さて、2021近江の旅、ようやく二日目に突入ですが、再度、各地の位置関係を。
初日は新幹線で米原に到着後、一帯の北限である賤ケ岳&余呉湖を回り、長浜経由で米原に帰還、そのまま隣町の彦根に入って終わったわけです。

今回から始まる二日目は往復行程が無いので、直線で50qを移動しながらの観光となります。



とりあえず彦根城を見学し、そこから南下して信長さんの自宅、安土城を訪問、そしてかつてのびわ湖の要衝、瀬田(勢多)の唐橋を見てから滋賀県の県庁所在地にして三井寺の街、大津に入って終わります。はい、今回もベラボーな情報量です(笑)。

ついでに、今回はその跡地を見に行けませんでしたが、琵琶湖岸を通る古くからの街道、中山道を抑えるために浅井家が築城したのが、彦根の街の東側にある山城、佐和山城です。ここには織田家が近江を抑えた後、外様ながら信長の家臣団で最も高い地位に付いた軍団長の一人、丹羽長秀が本拠地とし、後に秀吉が天下を獲るとこれも秀吉子飼いの石田三成が入りました。どちらも政権中枢で最も信頼されていた人物であり、それだけ重要な拠点だったわけです。

そして徳川時代に新たに琵琶湖岸に築かれた彦根城もまた徳川三傑の一人にして家康の信頼が厚かった政治屋、井伊直政が築城し、その本拠とした城でした(本人は完成前に死去している。関ケ原の合戦で受けた傷が悪化したとも)。

こういった人材がここに置かれた理由は、かつては松原内湖と呼ばれた琵琶湖から砂州で区切られた湖面が一帯に広がり、その東側にすぐ山地が迫っていた地形からでしょう。ここを抑えてしまえば、京都から名古屋、そして江戸に向かう街道筋を完全に抑えてしまえるのです(草津から鈴鹿経由で名古屋方面に抜ける東海道は山道で大軍の移動に向かない)。すなわち戦略的には極めて重要な拠点でした。

そして、この地に入った井伊直政は佐和山城を廃城にし、わざわざ1.5qほど離れた西の小山の上に彦根城を築き直します。これは佐和山城が徳川の敵、石田三成の城だったからと言われてますが、実際の理由はそれだけでは無く、織田&豊臣時代に街道筋が西に動いたからでしょう。

地図で判るように古くからの街道、中山道は彦根の東側、山地の奥の谷間を通過しており、古くからの佐和山城はこれを抑える地に建っています。ところが湖面大好き琵琶湖マニアの織田信長はこの中山道を無視する形で、琵琶湖岸の山の上に安土城を建ててしまったのです。同時に秀吉が拠点とした長浜も街道から外れていました。

このため、信長は関ケ原を超えた後、長浜経由で安土を通り、中山道と東海道が合流する草津まで抜ける新街道を造ってしまいます。これがいわゆる朝鮮人街道ですが、この名が付いたのは江戸期以降で、当時は別の何で呼ばれていた居たはず(信長公記には造成の記録だけで名が出てこない)。

ではさっそく二日目の旅行記に入って行きませう。

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