■坂本の町

さて、いよいよ最後の訪問地、坂本地区とその西の日吉大社一帯&延暦寺に突入です。日吉大社と延暦寺については次回以降に触れるとして、今回は坂本地区について少し書いておきます。あらかじめ説明して置かないと後でエライことになりそうだからです。ちなみに今回の記事で信頼できる資料として参考にしたのは「信長公記」、「朝倉始末記」、「三河物語」、「フロイスの日本史」の四点です。

坂本と聞いても人類の99.8%が興味がない土地だと思いますが、実際は戦国期のハイライト、織田軍団VS浅井・朝倉連合の行方に大きく関わった土地であり、個人的に長年見たかった場所でした。信長による延暦寺焼き討ちはその流れの中で発生し、その結果、明智光秀が当時日本最強だったと思われる坂本城をここに築くのです。日本史にとって極めて重要な土地でありながら、ほとんど忘れられている土地、とも言えます。位置的には琵琶湖南西岸、山を超えた西側は京都の北部、という場所です。簡単な地図で確認すると以下の通り。

 

一帯で繰り広げられた戦いを理解するには1570(元亀元)年旧暦四月における浅井長政の裏切りを理解する必要があります。

この年の春、信長率いる織田軍団&例によってそれに巻き込まれた家康の徳川軍団は北陸の朝倉家をケチョンケチョンにするため琵琶湖の北、日本海沿岸の敦賀に出兵しました。ところが信長の妹の旦那にして同盟者だった浅井長政が突如裏切り、朝倉義景と結んで敵に回ってしまうのです。ちなみにその動機は未だに謎のままとなっています(義景は戦国最強のチキン野郎の一人であり信長と比べてこちらを選ぶ理由は何一つないと言っていい)。そして、この浅井長政の裏切りは北に進出した織田軍に深刻な状況を産みだします。浅井の本拠地は信長の岐阜城のすぐ北、小谷城であり、織田家は浅井に空き家に等しい本拠地の城を突かれる可能性が出て来たのです。

ちなみに浅井の裏切りによって退路を断たれた織田軍が包囲される危機に陥ったという説明をよく見ますが、そんなことはありませぬ。朝倉側の記録である「朝倉始末記」によると、浅井長政は後に賤ケ岳の戦いで柴田軍が陣取る事になる柳ケ瀬経由で敦賀に向けて軍を北上させました。これによって琵琶湖東岸に出る経路を塞いでしまったのは事実ですが、西の小浜から鯖街道経由で琵琶湖西岸に抜ける事は可能なままであり、よって織田軍はいつでも撤収できました。実際、出陣の時もこの経路で敦賀に出てますから、浅井に琵琶湖東岸を塞がれただけでは別に問題は無いのです。

この場合の問題は岐阜の近所、しかも関ケ原の直ぐ北に居る浅井によって織田の本拠地である岐阜を突かれる可能性が出てきたこと、そして関ケ原を抑えられると岐阜城、さらに徳川の浜松城(ちなみに岡崎城から引っ越したばかりか引っ越し中の時期に家康は呼び出された…)との連絡、補給が完全に断たれる事でしょう。さらに「朝倉始末記」によると浅井・朝倉連合軍は二万五千近い大軍で一気に敦賀地区を囲んだようです。織田軍の総数は不明ですが、敵地でこれだけの兵に囲まれた不利に信長は撤退を決意した、と見るべきでしょう。

いずれにせよ、若狭に居た織田軍団は急遽撤収する事態に追い込まれます。これはかなり慌ただしいものだったようで、「朝倉始末記」によると追撃戦で1353の織田軍の首を取ったと妙に細かい数字を出してます。ちなみに信長は援軍に来ていた徳川軍団にこの点を一切連絡しておらず、家康は殿軍として残った秀吉からの報せで初めて織田軍が消えてしまった事を知りました(三河物語)。となると、この犠牲者の多くは秀吉と家康の軍勢の可能性が高く、ホントに家康はよくぞ信長と同盟関係を維持したもんだと思います…。

余談ながら、織田軍側の記録によれば現地の金ケ崎城に秀吉が残された事(信長公記)、家康も置いてゆかれた事(三河物語)までは間違いないのですが、それ以上の記述はありません。対して「朝倉始末記」では敵はひたすら逃げるだけだったので追撃戦チョー楽勝、としてるので、どうも秀吉と家康は逃げるのが精いっぱいで、特に殿軍として華々しい活躍があった、というワケでは無さそうです。

信ちゃん怒りの連戦街道

当然、信長は激怒しました。
さらに逃げ帰った京都から岐阜に戻る時の事件が追い打ちを掛けます。この時、信長は裏切りの長政が抑えてる可能性が高い北の関ケ原周辺を避け、南寄りの最短経路、千草街道の峠超えを選んだのですが(後の安土城の東から鈴鹿山脈を超えて桑名側に出る街道。現在はほぼ廃道)、その途中で至近距離から火縄銃スナイパーに狙撃される事件が発生します。二発討たれながら命中せず、無事岐阜城に帰るのですが、これがさらに信長の怒りに火を注いだようです(信長公記。ただしこの狙撃に関しては浅井長政は無関係で、地元の豪族の手によるものだった)。ちなみに「信長ってば逃げ帰る途中で狙撃されたんだって」「えー、マジでえ、ダッサーい」という噂は当時かなり広がってしまい(「言継卿記」の五月二十二日にも記述がある)、これが信長の怒りに火を注いだと思われます。この結果、信長の頭の中は浅井長政殺す、絶対殺す、間違いなくぶっ殺す、死んでも殺す、死ななくても殺す、という事で一杯だったと思われます。

よって約二か月後の1570(元亀元)年旧暦六月、速攻で最初の小谷城攻めが行われるのです。そこから浅井・朝倉の両家が仲良く滅ぼされる1573(天正元)年旧暦八月に至るまでの三年間、信長の憎悪と野心は両者に向けられ続けました(その浅井・朝倉連合軍の救援に向かったのが武田信玄の西進であり、この結果、西暦1573年の一月、元号では元亀三年旧暦十二月という異常な厳寒の時期に発生したのが信玄 VS 家康の三方ヶ原の戦いだった。家康がケチョンケチョンにされたこの合戦も毎度御馴染み、家康にとっては織田家による巻き込まれ事故みたいな合戦の一つ。ホントに家康には大迷惑な同盟だったのだ。さらに後で述べるようにこの戦いの敗因の一つも織田家の家臣団の暴走である可能性が高い)。



旅行記初日に紹介した浅井の本拠地小谷城跡。手前の電波塔のある山は後に織田軍が攻城砦を造った虎御前山(攻防戦の終盤には秀吉がここに入った)。その奥のなだらかな山上に小谷城がありました。見れば判る通り難攻不落の地にある城であり、織田軍は徐々に浅井・朝倉連合の力を削ぎながらここを攻め落とすまで三年掛かる事になります。その「両軍の体力を削ぎ落す」ための戦いが展開されたのが、今回訪問する琵琶湖南西岸、延暦寺と日吉大社のある坂本一帯となるわけです。すなわち小谷城一帯から見ると完全に琵琶湖の対岸、水平線の向こうで浅井家の命運は決まった、という部分が少なからずあります。

この織田軍による最初の小谷城攻めは朝倉側の援軍もあり(ただし当主である朝倉義景は出てこなかった)失敗に終わるのですが、その直ぐ南にある横山城は落城、秀吉がこの城に入って以後の対浅井戦を指揮する事になります。ここから秀吉の栄達が始まると思っていいでしょう。ついでにこの最初の出兵の時に行われた姉川の合戦は戦国期を代表する合戦の一つとされてますが、実際は織田軍の主力は参加していませんし、勝敗もはっきりしないので(戦術的にやや浅井・朝倉優勢、戦略的には横山城を手に入れた織田軍の勝ち&とにかく腕力勝負なら徳川家圧勝という合戦)それほど重要なものでもありませぬ。

でもって、ここから坂本の戦いに至る歯車が回り始めます。
この小谷城攻めの直後、旧暦八月末に大坂の本願寺が浅井・朝倉連合に呼応して、紀伊の根来・雑賀衆を巻き込み兵を上げました。このため信長は再び織田軍団を率い、今度は大坂方面に乗り込み大規模な戦いを繰り広げる事になります。旧暦九月に入っても戦いは続き、最終的に九月十三日ごろから本願寺勢力が大規模攻勢に出て、激戦が展開されるのです(信長公記)。

そして、ここで浅井・朝倉連合が突如、動きました。
約三万と称する浅井・朝倉の連合軍は密かに琵琶湖西岸を南下、何の前触れもなく九月十六日に至って比叡山の麓、坂本の北部に出現したのです。信長公記の記述だと織田側はその動きを全く予期しておらず、完全に虚を突かれた形になりました。織田軍は本願寺勢の攻勢を受けて身動きが取れませんから、打つ手がありませぬ。

ここから予測される事態は二つです。一つは本願寺勢力と対峙中の織田軍の背後を突きこれを壊滅させる事、もう一つは直ぐ西側の京都に入ってこれを占領、織田軍の補給路と退路を断ち、かつ日本の中心地である京都を抑えてしまう事。どちらも織田軍にとっては致命的な事態であり、信長が迎えた危機の中で最悪の一つと言って間違いないでしょう。本来なら、ここで織田家の野望が終わっていた可能性は低くなかったと思われます。ヤバい、という点では信玄の西進なんてこの時の緊急度に比べればへのカッパにすぎませぬ(武田側は浅井領内に入るまで、ロクに補給ができないままの西進なのだ。長篠を目指したのは恐らく最初の補給のためだが、本気で織田を倒すなら最初から長篠経由で南下すべきで、はるか東の秋葉街道を経由したのは明らかに戦略的な大失敗である。信玄は信長に勝て無かったろう)。

ところがこの時、奇跡としか言いようが無い戦いがこの地で展開する事になります。それが坂本の戦いです。これもまた人類の97.9%が知らない合戦だと思いますが、森三左衛門可成(よしなり)指揮する千人足らずの織田軍が、三十倍近い兵数の浅井・朝倉連合軍相手に死を賭して戦い、時間を稼ぐ事で信長の危機を救った合戦でした。日本の合戦史上でも特筆すべき激闘の一つと言っていいでしょう。



三井寺の観音堂裏から見た一帯の図。手前のやや低い山の上、電波塔が建っている辺に織田側の宇佐山(志賀)城がありました。

ここは三の丸まで確認されている大規模な山城です。その奥の高い山が比叡山、その山頂一帯、東西のケーブルカー駅の間に展開する大寺院が延暦寺となります。いわゆる「お山」であり、当時は現在よりも盛大な規模だったでしょう。その比叡山の麓に延暦寺の支配下にあった日吉大社があり、その東の琵琶湖湖岸に、後ほど明智光秀が最強の水上楼閣、坂本城を建てる事になるのです。当然、この合戦の段階ではまだこの地に城はありませぬ。

宇佐山城はこの三井寺、すなわち大津から約3q、坂本までは約4qと、両者のほぼ中間に位置します。浅井の裏切りにより敦賀から逃げ帰った信長は琵琶湖西岸部を南下して来る朝倉軍に備え、ここに森可成の軍勢を予め入れて置いたのです。

その森可成は、浅井・朝倉連合の南下を知ると、最初から籠城戦を捨て、城に居た千人足らずの兵を率い北上します。三十倍の数の敵相手に、森は守りに入る気はさらさらありませんでした。この結果、二日後の十八日、坂本の北で浅井・朝倉連合軍の先遣部隊と接触、これを撃退してしまいます(信長公記)。これに対し浅井・朝倉連合軍は翌十九日に二方向から本隊が南下、これを見た森は坂本の町付近まで南下した上で防衛戦を展開します。ここでも三十倍近い数の敵に対して織田軍は頑強に抵抗し、大将である森を始めとする主な武将のほとんどが戦死するの引き換えに、ほぼ丸一日以上、敵の南下を食い止めてしまいました。ちなみにやけに戦死者数に細かい「朝倉始末記」によると織田軍は750人が討ち取られた、としています。

この時、信長の弟の一人である織田九郎信治も戦死している事が「信長公記」及び「朝倉始末記」に出てきます。この人は宇佐山城に入った記録が無く、坂本にある来迎寺に残る記録(来迎寺要書)には京都に居た時に浅井・朝倉軍の南下を聞き、二千の兵を連れて援軍に来た、とされます。ただし来迎寺の文章は江戸期のもので執筆年月日が不明であり、完全な信頼はできないので、この点は断言しないで置きます。織田家の人間とは言え、二千と言う数の兵をそう簡単に動かせたかは怪しい気がしますし。いずれにせよ、二千の兵が加わったところで敵は約十倍の数だったのです。

この坂本の合戦は十九日中には終わるのですが、ここで生き残った織田軍の残党は拠点である南の宇佐山城まで撤退し立てこもり、その戦いを続けます。最終的に城は落ちなかったようで、浅井・朝倉連合は抑えの兵を置くと二十日に大津に入り、翌二十一日にようやく逢坂の関を超えて山科に入りました。坂本周辺から山科までは約12q、軍隊の脚でも一日あれば進める距離なので、浅井・朝倉連合は丸二日以上の時間を失う事になったわけです。この時間の浪費が織田軍を救う事になります。

この時、大坂で本願寺勢相手に絶賛合戦中だった信長は現在の梅田の西側、海老江付近の淀川河口部に陣を張っていました。「信長公記」によると二十二日に浅井・朝倉連合軍が京都まで近づいた事を知り、先にこれを迎え撃つ事を決意、翌二十三日に軍の撤収を開始した、とされます。当然、そんな急に戦闘中の軍を撤収させる事は出来ませんから、森が坂本で時間を稼いでる間に戦線を整理した、あるいは敵の主な攻勢を撃退した、と見るべきでしょう。その織田軍は同日中に京都に入り(この時期から既に信長の宿営地は本願寺。というか本願寺の連中を叩きだして接収したその土地)、翌二十四日には速攻で浅井・朝倉連合軍迎撃に討って出ました。

この段階で浅井・朝倉連合軍は山科から坂本の町(下坂本)まで撤退しており、信長は一気にこれに襲い掛かりました。奇襲となったのか、両軍はまともな抵抗もせずに比叡山中に逃げてしまったとされます(信長公記)。なぜ二十一日の段階で山科にまで入っていた両軍が二十四日に坂本までまた戻ってしまっていたのかは全く説明が無いので判りません。この点は朝倉始末記にも何の記述もありませぬ。気に入らないけどケンカが強くて手が出せない近所のヤンキーを背後から殴ってやろうとしたら、あっさり気付かれて逃げだした、的な展開ですかねえ…。だとしたら戦国期でも稀に見る情けない戦いぶりですが…。

森蘭丸と弥二さん喜多さん

ここでちょっと脱線。

この坂本の戦いで時間を稼ぎ織田軍を救った森可成の息子があの森乱となります(いわゆる森蘭丸)。この点、蘭丸さんばかり有名ですが、森可成の息子の三兄弟、乱(蘭丸)、力、坊の三人が信長の側近として抱えられていました(全員、本能寺で戦死)。信長は恨みも深けりゃ情も深いという人なので、この三人を重用したのはおそらく可成への弔い、という面があったと思われます(上にもう二人兄弟が居るが長男は既に戦死、次男は家督を継いでいたので信長に仕えていない)。

ついでに言うと、蘭丸さんと信長さんは男色家として仲良しさん、という話は当時の記録には出てこず、この辺りは江戸期の怪しい書物が出典でしょう。戦国期は男色天国みたいなことを司馬遼太郎さんも書いてますが、そんな記録、私は見たことがありませぬ。男色天国だったのはむしろ江戸中期以降で、大衆にバカ受けの東海道中膝栗毛の弥二さん喜多さんの関係を見れば判るように、男二人組を見たら片っ端からBL天国だと思え的な印象すらあります。少なくとも日本最強の腐女子文化が栄えたのは21世紀よりも江戸中期から末期だと思っていいはずです。よってこの時代の連中は俺たちが男色なら戦国期の皆も男色だよね、と好き勝手なことを書いており、まあ、信用しない方がいいでしょう。少なくとも蘭丸さんが重用されたのは、その父に対する信長なりの恩返しであり、本人もある程度まで優秀だったからです。

ちなみに信長はこういった温情人事をやる事がままありました。ヤング信長を支えた織田家の重臣、平手政秀は後に長男が信長と不仲になり、しかもヤング信長のやりたい放題の生活ぶりに絶望して割腹自殺してしまったのですが、信長本人は強い恩義を感じていたようです。このため信長と不仲となった長男は別とし、その弟である平出甚左衛門を取り立て重用してました。

ついでながら、この平出甚左衛門は、後に信玄VS家康の決戦、あの三方ヶ原の戦いに織田軍からの援軍の大将として派遣され戦死します。この時は織田家の重臣筆頭、古参の佐久間信盛と同格の大将として送り込まれてますから、信長のお気に入りの武将だったと見ていいでしょう。

ちなみにこの点、前田利家の話を記録した「利家夜話」に興味深い話が出て来るので紹介しておきます。
合戦前夜に織田家の援軍は浜松城下の町屋に入っていたのですが、ここに家康が御礼にやって来ました。家康は織田家の家臣団、一人一人に礼を述べて歩いたのですが、運悪く大将格の平出への挨拶が最後の方になってしまいます(建物の一階から挨拶したため二階に居た平出は後回しになってしまったらしい)。これを見た平出はヘソを曲げて挨拶を受けず、オレは端武者に過ぎんよ、と三味線を鳴らして小唄を歌って家康を困らせた、とされます。
さらに凄いと言うか呆れたことに、実際に戦が始まると平出は突然、自陣から走り出て武田の陣地に突入してしまうのです。この時は同じ織田家の大将格、佐久間からも家康からも、大将が何やってるんだ、戻れという伝令が出たのに「大将は皆さんでやってくれ、オレは端武者に過ぎんから」と無視、そのまま武田軍の陣地に突入、本当に討ち死にしてしまいます。これだけが敗因では無いでしょうが、いきなり陣形を崩して平出が突入してしまった事が徳川軍に不利に働いた可能性は高く、迷惑であったろうなあ、と思われます。

この点、徳川側の記録である三河物語には平出は討ち死にした、とだけあって突出に関する記述はないのですが、前田利家は織田家の中心部にずっと居た人物ですから、ある程度まで信用できる話かと思います。

さらに言うと、どう見ても性格に難があると思われる平出甚左衛門を信長はかなり気に入っていたようで、その戦死の報を受けると極めて不機嫌となり、家康にウチの甚左衛門を返せ、と無理難題を吹っ掛けたと「利家夜話」にあります(ただし負けた家康に金子を送って見舞っても居る)。まあ、ホントに家康によっては迷惑千万な同盟だったんですよね。さらについでに、一緒に大将として出ていた織田家の重臣、佐久間信盛は後に信長に疎まれて追放の憂き目に会うのですが、その佐久間を追放する理由とされた罪状の一つに、この時の平出の戦死が上げられてます。前田利家によると平出の暴走による戦死ですが、信長はこれを佐久間が捨て殺しにした、と責めているのです。佐久間は織田軍団の中ではいろいろ微妙な人物ではありますが、この点はさすがにちょっと気の毒ですね…。


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