第二次次大戦の結果、アメリカ陸軍航空軍は、その戦略爆撃の力を政府と議会に認めさせることに成功します。この結果、第二次大戦終結後まもなくアメリカ空軍は悲願の独立を達成するのです。
その下に陸軍参謀総長のマーシャル、海軍作戦部長のキング、さらに戦略爆撃の重要性が認められ陸軍航空軍の責任者、アーノルドが加わります。このアーノルドの参加はマーシャルの配慮による部分が大きいようですが、これによって海軍と陸軍の人員の人数が同じになる事にも注意してください。おそらくその辺りの計算もあったはずです。 この総勢4人からなる統合参謀本部が全軍の最高意思決定機関、そして大統領への軍事助言機関となります。ちなみに太平洋で地獄を見る海兵隊の責任者はこの中に含まれず、キングの下に置かれる事になりました(第二次大戦終了後に参加が認められる事になる)。 さらにイギリス軍との協力が必要な場合は、連合参謀本部( Combined Chiefs of Staff /CCS)がイギリス側と合同で一時的にワシントンDCに置かれました。ただしイギリス側の軍責任者は大西洋を渡ってやって来るのが困難で、代理責任者が出席する事が多かったようですが。 ちなみに厳密にはこの連合参謀本部の方がわずかに設立が早く(1942年4月)、そのアメリカ側の参加メンバーを基にしてリーヒを責任者として結成されたのが統合参謀本部と思ってください。 ついでにやや余談ですが、統合参謀本部設立時には中将だったアーノルドは間もなく、大将になり、終戦時には元帥になってました。他の3人の大将も元帥まで昇進するのですが、本来、アメリカ軍に無かった五つ星の元帥(陸軍 General of the army/海軍 Fleet Admiral of the United States Navy)という階級が造られたのはイギリス側に大将の上の階級の元帥があり、このため連合参謀本部(CCS)を開催する場合、イギリス側の方が階級が上、という困った問題が発生したためです。 それ以外、マッカーサー、アイゼンハワー、ブラッドレー、ニミッツ、ハルゼーといった人たちの場合は、そのおこぼれをもらって元帥になったという事になります(特にブラッドレーとハルゼーは元帥にする必要は全く無かった)。 ついでに海軍のキングの肩書が妙に長い理由も、一応、説明して置きましょう。 そもそもアメリカ参戦時にキングは海軍の最高責任者でも何でもなく、単なる大西洋艦隊司令官に過ぎませんでした。ところが真珠湾奇襲の責任を取ってキンメルが太平洋、大西洋、両艦隊を統率する合衆国艦隊司令(Commander in Chief, United States Fleet /CINCUS )の地位を追われてしまい、その跡を彼が引き継いだのです。これが1941年12月末の事でした。 合衆国艦隊司令は単に現場責任者であり、海軍の総責任者である作戦部長(Chief of Naval Operations)の配下にある地位の一つにすぎません(日本海軍の連合艦隊指令長官に近い)。当時の海軍作戦部長はスターク(Harold Rainsford Stark)で、キングはその配下という事になります。 ところが開戦後は現場責任者である艦隊司令官の方に主な業務が集中、ルーズベルトがキングの才能を高く評価した事もあり、その権限が徐々に作戦部長から合衆国艦隊司令官に移って行ってしまいます。当然、二重の指令系統が発生して混乱を生じさせる恐れが出て来るのですが、ルーズベルトはスタークをヨーロッパ方面海軍司令官(Commander of US Naval Forces in Europe)に祭り上げてロンドンに追い出してしまい、キングを海軍作戦部長に就任させてしまったのです。ヨーロッパ方面なんてUボートを叩くくらしいか当時は仕事がありませんから事実上の左遷に近いでしょう。 が、とりあえずこれでキングが作戦部長を兼任して、海軍の全権を掌握することになりました。これは日本で言えば山本五十六が連合艦隊指令長官と軍令部総長を兼任したようなもので、無茶苦茶な人事ではありましたが、結局、終戦までこのままとなります。 ちなみに大戦終了後は合衆国艦隊司令の地位は廃止となり海軍作戦部長が海軍内部の最高責任者という形に戻ります。 さらに余談ですが、合衆国艦隊司令、Commander in Chief, United States Fleet の略称、CINCUS はシンク アスと読むことが可能でした。これはSink us (俺たちを沈めろ)と同じ発音で、この地位にキンメルがあった時に真珠湾攻撃を食らった事もあり、キングはこの略称の使用を禁じてたそうな。 さて、そういった感じで設立された統合参謀本部、その指揮系統を図にすると、以下のようになります。 *画像はイメージです。以下略 純粋な軍事面、戦略戦術に関しては大統領と制服組の最高責任者による統合作戦本部が直結、それ以外の文民管理の部分のみが海軍省長官と戦争省長官の仕事とされたのです。ただし人事の多くも統合参謀本部と大統領が管理しており、アイゼンハワーの抜擢やスプールアンスの抜擢などは事実上マーシャル、キング、そして大統領だけで決断されてます。 ちなみにアイゼンハワーを欧州方面の総責任者ににしたのはルーズベルトの独断でした。本来はマーシャルにその地位が約束されてたのですが、ルーズベルトが彼を手放すのをいやがった結果とされます。マーシャルはこの点、最後まで不満だった形跡があり。 このシステムは極めてうまく行きました。例えばフォレスタル海軍省長官とキング作戦部長は犬猿の仲ながら、軍事面は大統領直属だったので、キングは政治的な圧力に巻き込まれる事なく軍務に集中しています。 さて、この体制が空軍独立の第一歩でした。海兵隊を差し置いて、当時まだ中将だった陸軍航空軍のアーノルドが最高司令部の一員として認められたからです。 ではその後はどうなかったのか、を次に見て行きましょう。まずは陸軍航空軍内の組織から。 |