■人間用ではないドック



でもってそこにあるのが未だに現役の1号ドック。
全長で120m前後有り、つい最近も奥に見えてるUSSカッシン ヤングの整備で使われたとか。
それ以外にも、歴史的遺産とされているような
アメリカ国内の古い船舶のレストアにも使われる、との事でした。

ちなみに写真右にセイタカアワダチソウが見えてますが、
そういえば北米原産だったなあ、と思ったりしました。



1800年の設立時からあるらしい第1ドックを正面から。
何度も改修されてると思いますが、とりあえずアメリカで最古に近く、
世界でもかなり古い部類に入るドックでしょう。

奥に見えてるUSSカッシン ヤングの船体の高さを見ると分かると思いますが、
港内の海面より低い位置にドックの底があります。

これは一番奥に見えてるケーソン(Caisson)と呼ばれるフタを閉じ、
ドック内を密閉してからポンプで中の水を抜いてしまっているからです。
中に入ってる船は底に見えてる台座に支えられて
ここに据え置かれる事になります。

ちなみにケーソンは左右に開くといった単純な水門ではなく、
中央部分に窓があり、そこから海水をドック内に入れた後で
外側に取り外して持ち去ってしまう、
という豪快な開門を行なう構造になってます。

船がドックに入ったら、タグボートなどで再度この位置に持ってきてフタをし、
中央の窓を閉めた後で、ポンプでドック内部の水を抜くのです。
後は水圧で押さえつけられたケーソンにより、
ドックにフタがされる事になります。

大戦期にはこの1号ドックと、前回見た2号ドックを使って駆逐艦、
そして対潜水艦任務用の小型の護衛駆逐艦(Destroyer Escort)の
建造をやってたようです。
現地にあった説明によると、この工廠では護衛駆逐艦なら
4ヶ月以下で1隻完成させる事が出来たとか。

この結果、1941年の開戦直前から、
工廠が修理を中心とした作業に方向転換する1943年まで、
約2年半の間で70隻近い駆逐艦と護衛駆逐艦を完成させてしまったそうな。
(さらに1945年からは対日上陸作戦のための揚陸艇、LSDの生産に入る)
まあ、毎度の事ながら、アメリカ伝統のこの生産力には呆れるしかありません(笑)。
そのうち半分以上がイギリスに貸与されて対潜作戦に投入されたようです。

ちなみにドックが2つでこの生産数は計算が合わない気がしますが、
船体の細い護衛駆逐艦の場合、ドック内で2隻並べて同時に作ってしまったほか、
ドックから出る進水までなら、より短い2ヶ月前後で行けたようなので、
(その後、水上作業で武装や電気関係の儀装が行なわれる)
こういったムチャクチャな数字が達成されたようです。
いやはや…



さて、今回の目玉の一つ、駆逐艦USSカッシン ヤングを見に行きましょう。

手前のは、先に見たクレーンと同じタイプのレール上を移動する
大型クレーンで、大戦中の1943年にこの工廠に導入されたものらしいです。
元々は14基あったうち、現存するのは3基だけで、
1基あたりの導入価格は当時の価格で65,409ドルだとか。
ちなみにP-51Dムスタング戦闘機の導入価格は1945年で50,985ドル。
クレーンが高いのか、P-51Dが安すぎるのか(笑)。

うーむ、近くで見るとやっぱり意外に大きいですね。
この艦、フレッチャー級(Fletcher-class)の駆逐艦ですから、
基準排水量は2050tほどで、決して大型艦ではないのですが…。
ちなみに駆逐艦らしく高速な船で36ノット、66q/hの最大速度が出たそうです。

現地で見た解説によると、フレッチャー級は全部で175隻建造され、
そのうち14隻がこの工廠で造られたのだとか。
いや、しかしフレッチャー級だけで175隻って、
それ日本海軍の全保有駆逐艦数とほぼ同じか、むしろ多いのでは…。

ちなみに、175隻中、4隻だけが太平洋戦線に行ってないそうで、
普通に考えると、ヨーロッパ側、大西洋に回したんでしょうね。
…たった4隻で間に合ってしまう大西洋戦線、ある意味すごいな、と思ったり。

このフレッチャー級は戦後の海上自衛隊にも2隻が貸与されており、
ありあけ、ゆうぐれ、というあまり知られてない護衛艦として運用してたそうな。
2隻とも1974年に除籍、アメリカに返還され、後にスクラップとして売られてます。

でもって、この艦名となったカッシン ヤング大佐は
1942年11月13日の第三次ソロモン海戦の初戦で大破する(沈没はしない)
重巡洋艦サンフランシスコの艦長だった人でした。
日本の戦艦 霧島と比叡が参戦、比叡が失われる事になる海戦です。
アメリカ側の呼称はガダルカナル海上戦、
Naval Battle of Guadalcanalとなります。

はい、わかった人はわかりましたね(笑)。
カッシン ヤング艦長は、あの戦いが海戦史上最悪の大混戦、
未だに何がどうなかったのかよくわからないという、
想像を絶するメチャクチャな展開になった最大要因を作った一人です。
すなわち重巡サンフランシスコによる
友軍艦USSアトランタをメッタ撃ち(主砲命中弾19発説あり…)事件
の責任者の一人なのです…

幸か不幸か、この海戦で
USSサンフランシスコ自身も艦橋に直撃弾をくらい、
ヤング艦長、さらにはサンフランシスコ艦橋から指揮を執っていた
キャラハン艦隊指令を始めとする指揮官は、ほぼ全員戦死してしまいます。
このため、未だに詳細がよくわからない部分があるんですが、
夜戦とはいえ、友軍艦をここまでメッタ撃ちにしたのはあまり例がないでしょう。

一応、日本海軍の命中弾もあった、とされますが(笑)、
その大半は間違いなくUSSサンフランシスコによるもので、
USSアトランタを大破に追い込んだのは、間違いなくUSSサンフランシスコです。
(ただし直前の日本駆逐艦の雷撃でエンジンに被害を受けてはいた)
その後の日本側の攻撃はオマケみたいなもんでしょう。
ただし、この時は日本側も僚艦同士で撃ち合いをやってるので、
ホントに何がなんだかよくわからん、という海戦となって行きます…。

そんな艦長をなんで駆逐艦の名前に?という気はします。
むしろ僚艦からタコ殴り(夜戦でレーダー射撃なのだ)にされながら、
日本艦隊相手に最後まで奮戦した
USSアトランタの乗員の方がよほど立派だと思いますが…。
まあ、アトランタの艦長は奇跡的に生還してるので、
じゃあ、ヤングの方で、という事になったんでしょうかねえ。

もっとも、ヤングは真珠湾攻撃のとき、指揮していた補給艦を
冷静に誘導し無事に救ったという活躍があり、
それによってサンフランシスコ艦長に大抜擢された、
という事ですから、そっちの英雄行為が評価されたんでしょうか。

でもって、渡航直前までの情報だとこの艦、
昨年から例の1号ドックに入って
大規模な修繕を行なっていたのだ、との事でした。
よって現在公開中止中だよ、と。

が、その後、ようやくドックを出るとこまでは来たので、
9月には公開再開できるかも、という事が、
この艦の保存団体(USS Cassin Young Volunteers)の
ホームページにアップされたのまでは確認済み。

アメリカの保存艦は専属のボランティア組織が
維持、管理をしてることが多いのですが、
この船の場合、かなりしっかりした組織がついてるようで、
これまでの修繕記録などは全てホームページで見る事ができます。
それだけに、結構期待してるのですが、
さて、現在9月17日、公開は再開されているのか…。


NEXT