というわけで、チョー高級住宅街&海空軍本部&故蒋介石閣下の自宅&台湾最高級ホテル圓山大飯店のある士林地区東部に存在する公園にやって来ました。

その名も八二三砲戦記念公園。七五三の親戚みたいな名前ですが、これは1958年8月23日に始まった金門島砲戦を指す名称。前回も触れたように金門島は本土から10q前後の距離ですから、余裕で大口径砲の射程内だったので、共産中国側が金門島に砲撃を加えたもの。
ちなみに朝鮮戦争も韓国では開戦日にちなんで六二五戦争と呼んでるので、中華文化圏ではこういった命名が流行ってるんでしょうかね。

朝鮮戦争が終わってヒマになった中国共産党が厦門の眼前に刺さったトゲ、台湾が支配する金門島でも獲るか、と始めたのがこの紛争でした。
が、台湾側をアメリカが全面支援したのに対してソ連はフルシチョフが中国嫌いだった事もあり、ほぼ静観の態度に終始、孤立した中国側の事実上の敗北に終わるものでした(まだスターリンが生きてた朝鮮戦争では中国に対し一定の支援をしている。ただしスターリンは乗り気ではなかった。あれは北朝鮮を前に押し出した中国の戦争)。
もっともソ連が支援したところで彼らとて敵前大規模上陸能力、そして制海権確保能力なんて持ってませんから、結局、どうする事もできなかったのですが。



この紛争でアメリカ海軍によって制海権を抑えられた(空母7隻を投入して来た)共産党軍に出来る事は事実上何もなく(中国軍は国家の軍ではなく共産党の持つ私設軍隊である)、結局、中国本土から金門島をイヤガラセのごとく砲撃して終わります。ただし空中戦だけは結構派手に行われました。

ここに展示されてるのは当時の台湾空軍主力戦闘機だった…とされる(笑)、F-86。実際はおそらく別物なんですけどね。
紛争が始まる4年前の1954年から、当時はまだ最新鋭機だったF-86のF型をアメリカは台湾空軍に供与してました。最終的に320機前後が供与されたとされます。かなりの戦力と見ていいでしょう。

ただし展示の機体は水平尾翼が分割された初期のA型で、おそらくここに展示するために後年、アメリカあたりで購入した機体ではないかと思われます。先行してA型が供与されていて、それがたまたま残っていた…という可能性も否定はせきませんが、タイ空軍ならともかく、台湾はそこまで物持ちは良くない気がします。

ちなみに台湾砲撃戦の時にアメリカ空軍は台湾本土防衛用にF-104を派遣したようですが、実際に中国のミグ15&17と戦った(一部は中国製のライセンス生産機。この時期はまだ無断コピーではない(笑))のは全て台湾空軍のF-86でした。

ただし両者とも中国系の皆さんなので、まともな交戦記録を残してないと思われ、その実態は永遠に謎のままでしょう。それでも台湾の新聞、台北時報などの回顧記事を見ると数十機単位の空戦が行われていたとされており、意外に大規模なものだったようです。最終的に台湾側は数十機のミグ撃墜を主張してるようですが、詳細は不明。

そしてよく知られるように、アメリカ海軍が赤外線誘導ミサイル、サイドワインダーを持ち込んでF-86に強引に搭載、実戦テストをやったのもこの時です。これによって世界初の赤外線誘導ミサイルによる撃墜記録が生まれたのですが、少なくとも一発以上が不発のままミグのケツにささってしまって中国側に回収され、これがソ連の赤外線誘導対空ミサイル、R-3(西側呼称 アトール(Atoll))の元ネタになったのもまた事実でした。

ただし、この時期の中国とソ連は毛沢東とフルシチョフが対立を始めたころで、この回収サイドワインダーの引き渡しにもひと悶着がありました。これが、あんだけ世話したのに恩知らずな奴らだとフルシチョフを激怒させ、後にソ連の軍事顧問引き上げと技術援助打ち切りに繋がります。

そして、この台湾砲戦は二か月後の10月には事実上の休戦になるのですが、散発的な砲撃と空中戦は以後も何度も発生してました。砲撃の方は単なる脅しで、無人地帯を狙った意味のないものでしたが、空中戦の方は1967年1月まで撃墜される機体が出るほどのものが続いてます。

このため、中国の共産党軍と並んで、東アジアではもっとも実戦経験豊富な空軍なのが台湾空軍だったりするのです。
この辺り、当時のパイロットの回顧録とかいろいろあって興味深いのですが、私の中国語力ではとても読めんので、だれか邦訳出版してくれませんかね。個人的には王立驍ウんの 「飛行員的故事」が気になっております。これで中山さんの「中国的天空」の続きを補えると思うんですけど。

ついでに最後の空中戦となった1967年1月13日の戦いでは台湾空軍はいいようにアメリカから押し付けられた新型のF-104を投入、ミグ19を2機撃墜、同時にF-104を1機損失した、とされます(双方の参加機数は不明)。これが事実なら、世界で唯一、F-105以外のセンチュリーシリーズによるミグ撃墜となりますが、中国側の記録が無いので、ホントに堕ちたのかは何とも言えませぬ。逆に台湾側が1機のF-104を失ってるのは間違いないのですが(厳密には目撃者が居ないので被撃墜ではなく行方不明扱いになってるらしい)。



こちらは陸軍の装備、M 59 155mm 野砲。
ちなみに大口径砲の日本語の分類、英語の分類、ドイツ語の分類を比較して表記を統一しようとすると、えらく面倒な事になるので長砲身の高速砲が野砲、短砲身の低速砲が榴弾砲でよかろうという事に当サイトは判断しております。夢のドリーム、夏のサマーのごときカノン砲って命名は一体なんだよ、って感じですしね。

金門島砲撃戦では台湾側も当然、撃ち返してるのですが、当初は一方的にやられてるので、どの段階でこれが装備されたのかはよく判らず。砲撃開始から10日以上経った9月に入ってから、米軍がM115 203o榴弾砲を台湾に供与、ここから本格的な反撃が始まったのは間違い無ようなので、このM59の投入もその前後だと思われるのですが、確認できず。ちなみにこの155oでも20q以上は砲弾を飛ばせますから、余裕で対岸を砲撃できるのです。

ちなみに金門島海戦は、羽田空港から浦安の黒鼠王国を砲撃する、伊丹空港からUSJを砲撃する、那覇空港から普天間基地を砲撃するような距離と思ってもらえばほぼ間違いありませぬ。そのくらいの距離で殴り合うのが大口径野砲の戦いなのです。

つーか、ここは普通、反撃の要だった203oのM115を展示するところじゃないの、と思ったり。



横には砲弾の展示も。
左から照明弾、黄燐煙幕弾、榴弾。155oでも煙幕弾あるんだ、と知る。頭部についてる銀色の部分は信管。
煙幕は明確に区別がつきますが、榴弾と照明弾は見た目は一緒です。実際そうなのかどうかは知りませんが…。
ちなみにこのサイズになると薬莢は無く、装薬(砲弾を撃ち出す火薬)は戦艦主砲と同じく布の袋に入った物を使います。最初にこの砲弾を砲尾から装填、その後、装薬の袋を詰め込んで発射となるわけです。



でもって海軍からはこちら。L60 40o 機関砲。
いわゆるボフォースの40oで、これもアメリカから供与されたもの。第二次大戦以来の世界標準の対空機関砲。アメリカ海軍の対空機関砲と言えばこれ、という感じですから、艦艇供与も受けていた台湾海軍も使っていたのでしょう。。

ちなみに金門島砲戦でも対空砲によって中国のミグが複数撃墜されている、との事なのでやはり航空機に取って一番怖いのは地上の対空兵器なんだろうな、という感じでございます。



こちらにも40o弾の展示あり。全て炸薬弾のようです。
 


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