に高度1000m以上まで上がってしまえます。
この時、水平線までの距離は軽く120kmを越えますから、
その距離までに敵がいれば、これをあっさり発見できてしまうのです。
(ただし当然、天候に左右され、実際に見える距離はもっと短い事が多い)

一定高度から上は高度を上げてもそれほど視距離は伸びないのですが、
それでも高度2000mで170km、3000mで200kmまでその視認距離となります。
この状態で時速250kmを軽く超える速度で移動するわけですから、
その視認範囲、索敵範囲は極めて広大になります。

すなわち空母決戦においては、200km以下は速攻で敵に発見される距離であり、
その戦闘は通常、さらに遠距離で戦われることになるわけです。
まあ、太平洋のベラボーな広さからすると、それでもかなりの至近距離なんでしょうが…
とりあえず、皆さんの家から200km先ってどれほどのものか、
各自地図で確かめて驚いておいてください(笑)。




参考までに高度4000m前後、成田空港を離陸後、利根川上空から横浜方面を見るとこんな感じ。
夏場の昼ごろで湿気が多い、という条件でもこれだけ見えます。

水蒸気がおおいため、視距離は落ちてるのですが、
それでも軽く50km先くらいまでは見えているのです。
(空気中の水分は光を拡散してしまうので湿度は視界の敵)

となると、母艦を中心に八方に機体を10kmも進出させれば、
艦隊周辺半径120kmくらいまでが全て視野に収まってしまう事になります。
このため、空母艦隊決戦において、150km以下は完全にご近所さん感覚なのです。

さらに高速で移動してる軍艦の場合、かなり大きな白波と航跡を残してるため、
上から見ると、かなりはっきりと見つけることができたようで、発見は容易でした。
この点も航空機の側に有利に働く要素でしょう。



ただし航空偵察も万能ではなく、雲が出てしまうと、このように一気に得られる情報が減ります。
実際、空母決戦においては雲の下に居て助かった、という例がいくつか見られるのです。
もっとも、後に機上対艦レーダーが装備されると、50km先から、
浮上して司令塔だけ出してる潜水艦でも簡単に発見できるようになるのですが、
1942年の段階ではまだそこまで行ってません。
そして日本海軍の場合、最後までそこまで行けませんでした。

でもって太平洋南部だとスコール、積乱雲の下に入ってしまえば、
航空機は危なくて近づく事もできなくなります。
当時の航空機(現代でもだが)の構造は
積乱雲内部の乱気流には耐えられないからで、
これほど安全な避難場所もないのですが、その代わり
自艦の艦載機の発艦も着艦もできなくなりますが…。
(瑞鶴時代の岩本さんのように、スコール下で着艦したツワモノも居るが)

ただし、少しでも雲から出てしまうと、矢印で見るように
はっきりと航跡が現れてしまうため、もはや逃げようが無いわけです。

そんな感じで、空からの戦いになった結果、とんでもない遠距離戦闘となったのが
空母艦隊決戦で、これほどの遠距離を置いて、
強力な打撃力を持つ兵力同士が衝突したのは、後にも先にも、
第二次大戦の太平洋だけで、
しかも実質的には1942年の5月から僅かに半年たらずの話なのです。

次回から、そんな話を少し具体的に考えて見ましょう。
まずは人類初の空母決戦、珊瑚海海戦からです。


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