■連邦管轄区についての一考察



合衆国国会議事堂前から、モール地区を望む。
中央に見える芝生広場と左右の緑地がモールとよばれる緑地帯で、
これが東西約4q渡って広がり、ワシントンD.C.における主な施設は
ほぼ全てこの周辺に集中してます。

画面中央の巨大な塔がワシントン耳もリアル、否、ワシントン メモリアルで、
その右側のモールの外に大統領のステキなお家こと、ホワイトハウスがあります。
ワシントンメモリアルの左側、赤茶色の塔は
城(Castle)と呼ばれるスミソニアン博物館軍団の総本山、
スミソニアン協会の本部です。

この議会前からワシントン メモリアルまで、
直ぐそこに見えますが、これは巨大建造物の起こす錯覚で、
実際は約2qの距離がありますから、歩くと軽く20分以上かかります。
アメリカ旅行の最大の罠がこれで(笑)、すぐそこと思って歩いてしまうとエライ目に会うことに。
ワシントンD.C、さらにはラスベガスなどでもよくある罠です。

さらにその約2q先にリンカーン鼻もリアル、
否、リンカーン メモリアル神殿があります。
この連載のタイトルページに使われる写真の建物ですね。

そして一番手前画面中央やや左に見えてるのは、毛髪に弱点を抱える現地観光客。
この人、なぜか放送禁止用語を連発しながら写真を撮ってました。
モールで昔、彼女にフラれた、とかあったんでしょうかね。

ちなみにモールは東西で約4q、という事は歩いて約1時間の距離ですが、
なに、走れば30分前後で軽く突破できます。
…何で知ってるかって?
そりゃ6日目の旅行記を楽しみにしておいてくれたまえ…



さて、ではワシントンD.C.の成立に話を戻しましょう。

前ページで説明したような州の支配が及ばない、
連邦政府の直轄地としてヴァージニア州とメリーランド州から
政府に対して割譲されたのが、この地域でした。
ちなみにこれは、南部の諸州が北部の力の強化を警戒し、
首都を南部地区に建設することを主張したためだ、と言われています。
となると、すでにこの時代から南北対立の芽はあったんでしょうね。

でもってワシントンD.C.は北緯38度53分付近ですから、
日本で言えば盛岡市のやや南、といった位置にあたります。
なので、ここが南部といわれるとちょっと日本人としては戸惑うのですが、
独立13州の位置からすると、この緯度から南、
ヴァージニア州からすでに南部となるのです。

ちなみにヨーロッパの感覚だと北緯38度は
イタリア半島南部に当たりますから、
なるほど、これまた十分に南部と言えます。
ここら辺り、日本が先進国の中では際立って南に位置してるんですよね。

さて、まず1801年に合衆国議会が通過させた法案、
District of Columbia Organic Act of 1801
により、この地にアメリカ合衆国の首都が設立される、と正式に決まりました。
ちなみにこれは初代大統領ワシントンの死後で、
彼はワシントンD.C.では、その職務を全く行なっていませんし、
当然、ホワイトハウスに入った事もないのです。

この時、既にそこにあったジョージタウン市と
アレキサンドリア市を含めた周辺一帯を
連邦政府の直轄地区、すなわち
District of Columbia、コロンビア連邦管轄区として制定します。
その中央に新たに地区内3つ目の市となる首都を建設する、という計画ですね。

これが後に初代大統領を記念した名前を贈られ、
City of Washington、ワシントン市となります。
よって、この段階では各州から独立した
コロンビア連邦管轄区にある街の一つ、
それがワシントン市、という事になるわけです。

ちなみに、コロンビアはコロンブスのラテン語名、と単純に説明されますが、
実は話はそう単純ではありません(笑)。

これはコロンブスが発見した土地、という意味であり、
ヨーロッパ(Europa)、アジア(Asia)、アフリカ(Afurica)、
そしてアメリカ(America)などと同じく、
名詞の最後を“A”で終わらせる地域名の一種になっています。

が、ラテン語で“A”出終わる固有名詞は、基本的には女性の名で、
Aは日本語の“〜子”に近い文字なのです。
ラテン語による土地名の大本となったヨーロッパが女神の名前だったためか、
なぜかローマ人は、地域名を片っ端から女性名にしてしまったのでした(笑)。
このため、英語では国や大陸を女性代名詞のSheで受ける事になります。
これは確かフランス語などでも同じのはずで、
ラテン文化の影響下にあったエリアではほぼ共通でしょう。

ちなみに日本のお隣、中国も本来は秦帝国のchin が呼称だったのに、
いつの間にか勝手にAがつけれらてChinaと女性化されてしまいました(笑)。
が、国の名前や土地名に勝手にAをつけて女性化するならまだマシですが、
コロンブスは実在の人物ですから、
これは日本だと間宮林蔵が間宮林子ちゃんに改名されたあげく、
間宮海峡が林子海峡にされてしまったようなものです(笑)。
(もっともコロンブスは姓の方だが…)

個人的にはこれをラテン語化による萌えキャラ化、と呼んでいます。
よって、ワシントンD.C.はワシントンとコロンブスの
二人の名前が入っていますが、一人は萌えキャラ、という事になります、ええ。

さて、この完全にゼロから造られる事になった首都の建設は遅れまくります。
結局、今我々が見てるワシントンD.C.が完成するのは20世紀に入ってから、
さらにほぼ現在の状態になったのは実に1970年代後半の事になります。

このため、首都の中心部の開発だけでも手間取ってしまい、
南西部にあったアレクサンドリア市周辺、
さらには現在のアーリントン墓地、ペンタゴン周辺は
完全に取り残されてしまうのです。

この結果、1846年ごろ、ヴァージニア州が使わないなら返してくれ、
とアレクサンドリア市周辺の返還要求を政府に提出、
これを取り戻してしまったため、現在のようにポトマック川の
東側のみが、ワシントンD.C.として残る事になります。



本来なら1マイル、16q四方の土地だったのですが、
ポトマック川の西側を後に返還してしまったため、
現在のようなイビツな形になってしまったのでした。

その返還したはずの西側に現在は、アーリントン国立墓地とペンタゴンがありますが、
これは個人の所有地を没収したり、買い取ったりして得た土地のようです。
ちなみにアーリントン墓地の中心部は元々、南北戦争で南軍の軍司令官となった
リー将軍の屋敷で、彼が北部の合衆国政府に対して納税を拒否したため、
罰としてこれを合衆国政府が没収したのもの、とされています。



ちなみに、このアーリントン地区&アレクサンドリア市の
ヴァージニア州への返還は、1846年というタイミングから分かるように、
奴隷制問題が絡んでいた、と考えるのが一般的です。

この時期からワシントン市内では奴隷制への規制が始まっており(廃止ではない)、
それを嫌ったアレクサンドリア市(大きな奴隷市場があった)が
奴隷制全然オッケーのヴァージニア州の支配下に戻りたがった、
というのがこの返還の主要因、とういうのが現在の定説のようです。



実は今回の遠征において旅団の前線本部が展開されたのが、
このワシントンD.C.南西に位置するアレクサンドリア市でした。
なにせワシントンD.C.内のホテルは最低でも1泊120ドルといった、
暴力温泉民宿ような値段ばかりで7泊したら死んでしまう、という状況だったのです。

が、結果的には大当たりで、非常に美しい落ち着いた街で、
日本で言ったら東京に対する横浜 山の手、大阪の神戸 山の手、
といった雰囲気の区域でありながら、十分に庶民的で、滞在していて楽しかったです。

でもって、この地域はワシントンD.C.より先に成立していた街ですから、
写真のようなワシントン本人が訪れた事がある
という教会などが、あっさり残っていたりします。

ちなみにこの近所には、南軍の司令官、リー将軍が軍に入るまでの
少年時代をすごした家が現在も保存されています。
(個人所有のため、見学はできず)

よってアメリカ東部では、ここを目的に来る観光客も多いのですが、
実は南部最大級の奴隷取引の街だった、という陰の面も持っています。
現地の観光マップではほとんどその歴史は触れられてませんが、
さりげなく、街中に黒人の歴史博物館があったりします。
残念ながら時間切れで、今回は見学してませんが…。



さて、そういった感じで新たに首都として造成されたワシントンD.C.は、
徐々にその規模を拡大、西側にあったジョージア市を飲み込んでしまいます。

この結果、南北戦争後の1871年ごろ、両者が合併され、
(連邦管轄区内にあった他の小規模な地域も含む)
まとめてコロンビア連邦管轄区(District of Columbia)とされます。

この合併時に、ジョージア市と同時にワシントン市も消滅したはずなんですが、
初代大統領の名前であり、さらに既に馴染みとなっていたためか、
Washington, District of Columbiaという特別な呼称が残される事になったようです。
この結果、見て分かるように英語の呼称に「市」は全く含まれておらず、
やはりワシントンD.C.と書くのが妥当でしょう。

ちなみに、この合併の原動力となった人口増は
、南部地域で聖域のような存在になっていた連邦政府直轄のワシントン市に、
行き場をなくした解放奴隷が殺到した、という面があるようです。

この結果、現在でもこの地域は
全米でも黒人の人口比率が高い地域となっていますが、
21世紀に入ってからは、白人系の人口比率が上がっているとか。
それでも全人口の50%が黒人とされますから、太平洋部とはだいぶ異なる世界です。

ついでに人口も近年は増えつつあり、市内だけでも60万人、
周辺の衛星都市を合わせると100万人近い人口を持ち、
日本人の感覚でも大都市、という街となっています。

ちなみに日本語の「黒人」は白人、黄色人種と同じ系列の単語に過ぎず、
差別的な意味を含まないので、この記事では黒人の名称で統一します。

さて、そうやって首都として成立したワシントンD.C.ですが、
1850年代にスミソニアン協会がこの地に設立された結果、
ロンドンと並ぶ世界最強の博物館都市、といった側面を持って行く事になります。

その辺りは、記事内のスミソニアン博物館軍団対決編で順次、紹介して行きましょう。


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