■大宰府爆誕まで

さて、本旅行記連載当初に述べたように、今回の旅行の目的の一つは大宰府の訪問でした。特に663年、「白村江の戦い」でケチョンケチョンのシオシオのパーにされた大和朝廷軍が半ベソかきながら築き上げた、恐らく未だに日本最大最強の決戦城砦としての存在が気になっていたわけです。この点を今回の大宰府周辺訪問記の前に確認して置きましょう。

ちなみに「大宰府」は大和朝廷の地方長官である大宰(おほ みこともち)、または大宰帥(おほ みこともちかみ)の赴任する「府」政庁という意味で、本来は特定の土地を指す固有名詞ではありませぬ。ちなみに地方長官を意味する「みこともち」は「宰」よりも「司」の字が当てられるのが普通で、このため律令制の各国の長官が国司となるわけです。なので太宰を「だざい」と読むのは正しくないのですが、いつからこう読むようになったのかはよう判りませぬ。

ついでながら大宰帥の元ネタは古代中国の周から春秋戦国時代に置ける国家宰相を意味する太宰でしょう(王の補佐官、いわば首相といった地位。後の宰相の走りだろう。ただし時代が進むとどんどん地位が低下した)。こちらは「太」宰で日本の官職名の「大」宰とは字が違うのですが、「太」も「大」も上位の存在である事を示すために付ける形容詞のようなものでした。実際、日本側の記録でも両者が入り乱れています(公文書の印章、日本書紀などの表記は「大」でこっちが公式だと思うが、一部の古文書には「太」の字が使われている)。ちなみに21世紀現在は古代政庁を指す場合は「大宰府」、地名、天満宮などは全て「太宰府」と表記しているようです。

さらにちなみに作家にして人間のクズ、太宰治の筆名「太宰」は万葉集に出て来る酒飲み、大宰帥にあやかったものとされています。すなわち大伴旅人、今回の旅で齢1350歳を超えてなお存命中なのが確認されたあの人ですな。

この大宰帥を名乗る地方長官が置かれたのが確認できるのは筑紫と吉備の二国だけ(吉備は短期間で廃止)、さらに吉備にあった大宰帥の政庁の名は現在まで不明のままなので、大宰府と言えば基本的にはこの九州の政庁と考えて問題ありませぬ。ちなみに日本書紀、続日本紀などの記述を見ると白村江の戦いで敗北する以前は単に筑紫大宰と呼ばれており、大宰府の名が出て来るのは続日本紀における698(文武2)年の記述、「令大宰府繕治大野 基牌 鞠智三城」からだと思われます。つまり白村江の戦いでボコボコにされた後も、三十年近くは筑紫大宰と呼ばれていた可能性があります。恐らく「大宰府」となったのは後で述べる長安式の碁盤目状の条坊都市になってからではないかと個人的には推測しております。

とにかくかなり古くから重要な地方政庁がこの地にあった事は間違いないのですが、これが大和朝廷最終決戦防衛線、無敵城砦大宰府にメガ進化してしまうのは、何度も述べているように白村江の戦以後でした(それ以前はもっと海側、より福岡市に近い場所にあった可能性が高い)。

その後、唐の長安式の碁盤目状の街路を持つ日本初の条坊首都、藤原京(694年ごろに遷都)が完成し、それとほぼ同時期、あるいはそれ以前に同じような条坊都市とての大宰府が造られる事になるのですが、その完成については明確な記録がありませぬ。ただし首都である藤原京より十年以上も先駆けるとは思えんので白村江の敗北から二十年以上経ってから、すなわち状況がかなり落ち着いた後の可能性が高いです。この点、絶対守るぜ防壁の水城がケチョンケチョンにされた翌年の664年、北側の大野城が二年後の665年にそれぞれ完成した記述があるのに比べ、かなり遅れて条坊都市として完成した可能性が高いでしょう。

ちなみに藤原京以前、政庁しかない首都時代(難波宮)の683年(白村江の戦から20年後)に天武天皇が首都は一つでなくてもいいよね、という「複都制の詔(凡都城宮室、非一処、必造両参/都は一つでは無く三つ必要という事)」を出しております。大宰府が条坊都市になったのは時期的にその影響があったんじゃないかなあ、と個人的には思っておりますが確証は無し。「日本書紀」では畿内と信州で複都の候補地調査を行ったとしかしておらず、さらに間もなく天武天皇は病気で実権を失い、686年には没しちゃいますし。でも時期的にあまりに一致してるんですよね、これ。

■オレの考える最強決戦城砦 大宰府絶対防衛線

大宰府の本体の大きさはざっと2q四方と見られていますが、正確な記録はなく、一帯が人家に飲まれてしまった現状では発掘もままならぬため、正確な所はよく判りませぬ。とりあえず東西南北で4qを超える規模だった藤原&平城京よりは小規模だったと見ていいでしょう。ただし中央を南北にぶち抜く道、朱雀大路の幅は35m前後と見られており、藤原京と同じ規模でした。長安式にキレイに東西南北に街路は整備されおり、なぜか中心部に宮中の政庁を置いた藤原京とは違い、長安、あるいは後の平城京と同じく北端部に政務の中心部を置いていました。

が、今回の問題はその周囲に築かれた防衛設備です。その大規模さは戦国期の小田原城、大阪城、さらには江戸期の江戸城の比ではなく、おそらく未だに日本最大規模だと思われます。この辺りも見て置きましょう。



国土地理院地図に情報を追加して作成


一帯では唐と新羅によって滅ぼされた百済からの遺臣の技術を用いて朝鮮式の築城を行っています。ただし朝鮮本土でも確認されてない規模の城砦となっており、連載当初に指摘したように朝鮮式羅城(土塁によって守られた都市。戦闘要塞では無いのに注意。「城」は本来城塞都市を意味する)としては最大規模であった李氏朝鮮のソウルよりも大きい可能性があります。ソウル城ですらその土塁、城壁はせいぜい全長20qだったのですが、この大宰府では軽く30q近くになるからです。ただしホントに全体に土塁があったのか、というと個人的には怪しく、おそらく平地部のみを封じ、山間には土塁を置いてなかったんじゃないかな、と思っておりますが。ついでに関東人としては忘れられぬ防人の皆さんもその建築に投じられたと思うんですが、明確な証拠は無し。

ちなみに上の地図で短い白い点線で示したのが現存、または発掘によって確認されている土塁で、赤線で引いたのがオレが考える最強の防御要塞のために必要な部分、恐らくここにも土塁があったと筆者が個人的に推測している部分です。

白村江の戦の後、最初に造られたのが翌664年に造られた北側の水城でした( 又於筑紫築大堤貯水。名曰水城)。博多湾から一帯に繋がる平地を塞いでしまう巨大な土塁で水堀を持っていた事からこの名があると思われます。ちなみに以前は博多側にのみ水堀があったと思われてましたが、近年の発掘によると大宰府側にも水堀があったようです。なるほど、水城だという感じですね。

水城の東側は大野城からそのまま繋がるので一帯の平地を封鎖する目的があるのが見て取れます。ただし西側は現在の地図や空中写真で見ると極めて中途半端な場所で終わっているように見えます。これは開発によって一帯の地形が変わってしまった結果であり、元々は西側も丘陵で、さらに一帯には池のような水堀があったと思われます。



国土地理院の航空写真検索より引用


1948(昭和23)年の米軍撮影による水城一帯の航空写真で見ると水城がキチンと平野部を横断、封鎖しているのが良く判るかと。ちなみに画面左手の西側にはさらに数か所、小水城と呼ばれる小さな土塁が確認されており、かなり入念に一帯が封鎖されているのが判ります。ただし、現状確認されている古城だけではどう考えても北西側の防御が弱いので、写真に記入した辺りにもう一つ城があったのでは、と個人的には推測しています。現状は完全に住宅街に飲まれてしまっており、確認の術は無いですけどね。

ここでもう一度、同じ地図をここに載せて置きます。
水城の完成の翌年、すなわち白村江の戦から2年後、665年に造られたのが大宰府の直ぐ北の四王寺山にある大野城でした。朝鮮式の山城で、山上の城塞都市として戦闘になったら政府機関と一帯の住人がここに立てこもれる規模がありました。というか、個人的には条坊都市としての「大宰府」が完成するまで、すなわち唐の皇帝さんがもう怒って無いと確信が持てるまで「筑紫太宰」はここにあったのでは無いかと考えてますが、当然、確証はありませぬ。

ついでに現在確認されてる残りの三つの城、大野城、基肄(きい)城、阿志岐(あしき)城の位置を見てもらえば写真左上、北西側にも城があった気がするのが判っていただけるかと。それらを結ぶのが一帯を防衛する土塁となるわけです。



ちなみに日本書紀の665年の記述では百済の遺臣である二人によって「筑紫国、 築大野及椽二城」、すなわち筑紫の国に大野城と椽(たるき)城の二つが築かれた、とありますから大野城がこの時に造られたのは間違いないでしょう。問題は椽城の方で、南西にある基肄(きい)城の事と説明する資料が多いですが、私はその根拠を知りませぬ。普通に考えると「き」の字が同じだけですが…。古語での読みなら「えん」でしょうから完全に別物だと思うんですけどね。実際、先に見たように 698(文武2)年の続日本紀の記述では、「令大宰府繕治大野 基肄 鞠智三城(大野、基肄、鞠智(熊本県にある)の三つの城の修繕を大宰府に命じた)」とキチンと基肄と記述されており、椽城とはされてないのです。

この点については基肄城跡は古くから知られており、大野山城と一緒に建てられたならここだね、的な適当な解釈があったんじゃないかと推測していますが、よく判らず。実際1999年に発見された阿志岐城(これだって「き」だ)など当時の記録に無い城跡が一帯には存在してますから、必ずしも基肄城が椽城だとは思えんのですよ。まあ、いずれにせよ、この一帯に同時期に大規模な城砦が築かれたのは間違い無いのですが。

とりあえず、現存する三つの城跡と筆者が存在したと考えている北西の城で四方を抑え、それらの間の平野部、さらに山間部の一部を土塁で囲って巨大な防衛陣地としてしまったのが、この一帯なのです。ただし一般には白村江の戦いによる唐&新羅軍の侵略を恐れた、とされていますが両軍が南方から攻めて来るには有明湾から上陸するしかなく、あまり現実的ではないように思われます。
このため、700年ごろからは九州南部の隼人対策の城砦となっていたんじゃないかなあ、と思っております。実際、720年には九州南部で隼人の乱が発生してますし(これの鎮圧に向かったのが大伴旅人でこれが第一回大宰府訪問。武人なのよ、この人。ただし反乱途中で帰ってしまい、残された副将軍の二人が最終的に平定した)。

といった辺りを覚えて置いてもらったら、さっそく本篇に参りましょう。

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