■散歩に行こうや



というわけで、高野山の宿に入って荷物を置いたのがまだ夕方5時前。
ちょっと散策に行きますか。
左のエレベータで1階に降りて来て、ここから玄関までかなり歩きます。
ホントに広い宿坊です。



ここが玄関、というか受付のあるところ。
右側が事務所になってます。
で、上を見ると、籠(カゴ)がぶら下げてある。

ウチのお墓のある長野のお寺にも同じような籠があり、
昔のお坊さんの自家用車みたいなものだったんでしょう。

戦国期から江戸期にかけて、日本ではなぜか籠に乗るのが
一番エラクてカッコいい、という妙な価値観がありました。
今の感覚で言うと、運転手付きのベンツかジャガーってとこでしょうか。

山崎の合戦で明智光秀を破った秀吉が輿(人の乗るミコシ)を担がせ、
それに乗って戦場を見てまわった、という話を見た記憶があります。
これは徒歩や馬に乗ったのではダメで、オレが天下を取った、
という事を示すには、人が担いだ乗り物で見て回る必要があったのでしょう。

ついでに、えらく時代が下って、ペリーが黒船にのって日本に来たとき、
日本では出歩くのに徒歩だとナメられる、とどこかで情報を仕入れており、
(彼は膨大な書籍を読み、途中の香港などでも聞き込みをやっている)
わざわざ人が担いで運ぶ輿を造らせ(寄港地の中国でだと思う)、
船に積んで来ていたりもします。
これの運搬は米兵にはさせず、クーリーを使った、というので、
どうもそれ専用の中国人を雇って船に乗せていたのかもしれません。

まあ戦国期から江戸期のお坊さんは
「日本史」を書いたルイス・フロイスが悪魔と罵倒するくらい、
俗物化してましたから、こういう“ハクつけ”が流行ったんでしょうね。

余談ながら、フロイスは聖(ひじり)などには好意的で、
イエスズ会以外の宗教には否定的とは言え、
強烈に敵対視してたのは仏僧のみでした。
この点で、彼らイエスズ会は、信長と意気投合する事になります。
当時、仏教界は完全に腐敗していた、と見ていいんでしょうね。



今回は裏口風の門から出てみる。
これも本堂同様、徳川家の霊廟から持って来てしまったものらしい。
明治期の、徳川家の置かれたポジションが
うかがわれる話ではあるなあ(涙)…。

高野山は山中の谷筋に、東西方向に広がって造られた街です。
大ざっぱに行って、大規模な寺院施設が集中するのが西側。
突然何もなくなって、巨木と言っていい杉並木のなかに、
ひたすら墓所と慰霊塔が続くのが東側です。
このため、街の東西で、まるで雰囲気が異なります。



さあ、ではどこに行こうか。
例によって、現地の案内マップで簡単に高野山の説明を。

写真は寺院街、高野山の西側の地図。
左端にあるのが、本来の高野山の玄関口、大門。
一番上に@の番号で示したのが、ケーブルカーの駅。
このルートは、メインの参道ではないエリアから入って来てるのがわかります。

Aの矢印が私の泊まった普賢院で、すぐ下にある現在地の表示が観光案内所。
まあ、現在ここにいるわけです。
ここがまさに街の中心で、この西、楕円で囲んだエリアには
金剛峯寺、壇上伽藍という、高野山のメイン宗教施設があります。
で、そのさらに西が、例の大門。

宿坊で聞いたら、内部見学できるとこはだいたい5時には閉まってしまう、
とのことだったので、じゃあ、東側、奥の院方面に向かってみるか、
とこの地図では見てない墓所エリア、街の東側に進撃を開始。

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