■第七章 エネルギー機動性理論の時代


■戦略爆撃時代の終焉

アメリカの、それどころか世界中の戦闘機に革命をもたらしたエネルギー機動性理論をボイドが完成させたのが1963年。
ベトナム戦争にアメリカが直接格介入するきっかけとなったトンキン湾事件が起きたのがその翌年の1964年8月で、その数か月後にボイドは例のラングレー基地におけるプレゼンに成功しました。
その後1965年の2月に、アメリカの戦略爆撃戦略を引っ張って来た男、カーチス・ルメイが空軍を追われ、その直後にアメリカ空軍はベトナムに本格的に参入を開始、そこで地獄を見る事になるのです。

つまりボイドのエネルギー機動性理論はベトナム戦争に合わせるかのように、そして同時にカーチス・ルメイが追放され、戦略爆撃空軍から空の上で戦う空軍へと大きく舵を切るアメリカ空軍の変化に合わせるかのように登場したことになります。もっとも、戦略爆撃空軍ではななくなったものの、ICBMによる核ミサイルは相変わらずアメリカ空軍の主力ではあり続けるのですが、それでも、この変化は劇的でした。これによって、F-15、F-16という機体が誕生し、アメリカ空軍が朝鮮戦争以来失っていた航空戦力による空の制圧能力、航空優勢が再度確保される事になったからです。

運命とも言える感じで全てが一気に動き出すのがこの1963年から65年にかけてのアメリカ軍なのですが、ボイドとは別にこの動きを決定づけた人物が二人いました。
当時空軍の最高責任者、空軍参謀総長なっていたキチガイ将軍、カーチス・ルメイ、そして1961年1月のケネディ大統領登場と同時に国防長官に指名されたロバート・マクナマラです。この二人の対立とルメイの失脚がその後のアメリカ空軍の方向性を決定づけます。よってここでは当時のアメリカ空軍の動きと、この二人の行動を確認しておきましょう。

■マクナマラの登場

すでに見て来たようにアメリカ空軍は核兵器の登場によってその戦略空軍としての全盛期を迎える事になっていました。その先頭に立っていたのがあのキチガイ将軍、カーチス・ルメイだったわけですが、彼はその功績と本人の野心により、1961年夏から空軍内の最高責任者、空軍参謀総長に就任して、その絶頂期を迎えていました。

ところが、核戦略に熱心だったアイゼンハワー大統領の時代が終わり、若くて野心に溢れるケネディ大統領が同年1月に就任しており、このため間もなく、その風向きが変ります。彼は核戦争に備えた軍隊は、戦争が始まったら全面核戦争による人類絶滅しか残された道が無い、という点に不安を抱き、単純な武力行使可能な軍隊、つまり通常戦力の充実に舵を切ります。

そこで大きな役割を果たしのが既に何度か名前が登場してる国防長官、マクナマラでした。そしてルメイが先頭に立っていた戦略爆撃空軍に最初に致命傷を与え、アメリカ空軍の正常化の最初の大きな動きを果たす事になるのもこのマクナマラでした。後にベトナム戦争への道を整え、さらに過度な前線への干渉で悪名を残すマクナマラですが、空軍再生へと果たした役割が大きいのもまた事実です。
エネルギー機動性理論の時代に突入する前に、この功罪相半ばする人物を、少し詳しく見て置きましょう。


■Photo US Army

1961年1月から1968年2月まで7年間に渡り国防長官を務めたロバート・S・マクナマラ(Robert Strange McNamara)。千葉の田舎の詐欺師みたいなビシッと決めた髪型が特徴です。ちなみに写真は就任直後、まだ44歳でやるき満々だった時代なので若々しい印象がありますが、その後、年を追うごとに目に見えて老けて行きます。激務と心労によるものでしょう。

国務長官、財務長官、司法長官と並ぶ四大長官の一つである国防長官は、権力争いにも巻き込まれやすい地位のため入れ替わりが激しく、大統領一期分の4年務めた人物はまれ、それどころか数カ月しかその地位にいなかった、という人物がゴロゴロしてます。その中で、マクナマラは実に7年間、しかもケネディとジョンソンという二人の大統領の三期に渡る期間その地位にありました。これは未だに歴代最長の就任期間記録です(ジョンソン大統領一期目はケネディ暗殺による就任のためわずか1年半ほどで終わり、その後選挙で当選して二期目に入った)。

彼はアイルランド系移民の子で(祖父が移民としてアメリカに来た)、この辺りが同じアイルランド系のケネディの関心を引いた可能性もあるのですが、詳細は不明。ちなみにロバート・S・マクナマラのミドルネームのSはStrange、すなわち「奇妙な」の意味で、形容詞をミドルネームにしている、というまさに“奇妙な”名前を持ちます。
イギリス海軍みたいな変な命名ですが、元々は母親の旧姓だそうです。とりあえずかなり珍しい名前なのは確かで、結婚する時、奥さんからそういえばあなたのミドルネームは何?と聞かれて、“It is Strange”(奇妙だよ)と答えたところ “奇妙でも何でもいいから、さっさと教えて!” と怒られたそうな。

さらに余談ですがスタンリー・キューブリックの映画、博士の奇妙な愛情(Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)に出て来る大統領の顧問らしいストレンジラブ(奇妙な愛)博士の名前の元ネタ、という話もあるんですが、キューブリックはこの点、何も語って無いので詳細は不明(映画はケネディ政権最初のヤマ場、キューバ危機の後で撮られてる)。

マクナマラは1916年サンフランシスコの産まれで、カリフォルニア大学バークレー校を卒業してます。バークレーは私立大が多いアメリカの一流大学では珍しい公立校で、このため当時は学費が安く、さらに彼の地元にあるため決して裕福とは言えなかった苦労人のマクナマラが唯一入れたまともな大学として選択したものでした(そもそも大恐慌後の時代だ)。
その後、大学卒業後は奨学金を得て東海岸にあるアメリカの最高学府ハーバードのビジネススクールに入学、1939年にMBAを取っています。その後は一度カリフォルニアに戻るものの、間もなくハーバードに呼び戻され、1940年から助教授としてビジネススクールの教壇に上がる事になりました。この時、若干24歳であり、もっとも若く、もっとも高給取りな助教授だったとされます。

その約1年後、日本が真珠湾攻撃でアメリカを戦争に巻き込むと、既に見たようにハロルド・ジョージによる陸軍航空軍の戦略爆撃理論が動き始めます。が、ジョージの計画はそれまでわずか150機前後しかなかったB-17をいきなり数千機単位で生産し、さらにB-24、B-36という機体まで計画、これを管理、運用するというものでしたから、かなりの無理がありました。

よってこの辺りの管理のため、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン投資銀行の経営陣の一人、第一次大戦では航空部隊で活躍し航空機に一定の知識があったラヴェット(Robert Abercrombie Lovett)が戦争長官航空補佐(Assistant secretary of war for air)として招集されました(戦争長官という冗談みたいな名前はアメリカの陸軍省にあたる戦争省の長官の事。戦後に海軍省と合併して国防省となる。ちなみにアメリカに陸軍省という省庁が存在した事は無い。ついでにラヴェットは戦後、トルーマン政権で1年弱だけ国防長官の地位にあり、その任期中に朝鮮戦争が勃発してる)。
必要とあれば一流の会社経営陣を軍に引っ張って来る、というのはアメリカがよくやる手なんですが、GMから引っ張て来られて戦時の軍事生産全般を監督したヌードセンといい、多くの人材が見ごとな働きをしており、なるほどアメリカはビジネスの国だと、改めて思ったりします。

このラヴェットが、あのアメリカ航空戦力の大生産に多大な貢献をするのですが、彼が就任後に陸軍航空軍について調べて見ると、その大拡張に伴うまともな組織づくりもままならず、ましてや膨大な装備をいきなり配備されてもまともに管理する事すらできないと知ります。驚いた彼は、若い士官たちに大規模組織の管理と備品の管理、運用を学ばさせるため、経済統計を学習させようと思い立つのです。ここで白羽の矢が立ったのが、当時、ハーバードのビジネススクールで有名人になりつつあったマクナマラ達の若い教師陣で、彼らの教室に1942年から多数の陸軍航空軍の士官が送り込まれ始めます。

そして1943年以降のヨーロッパにおける戦略爆撃開始を前に、統計学を基に爆撃成果の分析と計画立案をする部門の設立が行われ、マクナマラ達の優秀な頭脳に驚いていた陸軍士官たちはこの部署で働くように彼らに要請、これを受けてマクナマラともう一人の同僚の二人がハーバードからイギリスの第八航空軍司令部に陸軍大尉として配属されます(マクナマラは後に中佐まで昇進)。一種の徴兵でもあったようなんですが、詳細は不明。

そして、ここで彼は徐々に頭角を現しつつあった、カーチス・ルメイに出会う事になるのです。
後に彼の配下になってヨーロッパにおける戦略爆撃の立案、戦果評価に深くかかわり、ルメイが太平洋戦線の第20航空軍第21爆撃軍司令部に指揮官として栄転し、対日本爆撃を指揮するようになるとマクナマラも第20航空軍に転属になり、対日爆撃計画の立案に深くかかわりました。

ここで爆撃の評価、計画についてルメイと何度も対立、これが彼とルメイの対立の始まりとされるのですが1995年に出版されたマクナマラの自伝 IN RETROSPECT(振り返って見て/邦訳の題は「マクナマラ回顧録」)ではこの辺りの時期についてわずか数行の記述しか無く、その上、ルメイのルの字も出て来ませんので、詳細は不明です。
そもそも彼の自伝では、ルメイはわずかに数か所、アメリカ空軍にそういった男がいたよ、程度しか登場しません。が、国防長官就任後のマクナマラと空軍参謀長官時代のルメイの対立は公然の秘密でしたから、これは極めて不自然で、よほど大嫌いだったんだな、と思わざるを得ません(笑)。マクナマラは表立って人を批判しない人なので、まったく触れないという事は逆によほど言いたいことがあったんだろうな、と思われるのです。

■フォード社長から国防長官へ

第二次大戦が終了すると、徴兵に近い扱いだったマクナマラ達は除隊が可能になり、彼は当初ハーバードに戻るつもりでした。ところが、終戦間際、アメリカに帰っていた彼と奥さんが同時に小児麻痺(ポリオウィルス感染)に掛ってしまい、かろうじて回復したものの、医療費が莫大なものになってしまいます。

同時期に陸軍時代にマクナマラ達の統計チームを率いていたストーントン大佐(Charles Bates Thornton)がそのチームほぼ全員、10人ほどをまとめて経営統計の専門家チームとして民間企業へ高給で転職するべく画策しており、マクナマラにも声が掛かります。当初は渋っていたマクナマラですが、結局、ハーバードの教員職の給与では夫婦の小児麻痺の治療に必要な医療費が払えず、その誘いに応じます。

やがてストーントンは戦後、軍需が無くなって再び経営不安が出て来たフォード自動車へ彼らの売り込みに成功、10人の統計専門退役軍人たちが、フォードの経営に深くかかわる立場で採用されるのです。これが例のウィズ キッズ(Whiz Kids/神童)と呼ばれる事になる若手たちで、グループのボスだったストーントンは間もなくフォードの経営陣と対立して会社を去るものの、残った9人のうち2人がフォード関連の会社で社長(内1人がマクナマラ)に、1人が副社長にまで昇り詰めているので、たいしたものだと言っていいでしょう。ただし残り6人の内、2人は在職中に自殺に追い込まれており、頭が良すぎるのも考えモノなのかもしれません。

そのウィズ キッズの中でも最も早く頭角を現し、オーナー社長であるヘンリー・フォード2世(創業者のヘンリーの孫)から気に入られ、1960年10月の段階で社長の地位にまで上り詰めたのがマクナマラでした。
当時はヘンリーの孫、ヘンリー・フォード2世が会社の実権を握り、社長を兼ねていたのですが、1960年、フォード一族以外からの初めての社長としてマクナマラが抜擢されたのです。ただしPresident ですが、CEO、経営責任者ではないので、会社の最高責任者ではありません。そちらはあくまでヘンリー・フォード2世が握ってました。

ところがその就任からわずか2が月足らずの12月、前月に行われた大統領選に勝利したばかりのケネディ政権が彼に接触して来ます。ケネディ政権で財務長官か国防長官にならないか、という申し出で、驚いたマクナマラは一度これを断っています。が、最終的に大統領本人からの要請を受け、フォードの承認も取り付けた結果、かれは1961年1月に国防長官に就任する事になるのです。

その前にフォードの社長は辞任してますから、実質7週間前後の社長だったのですが、それでも自動車会社の社長から全く畑違いの国防長官に就任してしまったのです。マクナマラによれば、例のトルーマン政権で国防長官まで務めたラヴェットが最初にケネディから国防長官の就任要請を受けたが、これを辞退、代わりに自分を推薦したようだ、という事です。
ちなみにラヴェットは後で見るように、朝鮮戦争において軍の大幅な予算拡大に尽力し、後の軍事予算の拡大に道を開いてしまった国防長官であり、その方向を是正したマクナマラを推薦していた、というのはなんとも皮肉です。
ケネディはアイゼンハワー大統領時代に誇大化した軍部に危機感を抱いており、さらに核装備を主とした軍隊からの転換を行う管理人を必要とし、このためマクナマラのビジネスマンとしての手腕に期待した、という面があったようです。

実際、軍の暴走を抑える面でマクナマラは大きな業績を残すのですが、同時に軍事の素人(第二次大戦では本部で統計分析をやっていただけで前線勤務の経験は無い)がベトナム戦争に深くかかわってしまう事で、これを迷走させます。やはり功罪相半ばする人物、という他ないでしょう。

■マクナマラによる軍の再構築

アイゼンハワー時代は軍部が一気にその発言力を増した時代でした。
これは冷戦の進行が最大の要因ですが、元は軍人のトップであるアイゼンハワーが大統領だったという面も恐らく無関係ではないでしょう。この時代のアメリカの異常さは現代からはちょっと想像しがたいのですが、軍事国家一歩手前という状態にあったと言っても過言とは言えない部分があります。

この辺り、1963年に公開されたキューブリックの映画「博士の異常な愛情」にどこか大統領をバカにしたような態度の空軍参謀総長(愛人と居る所を電話で戦争対策室の円卓会議に呼び出される男)が出て来ますが、まさにああいった感じの雰囲気、軍こそが国家を動かすのであって、大統領とて例外ではない、といった雰囲気が当時のアメリカ軍にはありました。まあ、狂ってるんですね。その代表が、この映画の空軍参謀総長のモデルと言われる、カーチス・ルメイなのですが。

とりあえず当時の異常さは、ベトナム撤退までのアメリカ政府の財政支出(Federal spending)における軍事費比率(Defence share)を見るとよく判ります。政府の全支払い、歳出の内、軍事費がどれだけを占めるのかを示すのが以下のグラフです。
左が年度で上に行くほど新しく、下が各年度における軍事費の支出が占める割合を示します。あくまで全支出に対する割合であり金額ではないのに注意してください。この方が金額で見るよりも、インフレ等による誤差が無視できるので便利なのです。ちなみに21世紀に入ってからは国防予算は全歳出の20〜25%に抑えられてますから、冷戦時代の異常さをよく見て置いてください。



まず目につくのは第二次大戦中の軍事費の比率の異常な高さ、特に終戦の年1945年には約9割近くを占めている異常さです。当然、こんな出費を続けていたら国が滅びますから、戦争終了と同時にトルーマン大統領によって大幅な軍事予算の削減が始まります。グラフでも、戦後処理が終わった1947年から急速に軍事予算の割合が落ちてるのがわかるでしょう。
この締め付けは極めてきつく、軍はどこを見ても金がない、という状況になり危機感が募ります。そんな状況の中でルメイが率いる戦略航空司令部、SACが“安価で強力”とされた核武装による軍備を主導して空軍の、さらにはアメリカ軍全体の実験を握ってしまう事になったのです。

とりあえず、この予算縮小により、1948年〜1950年には軍事支出は30%近くにまで下降しました。それでも30%なんですが、この後、再びそのレベルに戻るのは実に1973年以降で、二十年以上もかかってしまったのでした。

ところが1950年6月に始まった朝鮮戦争によって、国防長官、例のラヴェットが主導して議会に対して大幅な軍事予算の拡大を要求、このため1951年に、再び軍事予算は全支出の5割を超えてしまいます。そして翌1952年で民主党のトルーマン大統領の任期が終わり1953年1月からは共和党の元軍人アイゼンハワーが大統領として登場します。

その1953年7月に朝鮮戦争は休戦となるのですが、一度拡大された軍事支出は全く削減されず、1954年も政府の総支出の7割近い部分を占める、という平時の民主主義国家としては極めて異常な事態となって行くのです。結局、アイゼンハワーが大統領の座にあった1960年まで、その割合が5割を切ることはありませんでした。
これは準戦時状態とでもいうべき状況であり、狂ってる、というほかありません。この時代にアメリカの軍は誇大化し例のセンチュリーシリーズのような、軍は金になる兵器生産のために存在する、という組織劣化が起こるわけです。

その後、1961年に発足した民主党のケネディーが政権は、この狂気を正面から叩き潰しに行く事を決心します。で、その重大な任務の切り込み隊長に任命されたのがマクナマラで、彼はこの点はよくやりました。
彼が実質的にその予算編成に影響を及ぼせるようになった1962年以降、軍事費は総支出の50%以下を維持し続け、ベトナムへの本格介入が始まる1965年まで、それは減少し続けます。以後、彼が退任した1968年に増加を見せましたが、それでも50%を超える事はありませんでした。

ちなみにマクナマラが国防省、ペンタゴンに入って最初に驚いたのはその人員の多さでした。当時の四軍と沿岸警備隊の軍人、いわゆる制服組は約350万人、それに軍属ではない文官、軍属の民間人が約100万人、合計450万人が軍のために働いていました。1961年当時のアメリカの人口は約1億8400万人ですから、軽く総人口の約2%以上が軍関係者なのです。マクナマラが確認したところ、全米のトップ30社の全従業員を合わせてもこれを上回る事は無いと知り、彼は驚愕します。

実際の就労年齢だけに限り、さらに防衛産業で働く人間を入れれば、この数字はもっと大きくなったはずで、アメリカ最大の産業は軍である、という冗談みたいな事態が生じていたのでした。当時のアメリカが軍事国家一歩手前だった、というのが冗談ではないのが判っていただける数字でしょう。
ちなみに2010年代以降は軍人だけなら150万人以下と約半分に減り、さらにアメリカの人口が3億を超えてますから、軍属の民間人を含めても、その比率は0.5%以下まで下がってます。

F-111の開発は大失敗でしたが、その考え方、製造と運用のコストを意識した効率的な軍の運用という発想は間違って無かったと言っていいのです。さらにマクナマラは軍人から軍の指揮系統、文民統制を奪い返す事にも成功したと言って良く、この点は高く評価されるべきだと思われます。

ただし金を奪われ、さらに以前のようなワガママが通らなくなった軍人からは憎悪されました。
そんな中でベトナム戦争において戦略、戦術レベル全てで細かく口を出したのが切っ掛けとなり、議会を巻き込んだ軍の反撃により検討委員会が設置され、大統領に次ぐ軍の責任者の能力に疑問符が突きつけらてしまいます。さらに、ジョンソン大統領が議会からの突き上げに対し、彼を庇わなかったため、1968年2月、形の上では世界銀行の総裁へ転出、という形で国防長官の地位を追われる事になりました。

この点、同じ軍を敵に回したのでも、殺されてしまったケネディ大統領に比べればまだマシ、ともいえますが、もしベトナム戦争さえなければ、平時に見事な裁量を発揮した国防長官として、もっと良い形でその名を残せたはずだとは思います。


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