■第八章 F-16への道


■F-16の採用

前回見たように、1974年以降、ボイドたちが開発していた軽量戦闘機計画はそれまでの冷遇がウソのようなシンデレラストーリを、フルスロットル&ノーブレーキで駆け上がる事になりました。

計画名称は空戦戦闘機(ACF)計画に変更され純粋な戦闘機から、戦闘爆撃機に路線変更がなされたものの、競作の勝者にはアメリカ空軍だけで650機を超える採用が約束され、さらにベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェーの4カ国共同購入戦闘機にも採用が決定、こちらも350機近い数となるはずでした。よって両者で1000機近い採用という巨大なプロジェクトになりつつあったのです。こうなるとYF-16のジェネラル・ダイナミクス、YF-17のノースロップ、どちらも負けられない一戦となってきます。

さらに1974年10月に海軍と海兵隊も空軍の軽量戦闘機(LWF)改め空戦戦闘機(ACF)計画に参加しコストを下げよ、という決定が議会でなされます。これによって空戦戦闘機(ACF)計画の勝者は、さらに800機近い採用が見込まれ、もはやF-15もF-14も比較にならないほどの巨大戦闘機計画に発展してしまうのです。
ただし海軍が乗り込んでいった1974年の晩秋の段階では空軍の飛行選考がかなり進んでしまっており、ほとんど何もできないまま、YF-16の採用が決まってしまいます。ここら辺りの反感から、彼らは敗者であったYF-17を強引に採用、事実上の再設計に近い作業をマグダネル・ダグラスに行わせることになります。

これは空戦戦闘機(ACF)の計画に海軍が参加する際、艦載戦闘機の設計、生産経験のあるメーカーの関与を求めたためです。ジェネラル・ダイナミクスもノースロップも、その経験がなかったため、YF-16にはLTV(ヴォート)社が、YF-17にはマグダネル・ダグラスが参加することになっていたのでした。ただし先にも書いたようにノースロップの政治的な動きが嫌われた、という面もありいつの間にやらマクダネル・ダグラスが開発の主になってしまい、これが後にトラブルの元になった、というのは既に述べました。

この再設計で、F/A-18はかなりの性能低下を引き起こしたとはいえ、とりえあずボイドの思考を受け継いだ戦闘機がアメリカ海軍にも採用されたわけです。この後、ソ連もいつも通り、アメリカの戦闘機のコンセプトをパクりミグ29、Su-27という高機動戦闘機を開発しますから世界の空はエネルギー機動(EM)理論に基づく戦闘機で埋め尽くされる事になるわけです。

さらにF-14の発注契約をしたばかりだったイラン王国からYF-16に対して160機の仮発注が来ますが、その後、経済的な事情で契約は延期され、その直後にイラン革命が起こって王室は失脚、受注は見込めなくなります。そしてこのキャンセルによって、次にF-16の導入を決めたイスラエルへの納入優先順位が上がるのです。
その結果、予定より早く納入されたF-16を使い、1981年6月、イラクの原子炉に対しイスラエル空軍による長距離爆撃が決行されることになったのでした(オペラ作戦/Operation Opera。 Operation Babylonは通称)。ちなみに、これはイラン−イラク戦争中であり、このイスラエルの乱入でイラクの核開発が中断されたわけですからイランからすればキャンセルしてよかった、という感じでしょう。

■飛行選抜(Fly Off)

さて、軽量戦闘機(LWF)改め空戦戦闘機(ACF)計画はそれぞれ2機の試作機を実際に製作し、両者を飛ばして勝者を決める、という飛行選抜(Fly off) 形式のコンペだったのですが、さらに変わったやり方を採用してました。

正式採用前の機体試験はメーカーと空軍のテストパイロットで飛ばすのが普通ですが、ボイドの主張によって、現役の戦闘機パイロットが両方の機体、YF-16とYF-17を飛ばし、その意見を元に勝者を決定する方法が採用されたのです。危険すぎる、という意見もあったようですが、まともな戦闘機パイロットなら大丈夫だ、とボイドは押し切ってしまい、このコンペでは実際に複数の戦闘機パイロットに両機を操縦させました。さらに当時のアメリカがコッソリ持っていたミグ21、さらにF-4ファントムIIとの模擬空中戦をやるべきだとボイドは主張してたのですが、そこまで行われたのかどうかは確認できず。
ちなみにボイド自身はこのコンペで飛ぶことはありませんでした。ボイドはちょっと不思議な所があり、あれほどの腕を持ちながら、一度現場を離れると、以後、戦闘機パイロットという立場に一切未練をみせず、航空機の操縦すらほとんどやらなくなってしまったようです。

ちなみに選考が始まる前、機体データを基にコンピュータによるシミュレーションを行ってみたところ、航続距離、加速性&上昇力ではYF-16が上でしたが、ボイドが最も重視したエネルギーを高速変換する機動能力(Maneuverability)ではYF-17が圧勝とされてました。元戦闘機乗りでもあるボイドは、この結果から、空中戦を前提としたテストではYF-17がパイロットから支持を受けるだろう、と考えていたようです。
ところが1975年1月に発表された選考結果ではジェネラル・ダイナミクスのYF-16が勝者となります。試験に参加したほとんどのパイロットがこちらを支持し、さらに当時のシュレシンジャー長官の発表によれば航続距離と加速だけでなく機敏さ、旋回率でも優秀だった、とされています。ちなみにエンジンがF-15と同じですでに初期トラブルは克服されて安定しており、さらに量産効果でF-15のエンジンまでコストが下がること、そして機体自体の価格の安さ(1974年秋段階の見積もりでYF-16 460万ドル、YF-17 520万ドル)も重要だったようです。

ここら辺りの選考過程の詳しいデータを私は見たことがありませんが、ボイドらへのインタビューによると、圧倒的にYF-16の方がパイロットから支持された、とされ、よほど大きな差での勝利だったと思われます。ボイドはこの結果に驚いたようですが、のちに視界の良さ、操縦のしやすさがパイロットにYF-16が好まれた理由だと考え、これが後のOODAループ理論に一役買う事になります。



さらにF-16の意外な高性能部分として、航続距離の長さがあります。これも元はボイドの主張によるもので、F-16は胴体内に大型燃料タンクを機体に積み込んでありました。でもって単発エンジンで燃費も優れてますから、アメリカ空軍で最も航続距離の長い戦闘機はF-15ではなく、F-16になってしまったのです。この航続距離の長さから、例のイスラエルが行ったイラクの原子炉への長距離爆撃ではF-16が使われる事になったのでした。
(ちなみにこの辺り、軽量戦闘機(LWF)計画から蹴り出されたロッキード社のスカンクワークス二代目ボス(当時はまだジョンソン時代だが)、リッチの回想によると短い航続距離の計画で将来性が無いのでこっちから参加を断った、後から性能要求が変わった、としてるがウソである。長い航続距離は最初から軽量戦闘機(LWF)計画の目玉だったし、ジョンソンがボイド相手にハッタリかまして叩き出された可能性が高いことは既に見た。当時の関係者の話でも鵜呑みにするのは危険なのだ)。

こうして正式採用が決まったF-16でしたが、軽量戦闘機(LWF)計画時代の設計ですから、武装はバルカン砲とサイドワインダーしか搭載できず、レーダーも射撃管制用の3000m前後までの距離を測るタイプしか積んでませんでした。なので、ここから空戦戦闘機(ACF)計画で要求された戦闘爆撃機型としての機能、多目的(Multipurpose)戦闘機と呼ばれる爆撃可能で、索敵用の大型のレーダーを搭載した機体に改造する必要があり、その電子機器の搭載とあわせて機首部が大型化されます。この点、機体内部に多くの余裕があったYF-16なので改造は最小限で済んだようです。そしてこの辺りまではボイドも予想していた事でした(当初、索敵レーダーを外したのは重量増もあるがそれ以上にコストの問題が大きかった。金があるなら積む)。

そこまでは良かったのですが、ボイドと関係者が大論争をすることになったのが主翼面積の拡大でした。爆弾などの搭載によって離陸重量が増加したため、揚力増加をもくろんで、翼の面積を拡大する事が決定されたのです。が、これにボイドは猛反対します。大きな主翼を支える構造強化による重量増と誘導抵抗の増加を嫌ったのだと思われますが、最終的に当初の3.7平方メートルの拡大計画を半分の1.8平方メートルの拡大に縮小させてしまいました。
ちなみにYF-16の翼面積が26平方メートル前後ですから、せいぜい10%前後の増加なんですがボイドによれば、これでも大幅な性能低下に繋がるそうで、彼は最後の最後まで、この件については周囲に不満を述べています。F-16はこの後もボイドたちの思想を離れ、重量増を重ねて行く事になります(その最悪の例の一つが日本のF-2)。それに耐えたのは基本設計が極めて優れていたからですが、その持てる才能を削りながらぜい肉を増やしていった、という面が少なからずあります。

■数で勝負できるアメリカ軍へ

さて、そんな感じでボイドの理想からは、またも微妙にずれる形にはなったものの十分な性能を持つ戦闘機としてF-16は完成し、量産も開始されます。さらに1975年1月の勝者発表の段階では、この計画はさらに話が大きくなっていました。YF-16の見積もり価格の安さに驚いた議会と国防省関係者が、これならソ連と数で勝負ができると思いついたからです。この結果、1975年から10年かけてアメリカは1400機、F-15の倍近い数のF-16を採用すると発表されます。
これはF-4ファントムIIの全配備数、約2870機に比べると半分でしたが、それでも、平時の配備数としてはかなりのものであり、事実上、アメリカ空軍の主力戦闘機はF-16に決定された事になります。F-16の性能を考えれば、この数は極めて脅威でありアメリカ空軍は恐るべき戦力をここにおいて手に入れた事になります。すなわち朝鮮戦争から20年かかって、再びアメリカは世界の空を支配する力を取り戻したわけです。

ちなみに、この決定の背後にはF-15は高すぎて数が揃わない、というジレンマがありました。戦闘機にとってコストは最重要項目の一つなのです。どんなに優秀でも、値段が高ければ数が揃わず、数が揃わなければ、兵器としての威力は大きく後退します。コストも重要な性能の一つだ、というのはF-111、F-14、そして後のステルス機で反面教師として次々に証明される事になります。十分な性能を持った上の安さは、強力な武器なのです。

ちなみに当時、ソ連空軍が数で勝負に来る、というのはアメリカ側の常識でした。
既にF-15は700機を越える配備が決まっていましたが、ミグ21なんて1万機以上、ミグ23でも5000機以上を生産してますから、700機のF-15でどうするの?という世界だったわけです。最悪10倍以上の敵戦闘機がいる空でF-15は生き残れるのか、ライオンでも自分より弱い10匹のハイエナに同時に襲われたら無事で済むか、という問題です。ちなみに当時のアメリカ空軍は、新型スパローを使えばF-15が1機撃墜されるまでに950機以上のミグ21を撃墜できる、というコンピュータシュミレーションを発表していたのですが、さすがに誰も信じず笑い話で終わります。実際、この後、イスラエルによるF-15実戦デビューではものの見事にスパローはあさっての方向に飛んで行ってしまって一発もかすりもせず、パイロットを悪い意味で驚かしたのはすでに説明しました。

F-16がアメリカ空軍の主力戦闘機となった最大の理由は高性能と同時にその価格の安さでした。空戦能力なら、F-15でもF-16に対抗できない事はありません。ところがF-16はその低コストによってはるかに多くの数が揃えられました。参考までに1975年初頭の段階でF-15Aの価格は約1500万ドル、F-16Aは先に書いたように約460万ドル。ただし、後の改修で600万ドル前後まで上昇してますが、それでも半額以下です。そしてエンジンも一基だけですから維持管理費も低く抑えられ、同じ予算で倍以上の機体が運用できるのです。

数の上で2倍の差がついてしまってはF-15はもはや敵ではなく、F-16は21世紀以降まで最強の空中戦兵器であり続けます。さらにその後登場するソ連のSu-27とミグ29は西側諸国の影響を強く受けた結果、ソ連機にしては極めて高価な機体になってしまい、それまでの大量生産、大量配備が不可能となります。この結果、両者合わせてもF-16の全生産数の半分程度しか造られておらず、全体的な兵器システムとしては完敗と言っていい状態に追い込まれます。F-16は機体性能、そして数で敵を圧倒する驚愕の兵器システムだったのです。



アメリカの新型戦闘機、特にF-15を意識して造られた写真のミグ29、そしてSu-27は十分に高性能で、F-15やF-16と比べても十分戦闘に耐える機体でした。ところが従来のソ連機の利点の一つ、安価で大量生産が効く、という点でこれらの機体は大幅に見劣りしました。すなわち高価過ぎてまともに数を揃えることができず、さらにソ連の崩壊、ロシアの貧乏財政という追い打ちを食らって、まともな数を揃える事すらできなくなります。つまり、勝負が始まる前からすでに負けていたのです。

実際、極東のロシア空軍は21世紀に入るまで、ミグ31どころかミグ25がまだ主力であり、2018年の段階でもウラジオストク周辺に配備されてる機体の内、Su-27、Su-34はせいぜい半数に過ぎません。勝負にならない、と思っていいでしょう。
一定の性能を持った機体で数で圧倒する、という戦法を得意とした共産圏が、初めて数で負けたのがF-16であり、その安価な製造コストがアメリカ空軍を世界最強の空軍にする原動力となります。

こうして究極の航空兵器としてボイドの夢はF-16に結実しました。ただしその夢の完成は、ボイドの空軍におけるキャリアの終焉も意味しました。1975年、彼は大佐の年齢制限を迎えつつありそこで空軍を去る決意をします。同時にスプレイもペンタゴンを去る事を決め、アメリカ空軍の戦闘機黄金期は、意外に早く終焉を迎えることになるのです。


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