■第五章 センチュリーシリーズの困惑


■F-110とF-111

さて、センチュリーシリーズはF-106で打ち止めなのですが、百番台のFナンバーの数字を持つ戦闘機はもう二つありました。
これらはセンチュリーシリーズの跡を継ぐ、ベトナム世代の機体だったのですが、一つは国防長官に押し付けられた海軍機、もう一つは戦闘機としては絶望的な失敗作で、最後は全天候型攻撃機に改造されてしまいます。

この辺りの迷走も最後に見て置きましょう。

■マクダネルダグラス F-4ファントムII



当初、F-110の機番は空軍型のF-4ファントムIIに与えられる事になっていました。
1961年に登場するケネディ政権の新国防長官、マクナマラが空軍の戦闘機開発の迷走と、その非効率的な多品種採用に激怒した結果、海軍から空軍に対して押し付けられる事になった戦闘爆撃機です。
彼は全軍(空軍、海軍、海兵隊)がすべて同じ機体を採用してコストを下げることを望んでおり、1958年に初飛行、1960年から部隊配備が始まり、一定の性能を示していた海軍のF-4ファントムIIをそのための機体に指定したのでした。ただし後にこれまたマクナマラのお達しにより、海軍と空軍の戦闘機は共通の通し番号とする、とされたため、空軍での呼称も海軍と同じF-4に変更され、F-110は欠番になってしまいます。
写真は最初の空軍型であるC型。ちなみにこの最初の空軍型にはまだ機首下のヴァルカン砲はありませぬ。

もともとは海軍が艦隊防衛用のミサイル戦闘機として開発していた機体で、遠距離からレーダーで敵を発見、艦隊攻撃なんて不可能な距離にいるうちに誘導ミサイルで撃墜してしまえ、というちょっと変わった戦闘機でした。複座なのはその複雑な操作を要する遠距離迎撃ミサイル(スパロー対空ミサイル)およびレーダー関係の操作員が後部座席に乗るため。
後に戦闘爆撃機にあっさり機種変更できたのは、最初から複座だったので、武器とレーダーの操作担当が確保できていたから、という面が大きいです。

ただしファントムIIは元は艦隊防衛用の遠距離ミサイル戦闘機である以上、最初から空中での格闘戦なんて考えてませんからソ連製戦闘機に対して、ほとんど優位な点を持ってませんでした。海軍の戦闘機としてなら、むしろその前の世代、F-8クルセイダーの方がはるかにマシだったのです。
ところが当時の空軍の戦闘機はすでに述べたようにさらに悲惨な性能でしたから、性能試験ではファントムIIに敵わず、これがベトナム戦における主力戦闘機となって行きます。が、当然、ミグ相手には苦戦を強いられており、まあ、戦闘機としては特に優秀とはいいがたい機体です。
ただし戦闘爆撃機として考えた場合は、一流の性能を持っており、とくに機首にヴァルカン砲を搭載した空軍型ファントムの威力は相当なものでした。このため、戦争が進むにつれてF-105から徐々にファントムIIにベトナムの爆撃任務は移管されて行くのです。

最終的にアメリカ空軍は2600機もの大量のファントムIIを採用、これは海軍の倍以上の数でした。


■ゼネラルダイナミクス F-111(ただし写真は電子戦用機に改造された EF-111A)



そのファントムIIの後継として全軍共通戦闘機となるべく新たに開発された…はずだったのが複座で可変翼の、このF-111でした。
すでに述べたように元フォード社長(CEOではない)という異色の経歴の国防長官、マクナマラが軍のコスト削減を目指して、空軍、海軍、そして海兵隊共用の新型戦闘機、TFXとして開発させた機体でした。ベトナム戦争に空軍が本格参入した直後、1964年12月には早くも初飛行に成功してます。

が、空軍も海軍も自分達の性能要求を譲らず、この結果、あれもこれも詰め込んでしまい、戦闘機としては異常なまでに大型の機体となって、その重量からどう見ても戦闘機には向いてないのが明らかでした。さらに横並びの複座という、戦闘機としては異常な座席配置から、パイロットからも嫌われてしまいます。

このため海軍は計画を主導したマクナマラが国防長官の地位を去ると速攻で受け入れを拒否、独自にグラマンと契約を結び後のF-14の開発をスタートさせてしまいます(F-14に可変翼が採用されたのはF-111の影響による)。さらに一時は採用を検討していたイギリス空軍も採用を却下してしまうのです。

結局、残されたアメリカ空軍だけが攻撃機、戦術爆撃機として採用します(後にオーストラリア空軍なども少数採用するが)。ちなみに大型なのでレーダーなどの電子装置は豊富に積めたため、これにより空軍初の全天候型戦術爆撃機、夜でも雨天でも、地形が目視できなくても出撃できる機体となります。

ただしこれがまともに活躍するのはベトナム戦争最後の大作戦、1972年のラインバッカー作戦の段階から、すなわちベトナム戦終了間際で、逆に言えば、その段階に至るまで、空軍は全天候型の地上攻撃機を全く保有してなかったのです…
海軍は戦争初期からA-6を投入してましたから、この点でもほんとにお粗末、という事ができます。ただし全天候型攻撃機として考えるならF-111は最終的にはかなり優秀な機体となりましたが、本来は戦闘機だったのだよ、という点からすれば完全な失敗作だったと言えるでしょう。

さらに初飛行後、ベトナムに試験的に持ち込まれて実施されたそのデビュー戦も史上最悪、というべきものになってしまいます。
戦場での試験に6機のF-111がベトナムに持ち込まれるのですが、1968年3月に作戦行動を開始すると、最初の三回の出撃で一機も帰還しない、すなわち三連続で機体は行方不明、さらに損失原因も不明、という前代未聞のデビューを果たし、速攻で撤退となりました(そもそも初飛行から4年もかかってこれなのだ…)。

その後の調査では水平尾翼の強度不足が判明し、この結果、全機が飛行停止となります。なんで人が死ぬ前にキチンと調べないのかね、という感じですね、この辺り。最終的には4年後の1972年のベトナム最後の大作戦、ラインバッカー作戦で前線復帰、一定の活躍をするものの、ダメ戦闘機、殺人(自分に対して)爆撃機というレッテルは以後も残ってしまうのでした。
さらに高価なこともあり、戦闘爆撃機としての優秀さが認められたにも関わらず、総生産数は500機前後で終わることになります。

■海軍の事情

さて、このアメリカ空軍の狂気の時代、1950年代半ばからベトナム戦が始まる1960年代前半に限ると、アメリカの空を支え続けたのは間違いなく海軍でした。のちに1970年代以降、特に空軍にボイドが登場して以降は、逆にこちらの迷走が始まるのですが、とりあえずベトナム戦でアメリカの空を支えたのは海軍だったと考えていいでしょう。

すでに何度か述べたように、ベトナムにおいて米軍が使用したほぼ全ての戦闘用の機体は海軍が開発していたものでした。
主力戦闘機となるF-4ファントムIIはもちろん、プロペラ攻撃機のA-1、そしてジェット攻撃機のA-7、これらはすべて海軍の開発によります。空軍独自の機体は第二次大戦時代の機体を引っ張り出して使ってた(涙)B-26インヴェーダー、安価な地上攻撃機として採用されたもののあまりに非力で、ほとんどがベトナム軍やタイ軍に引き渡されたA-37くらいです(OV-10は空軍の独自開発ではない)。あとはF-105が戦争後半まで投入され続けてますが、それ以外の機体は事実上、使い物になってません。

ちなみに戦略爆撃機のB-52ですら、1972年に始まる最後の航空攻勢、ラインバッカー作戦が始まるまでの8年間はほとんど意味のない作戦に投入され続け、事実上の無用の長物状態でした。



陸軍からの近接支援攻撃(CAS)の要請に応えられず、それどころか脱出した自軍のパイロットの捜索、援護任務を行う機体すらなかった空軍が最初に海軍から導入した攻撃機は第二次大戦世代のプロペラ機である(実戦デビューは朝鮮戦争)、ダグラスのA-1スカイレーダーでした。

さすがに生産なんてとっくに終わってたので、中古機を払い下げてもらったのですが、これが低速で飛べる、航続距離も長い、信頼性があって頑丈と、現場では予想外の大活躍となります。
写真は複座のE型で、後部座席が青いのはガラスが割れてビニールシートを被せてるからではなく、各種電子装備のモニターの視認性をあげるためシートを張り付けてに中を暗くしてるから。



お次に導入されたのがジェット攻撃機のLTV社のA-7。
これも海軍用の艦上攻撃機として開発されたものでした。レーダー誘導の対空砲でガチガチに固められた敵陣地にプロペラ機で突っ込むのはさすがに限界だったので、1965年に初飛行したこの機体を1970年、ベトナム戦の終盤から空軍も採用したのです。ただし高速ジェットと言っても地上攻撃機ですから音速は出ません。鼻っ面が微妙に丸いのはそのためです(離脱衝撃波発生の心配がない以上、音速以下の機体の先端を尖らせる意味は無い。時速1000qで飛んでながら機首部が丸っこい旅客機を見れば理解しやすいだろう)。

ちなみに外見から判るようにF-8の設計を基にして攻撃機にしたものですが、全長も全幅も違い、エンジンも別物ですから、かなりの部分が新設計になってるようです。

この海軍開発の二つの攻撃機によってアメリカ空軍はかろうじてベトナム戦争を戦い抜く事になります。



空軍独自のまともな攻撃機と言えば、このB-26インヴェーダーくらいでした。

第二次大戦時の骨董品のような双発爆撃機であり、いかに当時のアメリカ空軍が地上支援用の機体をまともに開発して無かったか、がよく判ります…。
ちなみにエンジンは第二次大戦を代表する傑作空冷エンジンR-2800なんですが、輸送機のC-123にも同エンジンは積まれていたので、R-2800は意外にベトナムでも活躍していた事になります…。これはこれでスゴイですね。
ついでながらインヴェーダーはA-26の名前で朝鮮戦争にも投入されており、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の全てに使用された、珍しい機体となりました…

さらに先にも書いたようにスパロー、サイドワインダーの各ミサイルも海軍によるものですから、もし海軍がなければ、ベトナムの戦いはさらに悲惨な事になっていたはずです。
そして海軍でもうひとつ注目すべきなのは、ベトナム戦争全期間を通じて、唯一まともな戦闘機、航空優勢を取りに行ける制空戦闘機、F-8クルセイダーを彼らが運用していた点です。

■ヴォートF-8 クルセイダー



F-8は1955年3月初飛行ですから、センチュリーシリーズとほぼ同世代の戦闘機となります。そしてミグ相手に互角の戦闘能力を持つ、アメリカ唯一の“本当の戦闘機”でした。
海軍は攻撃機を別に運用していたので戦術爆撃機としての能力を要求されなかった事、よって音速飛行以外の余計な性能要求がほとんどなされず、その結果、十分な空戦能力を持つ戦闘機として誕生できた、というのが大きかったと思われます(ただし後からロケットランチャーを搭載して対地攻撃にも投入されたが)。

ベトナム戦は海軍の主力戦闘機がF-8からF-4ファントムIIへと変換される過渡期ではあったので、徐々に第一線からは引退し、1968年の北爆中止後は後方援護などの任務が主になってミグとの交戦はほとんど無くなってしまいます。
それでも大型のF-4ファントムIIが運用できなかった第二次大戦の遺物、エセックス級改造空母ではまだ運用が続き、1972年の終戦間際までベトナムの空を飛んでいました(最後までベトナムに投入されたのはUSSハンコックとUSSオリスカニーの両エセックス級改造空母の搭載F-8)。
そして第一線に投入されてミグと渡り合った1964年から68年までの間に以下のような撃墜を記録しています。

 年  MIg-17  Mig-21
 1966  3機  1機
 1967  7機  
 1968  2機  3機

3年間で16機を撃墜、内4機がMig-21なのです。
あくまでパイロットの自己申告による数字なので実数は半分程度の可能性がありますが、それでも同世代の機体で同時期に投入されていた空軍のセンチュリーシリーズの成績、F-105以外の機体は一機もミグを撃墜できず、F-105も撃墜したのはMig-17のみ、というのから比べると、立派な戦績だというのが判るかと。

ちなみに同期間、同じ海軍のF-4ファントムIIによる撃墜は、MIg-17が5機、Mig-21が4機で、計9機に過ぎないので、旧式のF-8の方がより多くの撃墜を記録してる事になります。見事、と言っていいでしょう。
(数字は海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)が1997年にまとめた United States Naval Aviation, 1910-1995 による)

■センチュリーの終わりに

1954年秋に部隊配備されたF-100から1959年夏に導入開始となったF-106に至るまで、わずか5年足らずで、F-100、F-101、F-102、F-104、F-105、F-106と6機種もの戦闘機が次々と部隊配備される、という第二次世界大戦期並みの戦闘機開発ラッシュはベトナムにおける大失敗で幕を閉じました。

この敗北から立ち直る過程で生まれたのがF-15、そしてF-16という傑作戦闘機であり、その誕生に深く絡んでいたのが、ジョン・ボイドという男だったのです。次回からはこの辺りを詳しく見て行きます。

ちなみにベトナム戦におけるアメリカ空軍の戦いは有料増刊でまとめてますので、そちらを読んでいただけると、いろんな意味で筆者は助かります(笑)。



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