■香港の秘密

さて、香港はせまくて建物が密集していて、高層ビルだらけ、看板だらけ、
という印象があるかもしれませんが(私だけ?)、実は結構広くて、
面積だけなら東京23区の倍近くあったりします。
(対大阪市なら実に5倍近い)

ただし、そのほとんどが新界、New Territoriesと呼ばれる森林、野原な地帯で、
都市化が進んでるのは、全体の10%前後(近年はもっと増えてるはずだが)に過ぎません。



ホンコン、ホンコン、広いぞホンコン。
夜に燦然と輝くネオン街もホンコンなら、これもまたホンコン。
中心部から、九龍半島側(新界)を20分も電車で走ると、こんな世界が広がってます。
オーケー!チーター!バナナは僕らの主食だぜ!



なんでやねん、というと、そもそもはイギリスがどういった手順でこのエリアを
中国から巻き上げたのか、という問題になってくるのですが、せっかくなので、軽く説明しておきます。
まず、イギリス統治時代の香港には大きく、二つのエリアがありました。

一つは、“割譲”された、つまりイギリスが永遠に支配権を持っているエリア。
これが、香港島(本来は、この島だけが香港を名乗る資格がある)、
そして九龍(カオルーン この発音は日本語読みでもよく通じる)半島先端部、
この二つがイギリスのもの、と言っていいエリアとなります。

1842年、みんなおなじみアヘン戦争に清が敗北したことで、
その代償として香港島がまず割譲され、次いでアロー戦争でまたも清が敗北しちゃったので、
1860年に九龍半島先端部がイギリスに割譲されます。
現在の知名だと、北のシャムスイポーあたりまでが、この割譲地区でした。



上の地図でピンクの部分が、最初にもらった香港島、赤い部分が次にもらった九龍(カオルーン)半島先端部。
ごらんのように、香港エリア全体で10%以下の面積でしかなかったします。

でもって、残りの大部分を占める新界、New Territoriesは香港と中国本土の間に、緩衝地帯を欲しいと思った
イギリスが、もはや日清戦争に負けるは、各国に租借地を与えまくるはと弱体化する一方だった
当時の清の事情に漬け込んで、巻き上げてしまったものです。
当時、香港は水不足にも悩まされていたようなので、その解決も目的の一つでした。

ただし、ここは戦争等の代償ではないので、“借りたもの”とされましたが、100年期限でお代は無料ですから、
イギリスとしては、事実上、自分のものにしたつもりだったはず。
が、この100年期限が、後に意外な重石となってきます。

さて、実は香港が我々の知る国際的な大都会になるのは戦後、アジアの経済が発展し始めた1950年代からで、
それまではイギリスのアジアの拠点はシンガポールでしたし、香港なんて大した意味はない街でした。
が、1950年代から一気に発展した香港は1970年代には世界でもトップクラスの大都会になってしまいます。

こうなると、当然、イギリス領地の外、本来は緩衝地帯であった新界にも
都市部を拡大して行ってもいいんですが、ここで100年問題が出てきます。
つまり、新界は1997年には中国に返還しないとならない。
そこにイギリスの金で、道路や鉄道、各種都市インフラを設営しても、
中国のための無料プレゼントを造るようなものじゃん、もったいない、となります。

なので、イギリス統治時代、新界エリアの開発は全く進まず、ほぼ原野に近い状態で放って置かれます。
が、イギリスとしても、香港の限界を感じてましたから、サッチャー首相が1982年に
新界の租借期限をさらに延期するよう、北京を訪れ
当時最高権力の座に返り咲いて絶頂期にあったケ 小平と会談します。
が、この時の会談はイギリスの外交下手がモロに出るような交渉で、
あまりに高慢な態度にトサカに血が登ったケ 小平に、これを拒否されてしまいました。

こうなると実際問題、新界エリアなしでは水や電力と言う生活インフラの維持は不可能で、
イギリスはここで、香港全体、本来は1997年に返還義務の無かった香港島、九龍半島先端部を
含めて返還してしまうことを決心します。
これは、相当な打撃であり、中国政府との何らかの取引があったと思うんですが、
今のところ、そこらへんの事情を説明した資料を見たことがありません。

というわけで、結局、全部返しちゃったので意味がなかったのですが、
イギリスが新界エリアの開発に二の足を踏んで、各種インフラの整備を怠ったため、
開発をためらう理由がなくなった今でも、その大半が未開地なのです。
現在でも一般に香港と聞いて連想する大都会は、上の地図のピンクと赤のエリアが中心で、
その集積度は世界でも最強のレベルとなっています。

これが香港を混沌の街にしている最大の要因の一つでしょう。


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