ワシントンは深かった

で、第二次大戦の隣の部屋は「伝説、追憶、そして大いなる空の戦い」というよくわからん長い名前の部屋。
ぱっと見たところ、第一次大戦機ばかりだったように思いますが、なぜか部屋の名前に「第一次世界大戦」はなし。
ここ、全体的に照明を落とした展示になっており、撮影、ことごとく失敗しました(涙)。
かろうじて見れるレベルの写真が撮れたスパッドのVIII(8)。フォッカーDもあったんですが、撮影失敗。

ホール脇「飛行の先駆者たち」と題された展示スペースにあったカーチスR3C2。
「紅の豚」に出てきたカーチス飛行艇のモデル機。
水上機によるスピードレース、シュナイダートロフィーを1925年に勝ち取った機体ですね。
パイロットは後に第二次大戦で東京空襲を指揮、さらにヨーロッパの第8空軍でも指揮をとる
あのジェームス(ジミー)・H・ドゥーリトル中尉。
さあ、余談だ(笑)。
ドゥーリトル、日本じゃ東京初空襲を指揮したあの野郎、
レベルでしか一般に認知されてない。
東京空襲、すなわち「ドゥーリトル侵攻」をやったせいで
日本では人気がないのかもしれないが、彼は凄い人物だし、
「ドゥーリトル侵攻」の前から、アメリカでは既に有名人だった。
ここら辺の事情を知らないと、あの空襲をなぜ45歳の一介の老中佐が
立案実行まで一人で全て請け負ったか、全く理解できないはずだ。
ドゥーリトルは第一次大戦にパイロットとして参加、
その後1922年に1日以内でのアメリカ横断飛行を初めて成功させ、
さらに上記の1925年シュナイダートロフィーに優勝(26年は準優勝)。
1928年には今度はコクピットに覆いをかけて、世界初の計器飛行による離着陸を成功させ、
スピードだけではなく、飛行全般に高い技術を持つことを見せた。
今日、一般に行われてる計器飛行の基礎は彼が造ったもので、
戦争がなければ、これだけで彼の名は不朽のものとなっていたろう。
その後、一度陸軍から身を引き、シェル石油に航空用燃料の開発幹部として入社
(東京空襲時に未だ中佐だったのはこのため。退役時は少佐)。
ちなみに一部で有名なアメリカの「100オクタンガソリン」を最初に開発したのはシェルで、
この開発にもドゥーリトルは関わってるのだ。
さらに、この間にもアメリカ横断飛行スピード記録を打ちたてたりしてる。
そして第二次大戦開始直後、陸軍航空隊に45歳という年齢ながら電撃復帰、
イギリスで戦線を視察後、東京空襲の立案と指揮を陸軍の参謀本部から指示される。
これはアーノルド大将が彼の行動力はもちろん、有名人であることで
作戦の国民へのアピールを狙った、と考えるのが自然だろう。
常識なら10年以上軍務を離れていた人間を、国の命運すらかかってる作戦の指揮官にはしない。
しかし、まさかドゥーリトル本人が、よりによって先頭機(一番離陸が困難)に乗り込んで、
自ら東京まで爆撃に行ってしまうとはアーノルドも考えてなかったのではないか。
そもそも、この作戦は心理作戦なのだから、ドゥーリトルに死なれてはイメージが悪い。
それでも、彼は自ら先頭を切って出て行き、中国で田んぼに不時着、無事生還する。
ちなみに凡作の誉れ高き映画「パールハーバー」で
「もし撃墜されたら、できるだけ多くのジャップを道連れにしてやるんだ」というセリフが出てくるが
(日本版ではカットされてたと思う)これは全くの創作。あれだけの作戦だけに仔細な記録が残っており、
出撃前のブリーフィングで実際にドゥーリトルが言ったのは
「私はもう45歳だ。今さら捕虜になろうとは思わない。撃墜されたら敵の軍事目標に突っ込むだろう。
しかし君たちは若い。私の行動に続くな。君たちの人生はまだ長い」
ドゥーリトルというのは、そういう人でした。
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