■第十章 ステルス機とF-22

 
■ステルスの歴史

さて、今回からはステルス機の歴史を少し見て行きましょう。

当然、主にアメリカ空軍の技術開発の歴史になるわけですが、これには大きくロッキード系、そしてノースロップ系の二つの流れがあり、それぞれの資料としてSkunk Works: A Personal Memoir of My Years at Lockheed(1996)、Inside the Stealth Bomber(1999)の二冊の本があります。

前者は二代目スカンクワークスのボス、ベン・リッチ(Ben.R.Rich)にLeo Janosという編集者が取材して書かれた彼の自伝なんですが、かなりの部分がステルス関係の記述に割かれており、基本中の基本の資料なってます。ただし編集者の技術的な部分の理解不足とリッチのややハッタリをかました上で細部を気にしない、という厄介な性格から、鵜呑みにするのは要注意な本なのに気を付けてください。この本は日本語訳もあり「ステルス戦闘機」という変なタイトルで1997年に講談社から出てました。

二冊目はB-2を対象にした本ですが、基本的にノースロップのステルス技術全般について述べたもので、当時の関係者の多くにインタビューを行い、かつ技術的な解説も的確で参考になるものです。こちらは現在まで邦訳はありません。
とりあえずもう少し詳しく知りたい、という人はこれらの一読を勧めます。ただし繰り返しますが、一冊目のリッチ本はかなり適当な部分があるのに注意して下さい(笑)。

■始まりはロッキード

とりあえず、この記事では航空機をレーダーで捉えにくくする技術をステルスと定義しましょう。
その歴史は意外に古く、レーダーが本格運用され始めた第二次大戦でドイツはすでに研究を開始、試作機で終わったホルテンの無尾翼機ジェット機HO229にその技術を投入していたとされます。が、ドイツのステルス技術はそこから特に発展を見せず、戦後の米ソもこれに注目してません。

その後、レーダーに捕らえられない機体を本気で開発、採用したのは1950年代後半、アイゼンハワー大統領時代のアメリカでした。1950年代に冷戦が本格化すると、ソ連の内陸部、さらには核武装してしまった中国の内陸部の偵察が絶対に必要、という状況にアメリカは追い込まれます。当時の大統領、アイゼンハワーの判断でこの任務は空軍でも海軍でもなく、戦後に設立された国際情報機関、CIAが担当する事になりました。どうも軍部が直接その任務に当たるよりは対外的な言い訳が可能、という理由だったようですが、どうでしょうねえ、それは。

とりあえず、そのCIAの依頼を受けて偵察機の開発に当たったのが有名な“ケリー”ジョンソン率いるロッキード社の研究開発部門、スカンクワークスだったわけです。ここからスカンクワークスとCIAの怪しく、胡散臭い関係が始まります。そんな彼らが最初に開発したのが1955年8月に初飛行した高高度偵察機U-2でした。


 
通常の機体では届かないような2万5000メートル近い高高度を飛行するのがU-2偵察機でした。
この高度ならあらゆる戦闘機は到達できず、さらにソ連のレーダーでは捕らえられないのでソ連領空を侵犯する、という完全に違法な任務を秘匿できる、と考えられていたのです。これは朝鮮戦争時のデータを基にソ連のレーダー能力を推測した結果でしたが、現実にはソ連の技術はアメリカの想像の上を行っており、1956年夏に開始された最初の任務からU-2はレーダーで追尾され続けました。当然、ソ連からアメリカに矢のような抗議が殺到します。驚いたロッキードとCIAはU-2がレーダーに映らなくなる技術の開発を始め、これがアメリカにおけるステルス技術の始まりとなりました。

二代目スカンクワークスのボス、リッチによると最初の任務からわずか半年後の1956年末に事態を憂慮したアイゼンハワー大統領から直接、U-2のレーダー対策がCIAに命じられ、レインボー計画の名でレーダーに映らない機体の研究が始まりました。これがアメリカにおけるステルス研究の始まりです。ステルス技術は空軍でも海軍でも無くスパイ天国CIAがその源流なのでした。

そこで採用された対策は電磁波を吸収するフェライト(酸化鉄)系の塗料を塗る事、各波長に合わせた長さのピアノ線(索敵と照準レーダーでは周波数が違うので別々のものが必要)を機体周囲に張り巡らしてレーダー波を吸収すること、そしてソールズベリー・スクリーン(Salisbury screen)と呼ばれるレーダー波を吸収する格子状の金網を機体下面に貼りつけること、といったものでした。

これにより実験では最大1/10までレーダー反射を小さくすることに成功したものの、特定の周波数のみに有効だったり、高度が変るともうダメだったり、重量増がひどすぎて搭載できなかったりと、あまり効果的とは言えない結果に終わります。当時、ソ連がレーダー誘導で2段式ロケットによる高高度対空ミサイル(後のSA-2 ガイドライン/SA-75)を開発中だったのをアメリカはすでに知ってましたから、このままではまずい、とCIAは考えたようです。このためステルス性の獲得に限度があったU-2に代わる機体の研究が1958年半ばから開始される事になります。

そして実際に1960年5月、フランシス・ゲーリー・パワーズが操縦するU-2がソ連の上空でレーダー誘導の高高度対空ミサイル、S-75(西側呼称SA-2)によって撃墜されて捕虜となり、これを基にソ連からの一方的な非難にさらされる事件が発生します。CIAの不安は的中したわけです。こうして以後、U-2によるソ連本土偵察は、断念される事になりました(ただしキューバ上空への偵察、および台湾空軍による中国本土上空進入は以後も続き、そして何機ものU-2が撃墜され犠牲者は増え続ける。この辺りのCIAの行動は狂ってると言っていい)。

■世界初の実用ステルス機 ブラックバード

ただし既に述べたようにCIAは1958年の半ばごろから次世代偵察機の開発に入ってました。この時はロッキード社以外にもコンベア社などが競作に参加するのですが、最終的にマッハ3で飛んでレーダーからも見つかりにくい、という当時としては驚異の機体の開発にめどを立てたロッキード社が引き続きCIA偵察機の仕事を勝ち取ります。牛車計画(Project OXCART)と命名されたこの計画により開発されたのがA-12偵察機で、後に複座化されたものが空軍向けのSR-71として採用されます。ちなみにどちらも愛称はブラックバードだし、外見もほとんど変わらないので混乱しがちですが、それぞれ別の機体ですから要注意。



空軍型のブラックバード、SR-71。沖縄の嘉手納を基地の一つとしていた事で、日本でもそれなりの知名度がある機体。通称のハブは沖縄に居た事にちなみます。

先に開発されていたCIA型ブラックバード、A-12の機能強化版で、さらに各種電子装置などの操作をする搭乗員(偵察装置操作士官  Reconnaissance systems officer (RSO))の座席が追加され複座になったもの(ブラックバードは電波偵察機としても使える)。といっても両者を一目で見分けるのは困難で、とりあえず最初に開発されたのが単座のA-12でこれはCIA用、その次に造られたのが複座で空軍用のSR-71、どっちも愛称はブラックバードと覚えて置けばいいでしょう。

でもって、このブラックバードシリーズからレーダーに探知されにくい設計、ステルス技術が本格的に盛り込まれました(当時はステルスとは呼ばれず、低識別性(Low observable technology)などと呼ばれたが)。
例の単純ステルス技術の数々、横方向からのレーダー波を反射しにくい平べったい胴体、レーダー波をあさっての方に向けて反射する胴体側面の傾斜外板、そして同じく傾斜した垂直尾翼(直線飛行が基本なので運動性を犠牲にして内側に傾けてるのに注意)などは全て既にこの機体によって初めて実用化されたものです。そして、それを実現させたのが、その特徴的な機体前部の「ヒレ」でした。



これがその機体前半部の左右張り出し部分です。普通の機体には見られないビヨーンと左右に広がるエイのヒレのような珍しい構造となっています。

これは12番目の開発機、A-12から試験的に取り付けられたものですが、これによってレーダー反射率が劇的に低下、リッチによれば実に90%も減らしてしまったのだとか。すなわち従来の1/10であり(恐らく水平方向からのレーダー波に対して)、これによってスカンクワークスは初めて機体のステルス性に自信が持てるようになった、としています。

 

その独特な形状の機体前半部を正面から見るとこんな感じ。試作機A-11までは普通にシャープペンシルのような円筒形の胴体だったのですが、A-12以降、機体下部に左右に広がる大きなヒレを付けたのです。これを滑らかに胴体と融合する形状にし、劇的にレーダー反射を減らす事に成功しています。

写真を見れば判るように、このヒレが下面に付いた事で、機体の上部はオムスビ型の▲となって、上側に傾いた外板を持つ事になりました。このメリットは前回見た通りで、横方向からのレーダー波をレーダーアンテナとは別方向、すなわち上に向けて弾きます。さらに機体下面も斜めの側板を持ちながら平らに近い構造となりレーダー波のあさって方向への反射に貢献してます。既に見たステルス対策が一気にここに持ち込まれたわけです。恐るべしブラックバードと言っていいでしょう。

ついでに次回以降に見るノースロップが開発したステルス技術、滑らかな接合面によって反射を抑える、も恐らく無自覚なまま取り込まれており、かなり理想的なステルス形状となっています。機体形状によるレーダー波反射の制御、というステルス技術の7割近くがすでにこの機体で実現されてしまっていたわけです。

実際、B-2、F-22などの第三世代のステルス技術は、第二世代のF-117よりもこの第一世代のステルス技術、ブラックバード式に近いのです(後で見るようにステルス機の形状が滑らかになったのは設計用の電子計算機の進化だけが原因ではない。滑らかな形状だとステルス性能が上がる、というのはノースロップが再発見して後のステルス技術の主流になったもの。計算技術の向上は関係ない。この辺りは例のリッチが流したタチの悪いデマの一つ)。

偶然この形状にたどり着いたのか、キチンと理屈を判った上でやったのかイマイチはっきりしないのですが(後に開発されたF-117の形状を見るとブラックバードでレーダー反射が減った理由を完全には理解出来て無かった可能性が高いが)、1962年4月に初飛行した機体で、ここまでステルス技術が完成していたのは驚異的です。ただしエンジンポッドが丸いままなど細部のツメが甘い上に、高温で伸縮する外板のため接合部に凹凸が多く、現代のステルス機に比べると性能的にかなり見劣りはしますが。
ちなみにリッチによるとSR-71のステルス性は65%が機体形状による工夫、残り35%が磁性体ファライトを使った電波吸収部材と塗料によるものだそうな。意外に電波吸収材の貢献度が高いですね。



その二代目スカンクワークスのボス、リッチによるとブラックバードのレーダー反射率はこの小型機のパイパー カブ(J3)とほぼ同じだとされます。参考までに両者のサイズを見ると、

パイパー カブ
全長 約6.8m 全幅 約10.7m

SR-71
全長 約32.7m 全幅 約16.9m


となってるので、全長で約8割、全幅で約6割も小さい機体と同じ大きさでレーダーに映る、という事になりますから、かなりのステルス性能が確保されてると見ていいでしょう。もっともパイパーカブはマッハ3では飛べないので(笑)両者の識別は簡単ですけども。



ついでにスカンクワークスは、A-12をマッハ3の高速戦闘機に改造する、という野心的過ぎる計画、YF-12を空軍に持ち掛け、とりあえず試作機の製作予算を勝ち取ります。

写真の機体がその試作機で、これはソ連の超音速爆撃機を迎撃する機体、すなわちアメリカ本土で運用される機体だったので、ステルス性は必要ありませんでした。だったら機首周辺のエラはあっても邪魔、単なる重量物になってしまうので、これを外して、ごく普通の円筒状の機首部に変更されました。A-11以前の形状への先祖帰りとも言えますが、これによって、あのヒレはステルス性確保のためだった事が間接的に確認できるわけです。これ、ヒレを付けたままだったら、YF-12が世界初のステルス戦闘機だったんですけどね。

ただし高すぎるし実用性低すぎるし、その上、ICBM時代になってソ連の超音速爆撃機はアメリカまで飛んできそうにないし、という事で3機の試作機が造られただけでYF-12計画はキャンセルされてしまいます。

ちなみにA-12の戦闘機型ですからSR-71とは別物で、そもそもこっちの方が先に開発されてました(YF-12が1963年8月、SR-71が1964年12月飛行)。ただしこの機体はパイロットと別にF-89のような火器管制官を乗せた複座迎撃機となっており、ブラックバードシリーズで最初に複座化された機体でした。SR-71の複座化に当たり、この設計が利用された可能性はあります。

 

そして1960年代の第一世代ステルス技術の集大成とも言えるのが、このロッキードD-21無人偵察機で、これはA-12が初飛行に成功したのとほぼ同時に始められた荷札(Tag board)計画によって開発されたものでした。後に1964年12月22日、実はSR-71と同日に初飛行に成功しています。
先に述べたようにソ連でU-2が撃墜された後も、台湾では中国本土の偵察にU-2を使い続けてました。その結果、少なくとも4機以上のU-2が撃墜されてしまっています。無茶苦茶ですね。さすがにこれはまずい、という事でその後継機に考えられたものらしいです(アメリカはSR-71を台湾に供与する気は無かった)。

D-21無人偵察機は1969年から実験飛行が開始され、51機が製造されています(リッチの証言による。ただし諸説あり完成したのは35機だけという話もある)。これもマッハ3以上での飛行が前提で、ブラックバードとく同じ音速以上の飛行ではラムジェットエンジンによる飛行となっていました(機首円錐型カバーの後部にできる衝撃波背後の高熱、高温の空気をエンジンに取り込み、そこに燃料を直接噴射して爆発的に燃焼させて推力を得る。よってタービン式圧縮器が要らない。ただし強烈な衝撃波背後圧縮が生じない超音速以下(マッハ1.4前後以下)ではラムジェットは動作しないので、それ以上の速度までの加速が必須となる)。

当初はラムジェットエンジンでの飛行のため、ブラックバードからマッハ3での発射を考えていたのですが超音速飛行中の切り離しは困難が伴い、最終的に死亡事故まで発生、これは断念されます(ただし何度かは成功してる)。後にB-52からの落下式発射に切り替えられ(固体燃料ロケットブースターでマッハ3まで加速後、ラムジェットエンジンを始動)、実際に中国への実験偵察にも投入されました。ただし4回行われた全ての偵察飛行に失敗(無事に帰って来た事もあったがフィルムの回収が難しく一度もこれに成功しなかった)、最終的に1971年の夏にその計画は打ち切りとなっています。

無人機でコクピットが不要になったこと、エンジンが単発でエンジンポッドが無くなったこと、そして小型だったことなどにより、当時知られていたステルス対策が全て理想的な形で盛り込まれ、驚異的なステルス性を持っていた機体だったようです。リッチによるとスカンクワークスの第一世代ステルス機で最もその性能が高く、実戦テスト飛行において中国のレーダーがこれを捕らえた形跡は無い、としています。もっとも中国側の記録が公開されてないので、断言はできませんが…


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