■第五章 センチュリーシリーズの困惑


■新世代全天候型迎撃戦闘機

さてセンチュリーシリーズで戦術戦闘爆撃機と並んで大きな分野となったのが全天候型迎撃機でした。戦後開発された、ちょっとアレな全天候型迎撃戦闘機三姉妹、F-89、F-94A/B&C、F-86D&Lについては既に説明しましたが、これらにはイロイロとトラブルが連発してたわけです。

空軍としても、そこら辺はある程度予測しており、1949年、例のノースロップF-89が全天候型ジェット迎撃機として採用が決まった翌年には既に次の全天候型迎撃機の開発プランが動き出していました。
これが1954式迎撃機(1954 interceptor)と呼ばれるもので、その名の通り、5年先の1954年からの運用を前提とした新型全天候型迎撃機と、その運用のための電子機材までを含めた開発計画となっています。

よって地上からの誘導システムや、新型火器管制装置(FCS)の開発も同時進行で予定されていたため、全体を一括して開発する兵器システム(WS)の開発方式を取り、WS-201として一連の機体の開発が一斉にスタートします。機体への性能要求としては単座機であること(従来はF-86D以外は複座だったのでこれは大きな変更だった)、音速機である事などが求められ、コンベア社のYF-102と、リパブリック社のXF-103(実機が飛行せずに終わったセンチュリーナンバー機)の競争試作となり、最終的にYF-102の採用が決定されたのでした。

■コンベア F-102 デルタダガー



このF-102はF-89スコーピオンの迷走がまだ続いてた(涙)1953年10月に初飛行、1956年に配備が始まっています。

計画名になっていた1954年に間に合わなかった上に、全天候型迎撃戦闘機三姉妹の跡を継ぎ、こちらも見事に開発が迷走していろいろ微妙な存在となってしまった機体でした。当初の機体の空力設計が甘く、さらに重くなりすぎて試作機では音速突破に失敗、それ以外にも搭載を予定してたエンジンが完成せず別のエンジンに切りかえるハメになる、ヒューズ社の火器管制装置(FCS)の開発も迷走する、などなど散々な状況で生み出された機体です。

さらに試作機の開発と量産準備を平行して行う、という妙な開発体制を取ってしまったため、上記のようなトラブルに対応するたびに、工場の設備から全て造り直しとなり、莫大な費用の無駄使いとなってしまった、というオマケが付きます。
通常の機体開発では試作機の段階で設計問題を全て解決してから量産機の準備に入ります。ところが、先にも見たように対戦略核爆撃機について時間の余裕がなかった空軍のあせりが、この問題の多い開発体制を採用させ、そして大失敗に終わる事になったのです。まあ、この時代のアメリカ空軍に失敗作で無い機体は無いので、驚くほどの事はないですが…。

それでも全米のレーダーシステムをネットワークでつないだ対空レーダーシステム、SAGEシステムに初めて本格的に対応、途中からは夜間迎撃用に赤外線シーカーも搭載、そして誘導ミサイル ファルコンの本格運用開始など、新時代の機体ではあったのですけども(ただしSAGEへの対応、ファルコンの運用はF-86D、F-89などでも既に一部行われていた)。ちなみに当然、あの対空「核ミサイル」、ジーニーも搭載出来ます。
ついでにファルコンやジーニーミサイルが妙に寸詰まりなのは、この機体は胴体横に収納式の武器庫があり、ここに収まるサイズである必要があるからです。写真で主翼下に見えてるのがそれです。ちなみにこの武器庫のフタ(胴体奥側のもの)の中には、ロケットランチャーが埋め込まれてます…
後のステルス機みたいな装備ですが、これは空気抵抗を減らすための工夫で、逆にここまでやっても最初は音速突破に失敗してるって、どれだけヘボなの、この開発陣という気もします。

その後、1000機近くが生産されたものの、最終的にこれ以上の改良は無駄と判断され、最初の改良型であるB型は、新たにF-106として大幅に変更を加えて生産に移される事になってしまいます。このためA型しかない、という近代戦闘機には珍しい機体となってしまいました(練習用の複座TF-102Aという機体はあったが)。

ちなみに本来は対戦略爆撃機任務の機体、すなわちアメリカ本土防衛用の機体なのに、なぜかベトナム戦にも投入されてます。その影響で日本の横田基地にも一時、飛来してました。
これは当時、北ベトナムがソ連製の戦略爆撃機を配備した、という情報があり、これらから南ベトナム、タイの空軍基地を守るための配備でした。ところが北ベトナム空軍には自ら米軍基地を攻撃に行く意思はなく(高度な政治的、戦略思想があったのではなく単に連中の戦力では現実的に無理だったからだが)、この配備はほぼ無駄に終わります。

このため最後はやることが無くなって、対爆撃機用の赤外線シーカーを使ってベトコンの夜間移動を見つけて(トラックのエンジン、焚火などを探知させようとした)地上攻撃をしてこい、というレーシングカーで郵便配達をやらせるような無茶苦茶な任務にまで投入してます。ベトナム時代のアメリカ空軍はホントに狂ってるんですよ。
太平洋戦争の時のアメリカ軍がここまでマヌケなら日本はあそこまでヒドイ敗北にならなかったんじゃないの、という気もします。それくらいヒドイです、はい。

ちなみにコンベア社の開発も褒められたものでは無かったものの、輪をかけてひどかったのが火器管制装置、FCSの開発でした。WS-201こと1954年式迎撃機計画はまず、電子装備関連から開発がスタート、こちらは、変態オーナーでおなじみのヒューズ社が1950年の夏に受注を勝ち取り、すぐにその火器管制装置(FCS)の開発に入ってました。ところがこの開発が遅れまくりF-102の開発遅延が避けられなくなります。

この結果F-102Aとその改良型であるF-102B(後のF106)に開発スケジュールを分離、、まずは簡易型の火器管制装置(FCS)を搭載したF-102Aの完成が急がれる事になりました。が、本命のF-102B(後のF-106)が完成に手間取ってるうちにF-102Aが事実上の主力全天候型迎撃機になってしまいます。軍用機にありがちなパターンですね。
結局、F-106が配備に付いたのは1959年となり、5年計画がいつの間にか10年計画になっていたのでした。そしてこの段階ではすでにスプートニクショックが来ており、F-106はほぼ要らない機体になってしまいます。
とりあえず、そうした経緯で生み出されたのが、最後のセンチュリーシリーズ、F-106デルタダートなのでした。

■コンベアF-106 デルタダート



F-106はF-102の改良型、B型として開発が予定されていた機体でしたが1956年12月、F-102Aの部隊配備が始まって間もなく初飛行してます。

エンジンも違えば火器管制装置(FCS)も新型、さらに大幅に自動化された操縦装置を持つ機体で、確かに大幅に進化してるのですが、先輩にあたるF-94CとかF-86Dとかも同じようなものでしたから、なんでこの機体だけ、F-102Bじゃなく、改めてF-106になったのか、どうもよく判らん部分ではあります。

このため、ぱっと見るとF-102と同じ機体じゃん、と思ってしまうところですが、よく見ると空気取り入れ口の位置が後ろに下がっていたり、三角形だった垂直尾翼の上が切り落とされてたりします。
そして外形以上に異なるのがその自動化でした。ほぼ全自動操縦が可能なヒューズ社の火器管制装置(FCS)の最新型が搭載されていたため、敵を発見してそちらに向ったら、後はパイロットはほとんどやる事がない、全て機体まかせ、という1950年代の機体としては驚異のハイテク機だったのです。敵の発見、ミサイルの発射まで全自動化されていたので、離陸しちゃえば後は着陸までパイロットはやる事が無い、とすら言われてたそうな。

ちなみに写真の機体はアメリカ空軍博物館の展示機ですが、この機体は1970年2月に突然スピンに入る事故に見舞われて、パイロットが脱出したところ、その脱出の反動で機体はスピンから脱出、そのまま自動操縦で基地に帰還、着陸してしまった、というスゴイ経歴の持ち主らしいです。このため、脱出したパイロットより先に、この機体が基地に帰って来たそうな…。
ただし脚を出すのはパイロットの数少ない仕事の一つだったため、胴体着陸となったのですが、2月の積雪シーズンだったため、損失は小さく、修理の上、復帰してしまったのだとか。恐るべし、F-106ですね…

■スプートニク ショックがやって来た

ここで全天候型迎撃機に引導を渡す事になる大事件、人類初の人工衛星、ソ連のスプートニク1号の打ち上げ成功が引き起こした1957年のスプートニクショックについても少し見ておきましょう。

 

小型の無線発信機を積んだだけで何ら実用性の無い世界初の人工衛星、スプートニク1号。これがアメリカ空軍の核戦略を根底からひっくり返してしまう事になります。

ソ連の核戦略は、計画の唯一の立案者である独裁者スターリン閣下が1953年に死去、その詳細を誰にも告げずに墓場の中に全てを持って行ってしまい、以後、迷走し始めます。

この時、紆余曲折がありながらも最終的に共産党指導者となったフルシチョフは、スターリンの死後に初めてソ連が核戦略の一環として大陸間弾道ミサイル(ICBM)に使える宇宙ロケットの開発を行っていたと知って驚くのです。
フルシチョフの回顧録によるとロケット開発の責任者であるコロリョフから報告を受けて初めて宇宙ロケットの存在を知り驚愕、クレムリンのお偉いさん総出でその工場の見学に行ったそうな。このフルシチョフの回想録などから断片的に判る当時のソ連の核戦略は、大体以下のようなところです。

第二次大戦後、スターリンはアメリカの戦略爆撃に感銘を受け熱烈にこれを欲しがり、例のB-29のコピー、ツポレフのTu-4を造らせるわけです。が、さすがに本格配備が始まった1949年の段階では時代遅れであり、さらに航続距離的にソ連本土からアメリカの主要都市まで届かないのは明らかでした。公表されてる資料によればその後続距離は3トンの爆弾を積んで6000km、片道では3000km以下にしかなりません。そもそも当時の原爆だと3トンはかなりギリギリの重量であり、それを積んだ航続距離内にある唯一のアメリカ本土、アラスカの原野に核爆撃やったって仕方ないわけです。

なのでスターリンは以後、戦略核爆撃に興味を失ってしまい、1950年頃からは弾道ミサイルの方に開発の軸を移したようです。さらになぜかこの時期、空母を持たない戦艦、巡洋艦を中心とした大海軍にスターリンは興味を示し始めたとされます。この予算確保のため、戦略爆撃機部隊をあきらめ、より安価な大陸間弾道ミサイルに興味を持ったらしいのです。この辺りなんで第二次大戦時のような大艦隊をいまさら…という感じですが、パラノイアのヒゲの頭の中はパラノイアのヒゲにしかわからないので、理由は現在でも全くの謎です。

この結果、古いスタイルの海軍力の増強に走るスターリンと、空軍力の増強を主張するフルシチョフの間に衝突もあったとされます。それでもなんとか戦略爆撃機の開発は続けられ、スターリンの死後、有名なツポレフTu-95、そして有名じゃないミヤシチョフM-4などが配備される事になります。ただし、どちらもアメリカまで飛んで行って爆撃できるだけの性能はないとフルシチョフに判断され、戦略爆撃機は空軍の主戦力とはされませんでした。

ただし1959年にソ連は原子力で飛行する爆撃機の開発を行うと突然発表、これによって地球を軽く1周してしまう戦略爆撃機の実現を目指します。ただしフルシチョフによると責任者のツポレフ本人を含めて誰もこの原子力飛行機を現実的な計画とは思っておらず、実際、この話はいつの間にか消えてしまいます。

以後もアメリカの音速爆撃機に刺激されて、いろいろやったりしてますが、どこまで本気なんだ、という感じです。ちなみにフルシチョフに言わせると、“軍人と言うのは、すぐに真似をしたがる”という事でソ連の航空戦略と言うのは基本的にアメリカの後追いでそれほど深い考えは無かったように見えます。この原子力爆撃機も、おそらくアメリカの原子力実験機、コンベアのNB-36Hに刺激を受けたものでしょうしね(1955年に初飛行したものの開発は放棄された機体)。
なので、戦後のソ連には本気でアメリカを核兵器で戦略爆撃してやろうという考えはなかったと見ていいでしょう。 そもそも、そんな金も技術も工業力も無かったのです。
では最終的にソ連の核戦略はどうなってしまったのか。この点を1957年10月4日、世界初の人工衛星であるスプートニクを打ち上げる事で、フルシチョフは突如として世界に知らしめる事になります。

この小さい人工衛星をソ連が衛星軌道上に打ちあげたということは、ソ連は既に核弾頭を地球上のどこにでも送り込める能力を持つ、という事を意味しました。なにせ大気圏外で地球を一周できちゃんですから、届かない場所は無いのです。
しかも爆撃機よりはるかに高速な宇宙ロケットによる核弾頭の運搬ですからアメリカ側の報復攻撃は間に合わず、その上、最終的にマッハ10を超える速度で大気圏突入してくる核弾頭を迎撃するのは事実上不可能でした。
この事実に気が付いたアメリカ空軍は戦慄します。これでアメリカ自慢の戦略爆撃機軍団は一瞬で無意味になり、膨大な予算と時間をかけて開発していた全天候型迎撃機も、これまた全く使い物にならないガラクタになってしまったのですから。ソ連はすでに戦略爆撃機による核攻撃の先に一人で行ってしまった、という事なのです。

ただしソ連側の事情も、実はお寒いものでした。
実際は打ち上げはできたものの、大気圏への再突入技術、そして目標に確実に落下させる技術は全く完成しておらず、この辺りはフルシチョフのハッタリという面が少なからずあります。つまり宇宙空間まで打ち上げる技術は完成していましたが、実はそこまでで、地上の目標に向けて正確に落下させるなんて、まだ無理だったのです。このため彼らは打ちあげるだけで済む人工衛星という宣伝手段を選んだのでした。

すなわちソ連は人類の宇宙技術の進化の証明のために世界初の人工衛星を打ち上げたのではなく、アメリカの核戦力へのけん制と、警告、そしてハッタリのための打ち上げだったのです。まあ、ホントに多分にハッタリだったわけですが。

この辺り2010年代に入って北朝鮮が盛んに宇宙ロケットを打ち上げてたのも同じ理由でしょう。連中に弾頭部の大気圏再突入技術なんて無かったと見てよく、アメリカ空軍はおそらくそれに気が付きながら、議会と国民に訴えるにはちょうといい仮想敵としてあえて指摘していないのです。その方が国防予算は増えますからね。

それでもソ連が瞬時にアメリカまで核爆弾を送り込める力を手に入れたのも、確かな事実です。
第二次大戦中に開発されたドイツのV2ミサイルも事実上の宇宙ロケットであり超高速落下中の迎撃は不可能でした。ただしV2の弾頭に積める炸薬は1トン以下、さらに射程距離は200〜300kmとヨーロッパの隅っこ専用のイヤガラセレベルの兵器でしたから、その脅威は許容範囲内でした。が、弾頭が核爆弾、さらに地球の裏側にまで届く宇宙ロケットである、すなわち大陸間弾道ミサイル(ICBM)となると話は別です。この大気圏外から高速落下してくる核弾頭は迎撃不可能、しかも高速な宇宙ロケットですから30分以内にはソ連からアメリカ本土まで到達してしまいます。

よってソ連は防御不可能な核攻撃手段を手に入れた、という事になり、この日をもって、アメリカの核戦略における優位は全て消えてなくなったと考えていいでしょう。まあ、実際はまだそこまでの技術は完成して無かったのですが、そこまでは当時のアメリカもまだ気が付いてませんでした。この結果、アメリカをパニックが襲います。これがいわゆるスプートニクショックです。

アメリカ空軍はソ連はもう戦略爆撃機を捨てたのだ、すぐに理解しました。となると、まさにこれから配備が開始されようとしていたF-106は、いきなり存在意義を失うことになってしまいます。
よってこのスプートニクショックの後、全天候型迎撃戦闘機は値段ばかり高くていらない子、となってしまうのでした。そして以後、全天候型迎撃戦闘機という機種は二度と造られなくなります。

といった感じで今回はここまで。次回は残りの機体と海軍の事情などを少し見て行きましょう。


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