■第八章 F-16への道


■エネルギー機動性理論の確認

さて、今回からはボイドたちによって生み出されたエネルギー機動性理論の実際の運用を見て行きます。とりあえず最初に再度エネルギー機動性理論の内容を要約して置きましょう。

航空機の機動に必要なエネルギーを素早く蓄積し、素早く力に変えて最も効率のいい比エネルギー速度(Ps)=0の維持旋回の機動を行うには、

●エンジン推力がデカい方が、そして機体重量(機体質量×G(重力加速度))が少ない方が有利。どちらも同じなら旋回時の抵抗が小さい方が有利。

という事です。当たり前と言えば当たり前ですが、これを数値でキチンと見れるようにしたのがこの理論のキモなのでした。

さらにベトナム戦争での実戦を通じ“機動能力”の重要性が別の角度から再認識される事になります。それが対ミサイル回避能力です。誘導ミサイルは撃ったら後は自動的に当たる、と思われていたのですがミグ戦闘機が猛烈な回避運動をし、あっさり誘導ミサイルから逃げ切ってしまう事態がベトナムの空で頻発します。
そしてアメリカ側でも高い機動能力で激しく動き回れば、当時の最大の強敵だったソ連製地対空ミサイルを避けれることが確認されました。この結果、ドッグファイトだけでなく、ミサイルを食らわないという意外な一面からも戦闘機の機動性は重視されて行く事になります。
どんな戦闘でも一方的に攻撃するだけで終わる事はありませんから(それは不意打ちの成功であり機動戦に入る前に終わってしまう事を意味する)、機動性能による回避能力も戦闘能力に大きく影響する事になるわけです。

■エネルギー機動性理論の展開

さて、1963年中には形になっていたエネルギー機動性理論ですが、1964年に入ると空軍上層部が彼らの理論に興味を示し始め書類で概要を報告するように求められる事になります。ただしこの時は書類にまとめるのが嫌いなボイドがいつまでたっても提出しなかったため、途中でいたたまれなくなったクリスティーが代理で書き上げ提出しています…。
その後に二人はF-105、F-100、F-4ファントムIIを使って理論通りの維持旋回や機動が可能なのかを確認する実験の許可を取り付けてエグリン基地でこれを行い、その結果から彼らの理論が正しい、という確証を得ます。
そして理論の発表から1年以上すぎた1964年の秋、ついに戦術航空司令部(TAC)のボス、スウィーニー大将相手にエネルギー機動性理論のブリーフィングを行え、という命令が来たのは既に見ました。これによって彼のエネルギー機動性理論は空軍内の公式な理論と認められる事になり、空軍内で数々の賞を受賞してその地位を固めて行きます。ここからいよいよボイドの時代の始まりとなるわけです。まあ、それはボイドによるトラブルの連続発生の始まりをも意味するのですが…

その後ボイドは彼の古巣、戦闘機パイロットの聖地であるネリス空軍基地にも乗り込んで行き、エネルギー機動性理論の講演を行っています。この時は世界初音速突破野郎、チャック・イェガーも聞きに来たそうな。
こうして戦闘機部隊の中心地、エグリン、ネリスの両基地でブリーフィングを終えたクリスティーとボイドは、今度は全米各地にある航空機メーカーに説明を行うため、アメリカ中を飛び回ることになります。この時、クリスティーが書いたIBMコンピュータ用の計算プログラムを配布して歩いており、これが以後、国防産業が兵器のコンピュータシミュレーションを採用するきっかけの一つにもなったと言われています。

さらに空軍のベトナム戦争への本格参戦が始まりつつあったため、これらの作業と平行して、ボイドとクリスティは、より実戦的なデータの解析を開始しました。ライト・パターソン基地にあった海外の機体に関する研究部門からソ連機のデータを全てもらい、その解析を始めたのです。
余談ですがボイドの敵、航空力学研究所と同じライト・パターソン基地の研究施設ながら、この国外機の情報部門はボイドに対して好意的で、後にエネルギー機動性理論に疑問をもった空軍関係者から問い合わせが来た時もボイドの理論を支持するような回答をしています。この辺り、全ての空軍研究部門がボイドを敵視していたわけでは無いのでした。



■エネルギー機動性理論を用いて、米ソの戦闘機の分析を始めた結果、その性能差がはっきりし、アメリカ空軍の戦闘機開発に強い影響を与える事になります。写真はベトナムの米ソの主力機、ミグ21(手前)とF-105(右奥)。


ここで改めてボイドとクリスティーはソ連機のドッグファイト能力の高さに驚きます。
あまりの性能差に驚いたクリスティーは細部を秘密にしたまま、外部の研究者に数値データだけを見せて確認を取っていますが計算上の間違いは発見されませんでした。
この結果、どうやら事実らしいと、このデータを以後のブリーフィングに取り込んで行きます。ただし空軍内部にもそんな馬鹿な事があるか、我々は世界最強なのだ、という意見は根強く、この点に関する論争にボイドはしばらく悩まされる事になったようです。
が、結局、このエネルギー機動性理論による予言は完全に正しかったとベトナムの空において立証される事になったのは既に見た通りです。ソ連機は空中戦で、最後まで強いままでした。すでに見たように最新のF-4ファントムIIをもってしても、低空以外でミグ21と戦うのは危険だったのです。

同時に彼らが行ったのがアメリカ軍の空対空ミサイルの性能分析でした。エネルギー機動性理論から見ると、その運動能力は予想以上に貧弱で、それに加えて当時の誘導装置の完成度の低さがその信頼性に疑問を投げかけていました。このため誘導ミサイルは思ったほど有効な兵器ではない、十分な機動力をもった戦闘機ならあっさり振り切れてしまう、という事をボイドたちは発見します。
そもそも危険すぎて人間が操縦する機体相手に実射試験何てできず、このため直線飛行かゆるい旋回しかしない無人機相手のテストから得られるデータだけでは限界があったのです。十分な機動力を持った機体が、十分に訓練されたパイロットに操縦されてる場合、空中戦でミサイルを振り切る事は決して不可能では無い、よって誘導ミサイルとは言え過信はできない、というのが彼らの結論でした。

この“予言”もまた、ベトナムで見事に果たされる事になりました。ちなみに目標から外れ、地面に向かって落下していくサイドワインダーがあまりに多かったため、ベトナムでのニックネームは「サンド」ワインダー(Sand winder)、地面の砂巻き上げ機、だったそうな。

■そしてF-X計画へ

こうして1964年から65年にかけて、ボイドの理論は全面的にといっていい勢いで空軍に取り入れられて行くのですが、その過程でも、ボイドは常にトラブルメーカーでした。
後にクリスティが語ってるように、彼がそばに居てもボイドが引き起こす他人とのトラブルを防ぎ切れなった、という位ですから、ボイド一人で行動してる時(クリスティは民間人なので別行動も多かった)彼がどれだけ空軍の内外に敵を作っていたのかは想像すらつきません。ライト・パターソンの航空力学研究所との対立は既に説明しましたが、それだけではなく、後に空軍内のF-111の開発チームも彼は敵に回します。



実際、戦闘機としては失敗作だったF-111は、ボイドのブリーフィングにおいて完膚なきまでに批判されていました。
さらにブリーフィングの度にボイドは“翼を外し、爆弾庫にイスをつけ、機体を黄色く塗って地上で超高速タクシーとして使うのが一番有効な使い道だ”と皮肉っていたため、開発関係者のさらなる怒りを買うのです。もっとも、この機体を戦闘機として見た場合、ヒドイ性能だったのは事実でした。

実際、F-111のエネルギー機動ダイアグラムはあまりに衝撃的なデータだったため1964年の秋以降は、ブリーフィングでの使用が禁止され、さらにボイドがこの機体にコメントすることすら禁止されてしまいます。当時はまだ海軍がこれを使うはずでしたし、イギリス空軍が興味を示していた事もあり、失敗作であるとは公に言えない環境だったわけです。それでも結局、既に見たようにベトナムのデビュー戦で三連続行方不明というエライ事態になって失敗作のレッテルを貼られてしまうのですが…。
余談ですが、このF-111の連続行方不明事故の原因究明委員会の委員の一人としてボイドが入っていた、という話があるんですが確認できず。

そんな状況の中、1965年になって突然、ボイドの元に軍の監察官が訪れる事になります。理由はそもそも彼個人の研究であったエネルギー機動性理論に対して、彼が基地のコンピュータを無断で使用した件でした。これは軍の資産の窃盗行為の可能性がある、というのです。クリスティーを通じて彼は確かに無断で使用していたわけですが、どう考えてもボイドに個人的な利益は無いので私的利用とは言えず、この件に関しては最終的には無罪放免になります。

が、そももそも本来は監査が入るような問題ではなく、どうもこれはボイド反対派からのイヤガラセだったようです。同様に、彼の出世は徹底的といえるくらいに、妨害されます。1964〜65年にかけて、数多くの賞を受けながら、彼は少佐のままであり続け、1966年、F-X(F-15)プロジェクトのためペンタゴンに乗り込んで行った時も少佐のままなのです(この時すでに39歳)。この結果、少佐に過ぎない男がペンタゴンの開発プロジェクトの主要メンバーとして新型戦闘機の開発を主導する、という前代未聞の状況が発生する事になります。

こうしてベトナム戦争に空軍が本格参戦した1965年春以降も多忙な活動をしていたボイドですが1966年に入ると突然、現地での戦闘機パイロットに志願します。ボイドは第二次大戦の時は整備員で終わり、朝鮮戦争の時は実戦の機会にほとんど恵まれないまま終戦を迎えたため今回こそパイロットして活躍したい、という思いがあったようです。彼の実力は申し分なかったわけですから、これは許可され、タイに駐屯していたF-4ファントムII部隊への配属も正式に決定し、40秒のボイドがついに実戦のエースになる、というチャンスがやって来たわけです。

が、彼がタイに向けて出発する直前、この辞令は取り消されてしまいます。そしてベトナムとはまた別の意味で困難な戦場と言える、ペンタゴン、国防省への勤務を突然、命じられるのです。この命令変更は、1965年末からスタートしていた次期主力戦闘機、F-Xの開発計画が迷走といっていい混乱に陥りつつあったためでした。
この解決を一介の少佐であるボイドが命じられたのです。ベトナム行きのキャンセルに少なからず失望したボイドでしたが、この新しい仕事には魅力がありました。こうして1966年の秋、彼はエネルギー機動性理論とともに、ペンタゴンに乗り込んでゆく事になり、これが後のF-15の誕生への第一歩となります。



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