1941年、戦略爆撃を近代的な理論にまとめ上げる事によって、戦争の形態を全く変えてしまったハロルド・L・ジョージ(Harold Lee George)が空の戦いにおける一人目の天才だとすると、二人目の天才と言えるのがボイドでした。そしてジョージが築いた戦略爆撃空軍の道へトドメを刺したのも、このボイドだったのです。 さらに、その活動の範囲の広さと及ぼした影響の大きさを見るならボイドの方がはるかに上でした。退役後の活動を含めると、20世紀末のアメリカ軍全体の背骨をこの男が一人で作り上げてしまった、という面が少なからずあります。 一人目の天才、ジョージも未だに本国アメリカですら知名度は低いのですが、このボイドも同様で、2002年にロバート・コラム(Robert Coram)が彼の伝記「BOYD」を出版するまで、ほとんど無名に近い存在でした。ちなみにこの記事もこの伝記を参考にしていますから、興味を持たれた方は一読をお勧めします。 とにかく多才な人、それがボイドなのですが戦略爆撃のジョージが静かな常識ある天才だったとするなら、ボイドは型破りな変人であり破滅型の天才でした。彼はかなりの年齢になるまで少佐のまま空軍で過ごし、最後までトラブルメーカーとして君臨し、その後、救済処置によってなんとか大佐の階級まで登ってから48歳で軍を去ることになります。 その後、軍人の夢の楽隠居、兵器メーカーへの天下りを拒否してわずかな年金だけで生活、後に軍の仕事に復活した後も、いっさいのお金を受け取らない、というアメリカ人とは思えない潔癖な行動をとった人物でした。この点では変人、とも言える人物だったのも事実です。 この記事では、まず最初にボイドが何を成し遂げたのかを確認し、その後で細かい部分を見て行くことにしましょう。彼がやった事は主に以下の八つです。 ●その1 アメリカ空軍で最初の戦闘機のための空中戦教本をまとめた ネリス空軍基地にあったエリート戦闘機パイロット向けの訓練施設、戦闘機兵装訓練学校(Fighter weapons school/FWS)の教官時代、1962年ごろに空軍で初めて空中戦のやり方をきちんとマニュアル化し、以後アメリカの戦闘機乗りに必須となる教本をまとめる。 これは全て力学的な知識に裏付けられた理論的な内容で、戦闘機の運動の多くが数式で説明されている、というシロモノとなっています。それまで勘と経験に頼っていた空中戦の機動を理論的に解き明かした、アメリカで最初の空中戦教本であり、おそらく世界初でもあったと思われます。 ●その2 エネルギー機動性理論の発見 1963年、エグリン基地に配属されると、基地に勤務していた民間人技術者、クリスティーを巻き込み当時はまだ珍しかった軍のコンピュータを無断で使用、膨大な量の計算を行ってエネルギー機動性理論(Energy–maneuverability theory)、いわゆるE-M理論を完成させる。 機体を動かす力の基になるエネルギーに着目し、これを数式化することで、それまで“造ってみなけりゃわからない”というシロモノだった戦闘機の設計、評価を客観的、かつ数量的に判断できるようにしました。これは戦闘機の設計において革命的な発見だったと思っていいです。実際、後の世界中の戦闘機の設計に大きな影響を与える事になります。 ●その3 F-15戦闘機の設計に参加、これを傑作機とする原動力になる E-M 理論に興味を持った空軍上層部により、次期主力戦闘機F-X計画(後のF-15)への参加を命じられ、その開発において、中心的役割を果たす。 ここで民間人としてこの計画に参加していたスプレイと知り合い意気投合、以後、再び巻き込まれたクリスティを含めた三人で空軍の機体開発に対し大きな影響力を持つことになります。 ●その4 F-16の設計に参加、これまた傑作機になる さらにそこからF/A-18も誕生する F-15の完成度に満足できなかったボイドは、スプレイと組んで、より運動能力に優れる軽量戦闘機(LWF)の開発を極秘裏にスタートさせる。そして、当然のごとく巻き込まれる(笑)クリスティと三人で軽量戦闘機計画を新たに始動させた。これが後にF-16となり、競争試作で敗れたYF-17は後に海軍の、F/A-18の原型となる。 この時期にスプレイは、A-10の開発計画にも関わっており、彼がこの機体の設計理念をまとめ上げるにあたりボイドは大きな影響を与えています。すなわちF-15、F-16、F/A-18、A-10という21世紀初頭までアメリカ空軍を支え続けた傑作機は全て、ボイドの影響下に産まれているのです。すごい人なんですよ、ホントに。 ●その5 次期主力戦略爆撃機B-1を廃案に追い込んだ 使用目的がはっきりしないまま開発費ばかりが高騰していたB-1爆撃機が、空軍の見積もりよりはるかに高額な機体になると指摘、これがカーター政権によるB-1爆撃機の開発計画中止の主要因となる(ただし次のレーガン大統領が機体性能を落とした安価なB-1Bを復活させてしまうが、見た目は同じような感じながら中身はほぼ別物で戦略爆撃機ですらない) 。 この問題を最後にボイドは空軍を去る事になるのでした。 ●その6 OODAループ理論の発見 空軍を去った彼は“人間の思考パターン”の研究を開始、後にOODA(ウーダ)ループ理論として完成させる。 これが海兵隊の戦略基本方針などに大きな影響を及ぼすことになるOODAループで、この頃から、彼の興味は航空戦から戦争全般へ移ってゆく事になります。 ●その7 海兵隊の新たな戦術理論の策定に関与、従来の火力主義から機動戦、浸透戦を主にしたものに完全に一新させる ボイドのOODAループ理論と戦略研究を見た海兵隊の関係者に招かれ、そこで後にWARFIGHTINGの名で知られる事になる新しい海兵隊の基本戦略方針を造り上げる。 20世紀末から21世紀にかけて、世界中の地上軍に広く影響を与えた、機動戦、浸透戦を前面に押し出した戦略基本方針がこれで、アメリカ陸軍も含めて多くの軍隊がこの戦略方針の影響を受けてます。ボイド、空の戦いだけの人じゃないのです。 ●その8 湾岸戦争における基本戦略の立案に参加 湾岸戦争で、イラクがクウェートに侵入した直後、当時、国防長官だったチェイニーに呼ばれ、ワシントンDCへ向う。守秘義務によって何をしたのか死ぬまでボイドは語らなかったが、後にチェイニーが、ボイドからアドバイスを受けていた事を証言しており、当時、アメリカの軍部ではまだ経験が無かった機動包囲戦の計画立案に参加したと見られる。 現地司令官のポカで最後にケチがついていしまう湾岸戦争の地上戦ですが、それでも戦略レベルでは第二次大戦の電撃戦以来の成功と言える、大規模機動包囲作戦となってました。その作戦の基本的な部分を、おそらくボイドが立案してます。 ざっと見ただけでこれだけの事をやており、近代の軍事分野において、一人でこれほどの影響力を発揮した人物は他に居ないでしょう。そのボイドについて、これから詳しく見て行きたいと思います。 アーリントンの軍人墓地にあるボイドのお墓。 墓碑の通り、1927年1月生まれ、1997年3月没、すなわち70歳で亡くなっています。 生涯を通して不遇だった(多分に本人の性格の問題があるのだが)人らしく、極めて質素なお墓でした。 ちなみにこのお墓、判りにくい場所にあるので、訪れてみよう、という人は2013年のアメリカ旅行記 最終章にある訪問記事を読んでからどうぞ。 ■ボイドの愉快な仲間たち 上の説明で見たように、ボイドは何人かの協力者、同志と言っていい人物を持っていました。ここでは特に重要と思われる人物を二人、予め紹介しておきましょう。 トーマス・P・クリスティ (Thomas P. Christie) ボイドの驀進に巻き込まれて人生が変わった人第一号。 アメリカ軍はその研究機関に民間人を採用する事があり、クリスティも弾道学の研究員として軍に採用されエグリン空軍基地で仕事をしていた民間人でした。そこで幸か不幸かボイドと出会ってしまうわけです。 数学の専門家でありながら、弾道計算を研究するコンピュータ技術者でもあった彼はエネルギー機動性理論理論の成立に大きな力となって行きます。エネルギー機動性理論を検証するには大量の微分方程式の計算が必要で、これを全部人力で計算したり手回し式の機械計算機で行うには無理がありました。さらに高度な数学の知識も求められ、ボイドにはやや手に余る部分があったのです。これを補ったのがクリスティでした。 ボイドは1960年代から空軍の研究機関が運用を始めていたコンピュータに目をつけ、エグリン基地でその管理者だったクリスティを巻き込んでしまいます。その結果、正規の使用手続きを踏まず、軍のコンピュータを空き時間に無断で使用、すなわち“コンピュータの時間を盗み”自論の証明を行ったわけです。 この時、エネルギー機動性理論をコンピュータ上で扱えるようにプログラムを組んだのはクリスティで、このためボイドはこの研究を彼との共同研究として発表しています。その後もボイドとクリスティは微妙な距離を保ちながらも常に行動を共にし、後にボイドが魔窟とも言える国防省、いわゆるペンタゴンに乗り込んで行く時にも後から呼び出される形で、その仕事に参加しています。 このクリスティ本人も優秀な人材だったのは間違いなく、その後30年近くペンタゴンに勤め、2001年から2005年までは国防長官の下で、軍の装備テスト全般を統括する責任者、兵器運用試験評価局長(Director of Operational Test and Evaluation)を勤めています。おそらく、民間人として軍内部で最高の地位についた人物の一人です。 1970年代から80年代のペンタゴンにおいて、ボイドは空軍の敵、みたいな位置にいましたから、その仲間と見られながらこれだけの地位まで上ったのは、よほど本人が優秀で、かつ世渡りの能力もあったのだと思われます。 ピアー・M・スプレイ (Pierre M Sprey) ボイドに巻き込まれた人第二号。A-10の生みの親、と言える人でもあります。 後に議会関係者と渡り合ったときに、彼と会って話をした多くの人が、その頭の回転の速さに驚いたと言われており、天才肌の人だったようです。ただし破滅型のボイドとは逆に、冷静沈着、哲学者を思わせる人物だったようでその交友範囲は広く、2010年代に入ってからも空軍の動向に関して、アメリカのマスコミにコメントを寄せたりしてます。 ちなみにスプレイも民間人で、元々はケネディ政権のマクナマラ国防長官がペンタゴンに派遣したウィズ キッズ(Whiz Kids/神童)の一人でした。アメリカ英語で、天才肌の頭のキレる若者を Whiz Kidsと呼ぶらしく、マクナマラが第二次大戦時に所属していた陸軍統計分析チームもこう呼ばれていたようです。終戦後、この統計分析チームごと、彼はフォード自動車に移籍するのですが、そこでもこの名で通したとされます。 後にマクナマラが国防長官になると有能な若手を集め、これを自分たちになぞらえてWhiz Kidsと呼び、さまざまな調査、分析を行わせていました(この辺りの“オレの通った道に続け”的な命名にマクナマラの個性がよく出てると思う。典型的な中途半端に頭のいいだけの男だった)。 スプレイはその中の一人で、ヨーロッパで武力衝突が起こった場合の空軍戦略を調査するためペンタゴンに派遣されていた人物でした。ところが、その調査の途中でボイドと会って意気投合してしまい、以後は空軍の機体開発に関わるようになって行きます。 参考までにスプレイらが1967年ごろまとめたレポートを読むと、ソ連がヨーロッパに侵攻して来たら、アメリカ空軍はヨーロッパ東部の橋、高速道路、鉄道と工業施設を速攻で爆撃して破壊(核を使うかどうかは不明)し、ソ連陸軍の侵攻を妨害し足止めする、となっていました。 これに対するスプレイたちの評価は、その実行には現在の3倍の航空戦力が必要で実現不可能な計画である、でした。対案として地上部隊を主力とした反撃と航空戦力による近接支援(CAS)、そして航空作戦を安全に展開するための航空優勢の確保を主目的にするべきだ、と主張してます。姑息な手段に逃げても無駄だから王道を行け、という事です。ここら辺りの考え方が、後にスプレイが深く関わるF-15戦闘機や、A-10攻撃機の配備に繋がるわけです。 ちなみにスプレイは後ろ盾のマクナマラが国防長官の座を去った後もペンタゴンでの仕事を続けてましたから、彼本人も優秀だったのは間違いないでしょう。 といった感じで、今回はここまで。 |
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