■第六章 ジョン・ボイド


■ネリスのボイド

朝鮮戦争終了後、ルメイ率いる戦略爆撃司令部、SACによる戦略爆撃至上主義がはびこり始めていた空軍において戦闘機乗りのボイドはしばらく中ぶらりんの状態に置かれたようですが、間もなくネバダ州ネリス基地にあった、上級飛行学校(Advanced Fly School / AFS)への入学を命じられます。

本来は実戦に出る前に入るべき学校らしいのですが、速攻で朝鮮半島に送られてしまったボイドは、実戦を経験しているものの、改めてこの学校の卒業が必要、とされたようです。ちなみにネリス空軍基地は戦闘機乗りの楽園ではあると同時に、出世コースである戦略爆撃航空軍(SAC)の路線から外れることを意味しますから、君の将来は暗いよ、という意味を持った配属でもありました。



ほんとに砂漠のど真ん中、ギャンブルの都ラスベガスから車で20分くらいかかる場所にある空軍基地がネリスで、最初は爆撃機の機銃手を養成するための学校があった場所でした。後に実戦さながらの空戦演習、レッドフラッグの会場として有名になる基地で、戦闘機乗りの聖地、といった面を持つ基地でもあります。



ちなみにそのネリスを本拠地とする空軍飛行展示チーム、サンダーバズが最初の使用機体であるF-84から次のF-100に切り替えた際、ボイドにも参加しないかと声を掛けた事があったようです。が、ボイドはこれを辞退してしまいました。理由は決まりきった飛行プランを毎日こなすなんて想像性のかけらもないから、だそうな。

ここで余談をひとつ。
アメリカの黒人差別は、1960年代まで露骨に存在しており、ネリスの近所、ギャンブルの街ラスベガスでも、メインストリートのストリップ周辺のホテル(=カジノ)、レストランには黒人は入れない、という暗黙のルールがありました(後に有名になるルイ・アームストロングなどの黒人ミュージシャンは街外れのホテルのショーに出ていた)。

1960年代前半にようやくこのルールは撤廃されるのですが、これは平等とか市民権とかの問題ではなく、ラスベガスのカジノを経営していたマフィアが“その方が儲かる”と判断したためでした。金の前には差別も吹き飛ぶのがアメリカです。
が、それより早い1957年ごろ、このマフィアの街でそのルールを平気でシカトしてる男がいました。
それがボイドです。当時大尉だった彼は自分の部下たちを率いて、週末にはラスベガスのレストランで大騒ぎをすることに決めていました。仲間を集めてドンちゃん騒ぎをするのが好き、というのもボイドの嗜好のひとつで、これは後にメンバーを入れ替えながら、晩年まで続きます。

この時、彼の部下に黒人の士官が一人入ってきました。このため周囲は次から店を変えようとしたのですが、ボイドはこれを無視、ずっと同じストリップ沿いのレストランに通い続けます。レストラン側も、半ばあきらめていたようで、トラブルにはならなかったそうな。この人はそういった面も持っています。

ついでに、ボイドは自分の考えを理解できる相手だ、と見ると、深夜に突然電話を掛けて議論を始める、という妙な癖があったのですが、この最初の犠牲者になったのが、この時期の彼の上官だったようです。彼はボイドの理解者となり、性格に問題のあったボイドを庇っていたのですが、この点はかなり迷惑だったそうな…

さてボイドが就任したのと同年、1954年にネリス基地に戦闘機兵装訓練学校(Fighter Weapons School / FWS)が設立されていました。これは戦闘機パイロットの最高訓練施設としての開設されたもので、ボイドは1955年になってそこへ入学を命じられ、卒業後は、その教官に任命される事になります。ちなみに、この学校の卒業は戦闘機乗りにとって唯一といっていいエリートコースになるのですが、その流れにもボイドはうまく乗れませんでした…。

この戦闘機兵装訓練学校(FWS)は、空軍中の優秀な戦闘機パイロットを集めて、空戦技術と爆撃技術(戦術核を含む)を徹底的に叩き込み、部隊に帰った後は指導者として活躍してもらおう、という上級学校です。その教官は、まさに戦闘機パイロットの頂点と言ってよく、当然、ボイドの空戦技術のレベルは極めて高いものでした。

ここで彼についたあだ名が、40秒のボイド(40 second Boyd)で、これは模擬空戦を用意、スタートで始めた後、どんな条件下でも必ず40秒以内に相手の背面を取って空戦に勝利してしまうという意味でした。実際、彼はこの教官時代を通じ模擬空戦において最後まで無敗で通してます。ちなみに、本当は20秒で勝てるんだけど、それだと誰も勝負を挑まなくなってしまうから、40秒にしたと本人は言ってたそうな。



ネリス時代のボイドの愛機がこのF-100でした。欠陥機と言っていい機体ですが、これを彼は完全に乗りこなしてしまいます。ただし欠陥機だとは判っていたようで、F-100に乗れるなら、どんな機体でも操縦できると言ってたそうな。
ちなみに教官時代にF-100の脚のトラブルで機体を破損させてしまい、ボイドはその責任を問われるのですが、その後の検証でこれもまた機体の欠陥の一つであると証明してしまい、F-100欠陥機説に一役買っております…

当時、FWSは三つの部門、作戦訓練部、研究開発部、そして教育部に分かれてました。実際に飛んでさまざまな訓練をするのが作戦訓練部、各種兵器の試験、開発を担当するのが研究開発部、そして訓練過程の授業内容を決定するのが、最後の教育部でした。
ボイドは教官時代の途中から、もっとも地味で人気のない教育部の指導監督(Director)に就任、自らの空戦能力を人に教える、という目的に力を注ぐことになります。この時期のボイドを知る空軍の関係者によれば“とりつかれたように仕事をしていた。ちょっと狂気が入ってたようだ”との事なので相当にこの仕事に打ち込んでいたのだと思われます。

この段階でボイドはアメリカ空軍にはまともな空中戦の教本がない、という事を知り驚きました。つまり、第一次大戦から朝鮮戦争まで、彼らは職人のように先輩の技を盗み、自分で考え、自分なりのやり方で空中戦を戦ってきたのでした。
第二次大戦中に17.75機(共同撃墜やらで端数あり)の撃墜を公認されたアメリカ陸軍のエース、ゼムケ(Hubert Zemke)によれば、1937年に彼が戦闘機の訓練過程を終えた段階でも、空中戦については何も教えられておらず、実弾を撃ったことすらなかったと語っています。
アメリカ陸軍航空軍の時代から、空軍は徹底的に爆撃機至上主義であり、爆撃機の銃手や爆撃手専用の練習機まで生産して訓練していたのに比べ、戦闘機の訓練課程は、戦後になってもややお寒いものがあったようです。

このため空戦技術は先輩パイロットから後輩パイロットへ職人技として伝授され、ひたすら守られて来たものばかりでした。これを知って、ボイドは教本の必要性を痛感します。さらに赤外線誘導ミサイル、いわゆるサイドワインダーが登場すると、それまでの戦い方は役に立たず、その戦法についても彼は研究して行くことになりました。
そしてまず1956年、空軍が発行していた機関紙 Fighter Weapons Newsletterに“戦闘機 対 戦闘機の訓練計画提案(A proposed plan for Ftr. vs Ftr. Training)” というタイトルで記事を執筆します。これが空中戦におけるさまざまな機動のやり方を最初に彼がまとめたもので、それなりの反響があったようです。

その後も彼はその空戦論を洗練し続け、最終的には1960年、アメリカ空軍初の本格的な空戦マニュアルを書き上げて、戦闘機パイロットに大きな影響を与えることになるのでした。
このマニュアルは実に150P近い大作で、彼の知るさまざまな知識と技術の集大成ともいうべき内容になっていました。これがボイド33歳の時で、空軍内で初めて彼の名前が注目されたのは、この時だと思われます。ただしこれは当時の最新武装、特にサイドワインダーミサイルについて詳しく書きすぎたため機密書類扱いになってしまい、その指定が解かれるまで指揮官クラスのパイロットしか読めなかったようですが…。

ついでながら、先にも書いたようにボイドには実戦での撃墜経験がありませんでした。一方、当時は朝鮮戦争どころか、第二次大戦中のエース(5機以上撃墜)パイロットが空軍内にまだまだいくらでも居たため、この手のベテランパイロットからは数学で空中戦に勝てるものか、と反発を食った部分があったようです。
ただし、彼のマニュアルで数式が出て来るのは全体の半分のページ程度で、あとは具体的な空戦機動の飛び方の説明になってます。おそらく、この手の批判をした皆さんは、最初に数式が出てきたとこを見ただけで、後のページは読んでなかったんじゃないかという気も。
(読んでないで批判するってのはアホか、という感じですが意外に多いのです。アメリカではマクナマラ元国防長官が1995年に回顧録を出した時、ニューヨークタイムズなどの一流新聞がこれを痛烈に批判した事がありました。根が真面目ではあったマクナマラはその批評者に直接会って彼の本の主旨を説明しようとしたところ、なんと半数近くの人間が最初の数ページだけ読んだだけ、さらには実は全く読んでない、という事を発見、あきれるしか無かったと後に述べてます。アメリカの一流新聞ですらそういった面があります)

が、幸いにも彼の生徒はまだまだ若いパイロットが多く、このボイドの考えは徐々にアメリカ空軍の戦闘機乗りに受け入れられてゆく事になります。実際にボイドはその通りに飛んで無敵だったわけですし。
戦闘機乗りが体力だけでなく、知力も要求される時代の始まりであり、この道を切り開いたのがボイドなのです。戦闘機パイロットに高度な数学と物理学の知識が必要になる、という時代を切り開いたのがボイドだとも言えます。
この辺り、一部の人には大迷惑だったと思いますけども…。
さて、ではそんなボイドがまとめた空戦教本とはどんな本だったのかを次回は見て行きましょう。



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