■対レーダー戦 これだけしっかりした対空レーダー網をドイツが構築していたとなると、連合軍側としてはそのレーダーをどうやって潰すかという戦術が、重要な位置を占める事になって来ます。ところが英米共に、この点は驚くほど後手に回ってしまっていたのでした。これは前回述べたような、まさか対空射撃にレーダーを使ってるとは思って無かった、という面が大きいのですが、この辺りも少し見て置きましょう。 ちなみにイギリス側のこの辺りの対策に関しては、あらゆる本よりロンドンの帝国戦争博物館の展示が一番判り易くて詳しいものでした。あの博物館の展示は結構入れ替わるので、今でも展示が続いてるか未確認ですが… バトル オブ ブリテンの直前の1940年前半、英独ともに、英仏海峡周辺で、妙なパルス波が受信される事に気が付いてました。これによって、どうやら相手もレーダーを持ってそうだ、と互いに知ったわけです。さらにイギリスは、ドイツのレーダー波が大きく分けて二つの周波数帯に分かれることに1941年に入ってから気が付きました。 これは早期警戒用レーダーのフライアと、射撃管制用のヴュルツブルグのものなのですが、すでに書いたように連合軍側に射撃管制レーダーという発想はありませんでしたから、イギリス人には、なぜ二種類の異なる周波数のレーダーがあるのか判りませんでした。それどころか、当初、ヴュルツブルクレーダーの電波はレーダー用のものかどうかも判断できなかったようです。 フライアについては、長距離レーダーですからイギリス本土でレーダー波を受信してしまえば、ある程度まで分析することができました。が、短距離用の射撃管制レーダー、ヴュルツブルグの方は最大でも60km程度しかレーダー波は飛ばないのでイギリス本土からでは有用な情報を得るのは難しく、十分な情報が手に入りません。このためイギリス側としては全く謎の電波装置という状況だったようで偵察機がその発信源と思われるパラボラアンテナの写真をもたらすまでほとんど情報がなかったとされます。 後に暗号解読によりヴュルツブルグ、という装置の名までは判ったのですが、なにせ電波を捉えにくいのでそれ以上の情報がありません。 ここで、イギリスは、いかにもイギリスらしい結論にたどり着きます。 資料がないなら、現物を奪って来てしまえばいいのではないか?(笑)。 他所の国なら、お前はアホかと総員からツッコまれそうな発案は、1941年12月、思わぬ展開を見せます。偵察機によってフランスのブルターニュ半島のブリュネーヴァル(Bruneval)に以前から電波の発信源として疑われていたパラボラアンテナが発見されたのです。これによって、この無茶な計画は一気に現実化します。 発見されたアンテナと装置は非常に海岸線から近い位置に設置されおり、これなら持ち逃げできるだろう、と最終的にイギリス側が判断したのが1942年1月上旬でした。ただし、さすがに海からの上陸は無理だと判断され、空挺部隊による強襲、そして撤退時に海軍が海岸まで揚陸艇を差し向ける、という作戦が立案されます。そして作戦名は「Operation Biting(噛みつけ大作戦?)」に決定されました。 これが、いわゆる「ブリュネーヴァル襲撃(The Bruneval Raid)」で、悪天候などにより数度の延期を経たものの、1942年の2月27日の深夜から28日早朝にかけて作戦は決行されます。そしてホントにレーダーの主要パーツを抜き取って持ち去るのに成功、さらには複数のドイツ人操作要員まで捕虜にして見事イギリスに帰還してしまうのでした。下手な小説や映画顔負けの作戦だったと言えるでしょう。
RADAR AND
ELECTRONIC WARFARE 1939-1945 c IWM (D 12870)
が、イギリスがカッコ良かったのはここまででした(笑)。 これにより、ついにヴュルツブルグレーダーの現物を手に入れたイギリスは、これが高周波短距離レーダーであること、そしてその正確な波長まで突き止めたのですが、最後まで射撃管制レーダーだとは気が付かなかったのです。 実はこの時襲撃したのが夜間戦闘機の誘導用レーダーシステムに使われていたヴュルツブルクレーダーだったため、イギリスは夜間戦闘機をより正確に誘導するための高精度レーダーだろう、と判断してしまったようです。 この結果、レーダーによる射撃管制、という肝心なポイントを見逃してしまい、結局43年後半〜44年まで、イギリスの夜間爆撃部隊は不可解な損失を出し続ける事になります。 それでもドイツが利用してる二つのレーダー、フレイヤとヴュルツブルクの周波数情報が完全にイギリスに把握されてしまったのも、また事実でした。これが後の電子戦に大きな影響を与えて行きます。 ■イギリスのレーダー欺瞞戦術 すでに第二次大戦の航空戦において敵レーダーを無力化するのは必須の対策でした(ただしノンキな日本上空を除く…)。 理想的なのは物理的な破壊、爆弾落としてぶっ飛ばしてしまうことですが無数のレーダー基地(ヴュルツブルグだけで4000台作られている)をイチイチ追いかけるのは不可能でしたし、さらにヴュルツブルグレーダーの場合は車載型も多く、作戦が終わると移動してしまうためその捕捉は極めて困難でした。 となると、最も効率のいい対策は電波妨害、という事になります。成功すれば一気にエリア内のレーダーを全て無力化できてしまいますからその効果は絶大です。これがいわゆるECM戦、対電子兵器戦でありヨーロッパ戦線では第二次大戦中からすでに本格的な電子戦が始まっていたのです。特にイギリスはかなりの力を入れてました。 対してドイツは電波戦の発想がやや遅れていた印象があり、バトル オブ ブリテンの段階ですでにイギリス沿岸部レーダーの存在に気が付いていながら直接爆撃で叩く以外、ほとんど何もしていません。 そのイギリスの電波戦には大きく分けて二種類がありました。一つ目はWindow、「窓」と呼ばれたアルミ片を張った紙、いわゆるチャフを空中からバラまいてレーダー波を乱反射させ、そのかく乱をねらったもの、そしてもう一つがより高度な戦術、敵レーダー波にカウンターで妨害電波をぶつける、いわゆるECMでした。 どちらにしても重要なのが敵レーダーの周波数の情報で、これがわからないと妨害ができません。チャフは目標とする周波数に合わせた長さでないとほとんど効かないし、ECMに至っては周波数がわからなくては何もできません。となるとイギリスにとってドイツレーダーの周波数情報は極めて優先度の高い情報となってゆきます。 この点で長距離まで届いたフライアレーダーのパルス波はイギリス本土でも受信できた上、偵察機からの写真、捕虜の尋問などによりほぼ丸裸にされてました。とりあえずイギリスのレーダーシステム、チェーンホームシステムに使われたAMES Type 1(&2)と同じ早期警戒レーダーであることはわかっており、波長も既に解析されていたので、早期からその対策のメドが立っていました。そしてヴュルツブルクレーダーもすでに見たようにその情報を完全に把握できたので、1942年の春までにはその準備は整った、ということになります。 すでにイギリスの電信研究所(TRE)で、レーダー波長の約半分の長さの金属片は、レーダー波をよく反射するという実験から“Window”と呼ばれるレーダー欺瞞兵器、後のチャフの源流となるものが開発されていました。実験により対象とするレーダー波長の約半分の長さのアルミ箔を黒い紙の裏表に貼り付け、1ポンド程度の重さの束にして、航空機からばら撒くと、極めて効果的なレーダー妨害となることがわかっていたのです。 これにより敵のレーダーサイトには無数の反応が出現、画面がうめつくされてしまい、その中にいる敵機を拾い出すのは不可能となるほか、本隊とは別の場所で散布すれば、レーダースコープ上では、まるで複数の大編隊が進行中のようにも見せかけられました。 ただし、あまりに単純な「兵器」のため、イギリスはこの投入のタイミングを慎重に探り続けます。もしドイツのレーダー技術者がアルミを貼った紙片を見れば、一発でその仕組みがわかってしまう原理のものであり、これをドイツ領内でばら撒けば、当然、地上で回収されて対策を取られてしまう可能性が高いからです。そしてドイツも同じ装備を採用してくるでしょう。 実際、後にドイツは後にすばやい対応を見せていますから、これは杞憂ではありませんでした。
これはアメリカと共同の昼夜の爆撃作戦でしたが、最初の爆撃は24日のイギリスの深夜爆撃からスタートしました。イギリスはドイツ側のレーダー波長が大きく3種類である事を確認しており、(フライア、ヴュルツブルグ、後は多分夜間戦闘機の機上レーダー)それに合わせたサイズのWindowを計40トン近くばら撒いたとされます。 その効果は絶大で、ドイツのレーダー網は早期警戒のフライアがまず潰され、間もなくヴュルツブルグレーダーも完全に目潰しされる事となったのです。これによって、対空砲火も、夜間戦闘機の誘導も完全にダウンしてしまいました。ドイツ側は完全なパニックに陥ったと言われています。 では、この時の連合軍側爆撃機の損失を見てみましょう。数値はイギリス空軍のBomber Command Campaign Diary から直接拾ったもの。 とりあえず初日の7月24日の状況は以下の通り。
出撃数791機(ランカスター347機 ハリファクス246機 スターリング125機 ウェリントン73機)
前年、1942年のイギリスの夜間爆撃の損耗率が平均4.7%ですから実に1/3まで激減してしまっているわけです。やはり、レーダーを潰してしまう、というのは大きいのでした。 ■ドイツ側の対策
このように効果は絶大でしたが、当然、ドイツ側の対応も早かったのでした。彼らはWindowの金属が張り付けられた紙片を発見するとすぐに対策に入ります。まずはその場に漂ってるだけの金属片と高速飛行してる爆撃機を見分けることを考えつきます。
もう一つは、レーダーの波長を変えてしまえばいい、という基本的な対策でした。とはいえ、波長を短くする(周波数を上げる)のは技術的には困難で、方向性としては長くするしかありません。つまり、その探査精度を下げることになりますから、限度はあったでしょう。とりあえずゴモラ作戦中、すでにドイツはその対策を採用し始めてるのですが、どっちの対策をどれだけ採ったのか資料によって記述が異なるため、詳細はよく判りませぬ。 つまり、Windowによる効果は、ほとんど7月24日一晩だけで、ドイツにはもう通用しなかったのでした。これが常に進化し続ける電子戦の特徴で、技術的に解明されてしまい、対策が取られると速攻で無効化されてしまうのです。 (余談だが二回ともランカスターの7割相当の機体しか出撃してないのに、つねに同じ数が撃墜されてるハリファクスにも注目。どうもこの機体も脆弱性の問題を抱えていた可能性が感じられる)
なのでイギリスは、次の対抗手段である電波妨害、ECMに軸足を移してゆきます。 この点、ドイツは高周波をそもそも使えない(それを発生させるマグネトロンの開発に失敗してる)ので相手のレーダー波を潰せない、というハンディを背負っており、あらゆる周波数が使えるイギリスに対抗できませんでした。 よって、この段階ではイギリスの圧勝という展開になってゆきます。そしてイギリスは1943年末ごろから、ヴュルツブルクレーダーのを目潰しが極めて有効な事に気が付き、その結果、1944年の損耗率は2.3%とほぼ半減する事になりました。イギリスはこうしてドイツが対空砲にレーダー照準を使ってる事に気が付いたのだと思われます。 なので第二次大戦のレーダー照準対空射撃はドイツによって始められ、おそるべき効果を見せましたが、大戦後半にはすでに対策が練られ、無効化が進んでいた事になります(繰り返すが日本は芸術的なまでに何もやってないので蚊帳の外である)。 ちなみに実はドイツ側も、レーダー妨害用のチャフを実戦に投入しています。 Düppel(読めません…)と呼ばれたそれは、イギリスがWindowを投入した3カ月後の1943年の10月から、対イギリス爆撃に投入されています。時期的にWindowのパクリだと考えられていましたが、どうもドイツはドイツで、独自に研究はしていたらしいです。が、当然、イギリスもすでにその対策は完成させてますから、あまり効果はないまま終わってしまいます。 こうして第二次大戦の戦略爆撃とレーダーの戦いはECM戦の完成で終焉を迎えます。当初はドイツ側のレーダー管制射撃によって多大な損害を受けていた連合軍の戦略爆撃機も、最後は電子戦の優位によってその損失を徐々に減らす事に成功した、と見ていいでしょう。 では果たしてその安全性は以後も有効だったのか。 次にこの点に関して朝鮮戦争とベトナム戦争について、簡単に見て置きましょう。 |