■今回の旅の予備知識 2

次は、オハイオ州、デイトン。
普通の日本人が普通に生活している限り、一生縁がない街候補ナンバー1、
という、典型的な「アメリカの地方都市」ですが、
実はここ、ライト兄弟(三男四男がおなじみの連中)の住んでた街だったりします。
ついでに、アマチュア無線(ハム)の世界的なコンベンションも毎年行われるてるそうなので、
そっち方面の人なら、多少は知ってるのかしらん。

10階建て以上のビルが二つあったら都会、という地方ルールが有効なアメリカにおいて、
デイトンは、それなりに立派なダウンタウンを持っている。
半径100kmぐらいの中ではダントツにシチー派なのだが、
(南100kmほどにシンシナティー市、西に約200kmでインディアナポリス市がある)
日本の感覚でいうと、せいぜい郊外型ベットタウンの規模だ。
少し、脱線するアルヨ。
ライト兄弟の「初飛行」の説明として、
「動力推進かつ操縦が可能で、空気よりも重い状態で飛行状態を維持できた、人類による初飛行」
(first powered
,controlled,
and sustained heavier than air human flight
)
という持ってまわった表現が英語圏では多いんですが、
別に本気でライト兄弟はハトよりもスズメよりもカラ(以下略)より後に飛んだ生命体、
と言ってるのではなく、これは、彼らの初飛行をめぐる熾烈な戦いの後遺症です。
この言い回しも、後に裁判で彼らが勝ち取った「称号」だったりします。
ここでは本題から外れるので軽く触れるにとどめますが、
アメリカにおけるライト兄弟の初飛行後の反応は、
「わが国が産んだ、人類最初の飛行機発明家ブラボー!」
といったノンキなものではなく、世間一般の無関心と、
それ以外の学者陣(スミソニアン協会の連中だが)との「戦い」でした。
(フランスからのイチャモンはヤクザの因縁みたいなものだから無視して可)
ちなみに、兄弟の初飛行を好意的に報じた数少ないメディアが、
地元デイトンの新聞なんですが、後にそこの記者が
「正直言って、誰も本気で信じちゃいなかったよ」
と言ってるくらいですから、後は察して知るべし。
…こう書くと、なんだかライト兄弟が悲劇のヒーローみたいですが、
この二人もまた「強烈な個性」の持ち主だったので、
金の絡んだ特許問題を中心に、そらまあ、ドロ沼な戦いとなりました(笑)。
ちなみに、ライト兄弟の主な対戦相手となったスミソニアン協会のボスが、
兄弟の前に初飛行をやろうとして川に落っこちて終わった事で知られる、
例のラングレー教授(しかも本人は機体に乗ってなかったらしい)。
もめるよね、そりゃ(笑)。
スミソニアン協会は、博物館で知られますが、科学アカデミーのような一面も持っており、
特に当時の航空機界には強い影響力を持っていました。
「自然科学」「アメリカ史」と並んで、スミソニアンの主要博物館に
「航空宇宙」が含まれるのは、多分、そのため。
スミソニアンについては、以前の旅行記を見てください。
そのラングレーと共にライト兄弟最大の敵となったのが、あのカーチスです。
後にシュナイダートロフィーの優勝機を設計したり、
その設立した会社の戦闘機で名を残したりしますが、
この犬猿の仲だったライト兄弟の会社とカーチスの会社は、
1929年、おそらく大恐慌による経営不振により、合併してカーチスライトとなります。
世の中、何が起こるかわかったもんじゃないですね…。

スミソニアンの航空宇宙博物館に展示されてるライトフライヤー。
これはオリジナル(…ただし、どこまでオリジナルかは寄贈したオービルのみが知る)。
スミソニアン協会は単なる博物館屋ではなく、科学協会、アカデミーのような
存在だったので、そこのボスを敵にまわしたのは不利だった。
この不毛な戦いでトサカに来た「ライト兄弟下の方」ことのオービルは、
ライトフライヤーを展示させて、と言ってきた
ロンドンの科学博物館に1928年以降、これを貸し出してしまう。
この結果、後にアメリカ、というかスミソニアン協会はこの機体を
スミソニアンの航空宇宙博物館へと取り返すのに、かなり苦労することになる。
ちなみに、この段階で「ライト兄弟の上の方」ことウィルバーは
既に天国入国済みだ(動力を使わない自力飛行によると思われる)。
ついでに、このとき、スミソニアン協会とオービルの間に入ったのが、
アメリカの空の英雄、リンドバーグだったのだが、
この人はこの人でまた、イロイロ難のある人間性だったから(涙)、
まとまる話もまとまるはずがなく、破談。
結局、1940年ごろ、スミソニアン協会がオービルにワビを入れる形で和解するのだが、
今度は第二次世界大戦が勃発してしまっており、回収不能となる。
結局この機体がアメリカに帰ってきたのは1948年半ば、
同年1月にはウィルバーも自力飛行で天国へ飛び立っていたから、
結局、完全な形でスミソニアンとライト兄弟は和解しないまま終わる。
最後に、いらん話かもしれないが、ちょっとだけ。
某日本の最高学府の展示会などでも
「スミソニアン博物館」などと書いてあるが、スミソニアン協会が運営しているのは、
「自然科学」「アメリカ史」「航空宇宙」を三本柱とする
複数の博物館郡で、単一の博物館ではない。
よって「スミソニアン博物館」なる博物館は存在しないアルヨ。
ついでに連中は、動物園まで運営してたりするぞ。
…今さらながら、スミソニアン旅行記で、このライトフライヤーに
全く触れてないじゃん、という事に気づく。
何やってるんだ、自分…
話を戻しましょう。
少年時代、一時、この街を離れたことがあったものの、
基本的にはウィルバーもオービルもこの街で暮らし続けていました。
彼らがやっていた自転車店も、ダウンタウンから少し西に離れた場所に残ってます。
(もっとも、このお店は再建されたもので、オリジナルは
例のヘンリー フォードが買い取ってとっくに移築してしまった、という話もありにけり)
微妙なのはライト兄弟が住んでいたのも、
数々の実験を行ったのも、ここデイトンなんですが、
肝心の初飛行を行ったのは、800km近く離れたノースカロライナ州のキティホークだという点。
これは二人が気象台に問い合わせ、
アメリカ東部で最も風の強い地域を試験地に選んだため、と言われています。
実際、初飛行をしたライトフライヤーは、後のレプリカも含め、
一度も再現飛行に成功していない、と言われているので、
「キティホークの強風に助けられた」という面は大きいでしょう。
が、アメリカ地図でデイトンとキティホークの距離を確認すると、
正直、呆れます(笑)。
民間人が趣味で行うレベルの実験活動ではないですよ、これ。
実機サイズの実験に入ってからは、兄弟は何度かキティホークを訪れてます。
1903年前後のアメリカで、これだけの距離を、
あれだけの物資を持って何度も移動するのは、並大抵のことではありません。
(フォードによる自動車化社会到来の10年前の段階)
いやはや、連中のやる気と経済力は、恐るべきものがあり、
あの初飛行も、執念で飛ばした、という気がしますね。
というか、明らかに「航空機を事業化し、一儲け」を考えていたのでしょう。
でなきゃ、趣味で行うレベルの投資ではないですから。
そんなわけで、兄弟の飛行実験は、
冬のポトマック川(ワシントン、すなわちスミソニアンのすぐ近所)でお茶を濁した
後に最大の敵となる、ラングレー教授のエアロドローム号とは気合が違うのでした。
…というかラングレー、やる気あんのか(笑)。
これだけ金と時間をかけたのだから、後に金の亡者のごとく、
飛行機関係の特許を抑えて、カーチスらと戦った兄弟の気持ちもわからなくはないです。
まあ、どう見てもやり過ぎでしたが、そのおかげで、
「特許の抜け道」を世界中が探し始め、フランスのアンリ(ヘンリー)が
エルロン(補助翼)という近代航空機の重要なパーツを発明することに繋がるので、
功罪半ばする、というとこでしょうか。
えらく長い脱線でした(笑)。
まあそういったわけで、兄弟はノースカロライナを人類初飛行の地としてしまいます。
この結果、デイトンは「ライト兄弟」と聞いて
最初に思い浮かべる土地の座を失ったのでした。
南無〜。
デイトン国際(!)空港の床に敷かれた絨毯はライトフライヤー模様だ。
さりげなく「ライト兄弟風味」を演出。
どうもキティホークで飛ばした「I」ではなく、こっちで飛行した「III」のような感じだが、
もちろん、私には区別がつかない。
ちなみに、日本だったら、とっくに「ライト兄弟モナカ」「ライトフライヤー音頭」などが
売り出されてるところだろうが、まだ見あたらなかった。
…皆さん、「アフリカで原住民がまだ靴を履いてないのを見た二人のセールスマンの話」
はご存知?
商機はゴロゴロしてますぜ(笑)。
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