さてホンダが初めてコンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲る事になる1987年のシーズンは、1985年から86年にかけての大混乱に比べると正常進化の中で始まります。

同時に日本のF-1の歴史は事実上この年から始まりました。
具体的には初の日本人ドライバーである中嶋悟選手のデビュー、全戦TV中継の開始、そして鈴鹿での初GP開催がこの年だったのです。この結果、翌年にかけて一気にF-1大ブームが始まります。ちなみに1970年代に富士スピードウェイで二度、日本でのGPが開かれてますが、正直、いろいろアレで、興業的には失敗に終わっていました。対してこの1987年以降の鈴鹿はは大成功となるのです(ちなみに2007,2008年のみ再び富士スピードウェイ開催になったがまた失敗して撤退…)。

また、ホンダの体制はこの年を境に大きく変わります。
まず設計者でありエンジン開発チームの責任者だった市田さんが第二戦サンマリノをもってチームから引退、宮野英世さんが開発チーム責任者の地位を継ぎます(宮野さんは後に省エネ型VTEC、VTEC-Eの開発プロジェクトリーダーを務める人)。これで黄金期期の基礎を造ったエンジン設計者である市田さんはレースの現場から離れる事になりました。

さらにホンダのF-1の歴史を変えた桜井「総監督」も、自らの意思でこの年をもって責任者から身を引き、ホンダのF-1黄金期の始まりの時代が終わる事になります。ちなみにその後任は現場監督だった後藤治さんで、彼は1987年にはロータスでセナの車のエンジン責任者も兼任していました。

そしてウィリアムズの抱える問題、ピケとマンセルの不仲、タイヤへの負担の大きい車体、という問題もほぼそのまま1987年に引き継がれます。ドライバーの対立とホンダとウィリアムズのギクシャクした関係から、マンセルがホンダはピケを贔屓して出力の高いエンジンを彼に回してる、と言いだしたのもこの年です。
さらにそれに加えて大きく以下の二つの問題が登場します。

■ターボエンジンが1000馬力を超えるという狂気の世界に入って来たので出力規制が掛かった。しかもここにホンダエンジン潰しという厄介な要素が加わり、問題は単純では無かった。

■ウィリアムズに加えて、ロータスにもエンジン供給が始まった。これによって従来の倍の数のエンジンが必要になった。


まずは最初の問題から。
ターボエンジンの馬力を抑える問題は前年1986年のシーズン前半から検討されており、この1987年から規制が適用され始めます。

ちなみに前年、1986年がターボエンジンのみの運用になったのは、自然吸気エンジンの排気量を従来の3000tから3500tに拡大する事が急遽決まり、その移行期間として1年間、新型自然吸気エンジン開発のための時間を取ったものでした。
これはターボエンジンに対抗する出力を与えるための処置だったんですが、3500tに拡大された自然吸気エンジンが登場した1987年も、ターボ最終年の1988年もターボエンジン以外の車は一度も勝っていません。そこまで決定的な差がついてしまっていたのです。この予想以上のターボエンジンの高馬力化のため1988年で1500tターボエンジンは廃止、1989年以後は3500t自然吸気エンジンのみでF-1は戦われる事になりますが、この辺りの決定にはいろいろな問題が絡んでました。

ただし現実的に見てターボエンジンの1000馬力はほぼ狂気でした。ほんの5年前までF-1の主力だったフォード・コスワースDFVエンジンはどんなにがんばっても500馬力前後でしたから、わずか5年で倍の馬力になってしまった事になります。この間に、車体モノコック構造もアルミハニカムからカーボンファイバーになり、ブレーキもカーボンディスクが登場して安全性は進化していたもののエンジン出力を地面に伝えるタイヤはそこまで進化してませんでした。しかも地面効果を使ったウィングカーなどは禁止になってます。
このためカーブなどでタイヤがすぐに滑り、確かに危険ではあったのです。前回見たように1986年のFW11についてマンセルが述べたように「コーナーを曲がるたびに車はドライバーを殺しにかかる」世界だったのでした。

ただし、この辺りの規定も例によってかなり頭が悪く(笑)、エンジンパワーが上がって危険なはずの1987年に最低車両重量の規定が540sから500sに落とされてます。エンジン馬力がデカくなってるのに、車重を落したら加速が強烈になり危険だと思うんですが、この変更理由はよく判りません。ちなみに当然のごとく翌1988年には540sに戻されてます。以後、2004年に605sに増量されるまで、この最低重量540sは維持されました。

とりあえず問題はどうやってターボエンジンの出力を落すか、なのですが最終的に過給圧を規制する事に決定します。ターボ、すなわち排気タービンは大気を圧縮して大量に気筒(シリンダー)に送り込むことで大きな出力を得ているので、その過給圧を通常大気圧の4倍まで、すなわち4bar(バール)≒4気圧≒405kPa(キロパスカル)までに限定したのです。

市販車風に言い換えると、約4.1s/㎠ であり(日本式に大気圧を加算しないなら約3s/㎠ )、チューニングされた市販車ですら2s/㎠ 前後(同じく約1s/㎠ )であることを考えるとかなりの高圧に思えますが、ホンダは規制なしの1986年には最大5bar、約5.1s/㎠ まで過給圧を掛けており、確かにその数字は落ちていたのです。

ただしその程度ではターボエンジンの馬力は思ったほど低下せず、翌1988年にはさらに規制は厳しくなり、大気圧の約2.5倍、2.5bar≒2.5気圧≒253kPaとされてしまいます。その条件下でもマクラーレン ホンダは16戦15勝しちゃうんですけどね(笑)。



ターボエンジンの過給圧規制にのために採用されたのが規制弁(Pop off valve)でした。
写真の矢印先についてる筒状のものがそれです。1987、88年のF-1ターボエンジだけに見られるこの規制弁、ポップ オフ バルブは過給圧が4気圧(1988年は2.5気圧)を超えると自動的に開いて圧を抜いてしまいます。ちなみにあくまで過給規制用のバルブですから特殊なもので、通常の排気タービンに付いてる過給圧調整用の開放弁(Blowoff valve)とは別物です。そもそもPop offは死ぬ、という意味ですから、直訳するなら致死バルブ、規定値より上の圧力は死すべし、という変な名前でもあるのです。

ところが1987年当初、各チームに配給されたバルブは完全な不良品で(笑)4気圧どころか3.2気圧くらいからバンバン開いてしまうものでした。これでは4気圧ギリギリまで過給するように工夫していたホンダのターボエンジンはたまったものではありませぬ。すぐにコイル・スプリングの欠陥だと気が付いたホンダは当時F-1のルールを取り仕切っていたFISAに抗議するのですが、フランスの狂人、ジャン‐マリー・バレストル(Jean-Marie Balestre)会長が率いる組織ですからまともに対応されませんでした。

これに激怒した桜井さんは(そもそもバレストルとは犬猿の仲だった)1987年の第一戦ブラジルGPで市田さんをFISAの事務局に送り込み、FISAがやらないなら、ホンダがその改善を担当する事を認めさせます。ただし最終的にはFISAが第二戦サンマリノGPによりスプリングを強化したバルブを用意し、3.8気圧くらいまでなら開かなくなり、一定の解決を見ました。まあ、それでも4気圧以下で減圧開始されちゃったわけですが…。

このような1987年に始まる過給圧規制、そして最終的に1989年からターボエンジン廃止となったのは、あまりに高馬力で危険すぎるというのが大義名分で、確かにそれは一面で事実でした。ただし同時にヨーロッパのチームとエンジンで回っていたF-1で大きな力を付けつつあったよそ者、日本のホンダを締め出す、少なくともその戦闘力を奪う目的もまたあったのもほぼ事実だったのです。この辺りも少し見て置きましょう(ちなみにフォード・コスワースはフォードの名が付いていても実際はイギリスのメーカーだったし、そもそもイギリス最大の自動車メーカーは大戦前から現地に進出していたフォードだったので違和感が無かった)。

とりあえずターボの高馬力化が進み過ぎて危険だったのは確かであり、最初の話し合いが1986年6月、カナダGP予選前の13日の金曜日(笑)に行われました。主催したのは当時のF-1ルール策定を担当していたFIAの下部組織、国際スポーツ自動車連盟、FISA(Fédération Internationale du Sport Automobile  後1993年に解散)で、10社前後のレースエンジンメーカー担当者が会議に参加、その中にはホンダの桜井さんも入ってました。議題は“ターボエンジンの馬力規制”で、ターボエンジンに650馬力程度の馬力規制を掛ける、代わりに燃費規制を撤廃する、というものでした。

燃費規制撤廃が入ってる辺り、この段階からホンダ潰しの匂いが無くはないのですが、その趣旨は基本的にスジが通っていました。そしてあくまで出力規制の問題であり、ターボエンジンの廃止までは踏み込んでません。ただし燃費でも馬力でもトップクラスだったホンダは何も得るものが無いので反対(そもそも桜井さんは純粋な技術競争を阻む規制そのものに反対だった)、この時は出力規制という露骨な数値設定にフェラーリも反対(ちなみにエンツェオ・フェラーリは存命中)、この話は一度立ち消えとなりました。

ちなみに会議のきっかけは5月にブラバム・BMWのエリオ・デ・アンジェリス(Elio de Angelis)がテスト走行中に事故死した事でした。
これがBMWターボエンジンの高馬力の危険性による、との理由だったのですが、実際は走行中に突然リアウィングが外れ、後輪の接地圧を失って吹っ飛んだもの、すなわち車両の整備不良、または設計ミスによる事故でした。ターボエンジンは無関係なのです。

さらにドライバーの死因も直接事故によるものでは無く、消火剤を大量にかけられた上でシートに放置されたための窒息死でした。なのでブラバムチームとフランス人のサーキット運営のまずさによる死亡事故だと断定していいものですがターボエンジンの出力規制を行いたいと考えていたFISAとその怪鳥、否、 会長にしてモータースポーツ史上有数の狂人の一人だったフランス人、バレストルはこれを利用してその規制策定に乗り出したのです。

この辺りまでは一応、ターボエンジンが危険なほど高馬力になってしまった対策、という事だったのですが、その後7月のフランスGPからウィリアムズ・ホンダが4連勝を決め、8月までの12レースで7勝してしまう強さを見せつけた辺りから風向きが変わります。日本のホンダはヨーロッパのエンジンメーカーと違って得られる情報も少なかった中、9月になって突然、FISAがターボ廃止を含めた規制案を発表するのです。ホンダは寝耳に水だったのですが、すでにフェラーリを含めた他の全メーカーは賛同済み、との事になってました。

その内容は1987年からターボエンジンには規制弁(Pop off valve)を付けて過給圧を最大4気圧までとする、燃料規制は撤廃する、さらに1989年からはターボエンジンは廃止とする、というものでした。燃費、過給圧の技術でトップを走っていたのがホンダなのは誰もが知っていましたから、もはや露骨なホンダ外し、と見ていいでしょう。それでもバレストルは不安でならず、最終的にはターボエンジンの廃止にまで踏み込んでしまったのです。



1986年のウィリアムズ・ホンダ FW11は未だにいろいろな問題を抱えながらも何度もその速さを見せつけました。このホンダの脅威がヨーロッパ人たちを怯えさせ、その結果、ターボエンジンの吸気圧規制、最終的にはターボエンジンの廃止にまで繋がったと言えます。そのヨーロッパの皆様方の勘、日本人がF-1を支配する、という恐怖は完全に正しかったのですが、1986年の段階でそのための規制に動きながら、その後5年間に渡りホンダエンジンがコンストラクターズ&ドライバーのチャンプを独占する事を全く防げなかったのです。この辺りに関しては、完全なマヌケ、という形容がふさわしいかと思われます。

ただし桜井さんもやられて黙ってる人ではありませんから(笑)、この通達に激怒、9月7日イタリアGPに備えてヨーロッパに飛ぶとそのままパリのFISA本部に乗り込みます。そこでバレストル会長に直談判に及び「規制は公平な競争を阻害し、技術的な進歩を否定している」「そしてホンダに無断で決定したのはなぜか」と詰め寄ったのです。

この時、バレストルは建前論で逃げようとしたものの、桜井さん相手にそれが通じるわけはなく、最後は激高して「F-1はヨーロッパのモノだ。我がフランスのルノーが勝てないのにホンダばかり勝つのはおかしい」と感情論に走り、最後は「F-1はヨーロッパのものだ。イエローが居なくなっても問題はない」とまで言い出しました。まあ典型的なヨーロッパの馬鹿ですね。事がここに至って桜井さんは席を蹴って出て行ってしまい、話し合いは平行線で終わりました。

ちなみに当時の日本の報道だと桜井さんが机を叩いて大声をだし、バレストルを脅したという話があったのですが、後に本人が書かれた例の本、「ゼロからの挑戦」の中で、これを否定しています。ただし、実際は紳士的な話し合いだったのだ、というような事ではなく、私だけじゃなくてバレストルだって机をたたいたぞ、という内容で(笑)、少なくとも穏やかな話し合いでは無かったようです。

そしてそれで黙って引き下がる桜井さんでは無いので、その足でロンドンに飛び、F-1に参加する各チームによる組織、FOCA(Formula One Constructors Association 翌1987年にFOAに全権委託して事実上解散)のイギリス人会長、バーニー エクレストン(Bernard Charles Ecclestone)に面会を求めます。

FOCAは当時、主にTV放送権や商業面でF-1を管理していた組織で、ルール策定の決定権は持ちませんが実際にレースをやってるチームによる組合ですから、その影響力は絶大でした。そしてウィリアムズとマンセルの居るイギリス人であり、FISAのバレストルとはF-1の興業権を巡って泥沼の戦いを経験していたFOA会長のエクレストンは桜井さんとの話し合いに応じたのです。

ちなみにエクレストンはあのブラバムチームを買い取り(ブラバム本人からではなく、跡を継いでいたトーラナックから)徐々にF-1全体に影響力を強め、F-1全体の面倒を見る組織の頂点に就いた人物であり、その後も21世紀に至るまでF-1界の頂点に居た一人です(87年までは引き続きブラバムのオーナーでもあった)。実業家としても成功していた彼は現実的な人物ながら金には汚くいろいろ黒い噂も多いのですが、その手腕は確かなものでした。

最終的にこのエクレストンとの話し合いで、1989年に3500cc 自然吸気になっても複数のチームにエンジン供給を続けるなら、ホンダが一方的に不利となる条件を取り消す、という取引が成されます。当時は各メーカーの3500ccエンジン開発に不安を抱えていたので、参加チームに行き渡るエンジンが減らないように、という配慮です。

この話し合いの結果、エクレストンが手を回し、10月3日に新たなFISA規定が発表となります。とりあえず4気圧の過給圧制限と1989年からのターボエンジン禁止は動かなかったものの、一方的にホンダに不利となる燃費規制解除は中止になり、燃費面でのホンダの優位は保たれました。実際、これがターボエンジン最後の2年間で大きく意味を持つことになります。
ちなみに桜井「総監督」時代のホンダは翌年の新型エンジン設計にあたり必ず馬力と燃費の二つの数値の改善目標を設定してました。ここからもいかにホンダが燃費を重視していたかが判ります。同時にレースは馬力だけじゃ勝てない、という事でもあります。

ついでにこの会談の時、桜井さんが出した条件はホンダがF-3000エンジン開発で協力していたイギリスのジャッド(Judd)がF-1への参戦を望むならホンダはこれに協力する、というものでした。ジャッドはホンダのヨーロッパF-2制覇時代にラルトのトーラナックを通じてホンダと関り、レース用エンジンのチューニング、整備を請け負っていた会社です。その後、ヨーロッパF-3000用のエンジンをホンダと共同開発していたのです(実質的にはほぼホンダの開発)。ちなみにホンダの恩人、ジャック・ブラバムが会社の設立に関与しており、その縁でもありました。

そのジャッドがF-3000に提供していたジャッドBVはホンダが開発したエンジンですが、これを改良して3500t F-1用にしたのがジャッドCVエンジンとなります。この時の桜井さんの約束が事実ならホンダはこのエンジンの開発にも関わっていた事になりますが、詳細は確認できませんでした。ちなみにジャッドのCVはホンダが手を切った後の1988年の一年間だけウィリアムズが使ったエンジンでもあります。このホンダの黄金期とジャッドの関係は意外に知られて無いので、調べてみる価値はありそうですが…

ただし桜井さんはこれだけの判断をさすがに独断で進めるのに不安を感じ、イタリアGP終了後に帰国するとF-1番長 川本さんに相談に向かいます。ホンダとしては1986年のコンストラクターズチャンピオンは取れそうだし、ここまで露骨にホンダ潰しをやられたなら撤退するのも手である、と思ったからでした。ただし撤退してもヨーロッパのエンジンメーカーが喜ぶだけだし、川本さんも結論が出せませんでした。どうするかと悩んだ二人は結局、ホンダのF-1の総本山、まだ元気だった本田宗一郎総司令官に相談する事に決めるのです。

一時は和光の研究所にほとんど顔を出さなくなっていた本田宗一郎総司令官ですが、F-1への参戦が始まるとレースがあった後にはほぼ必ず報告を聞きに来たようです。1986年のイタリアGPはピケとマンセルのワンツーフィニッシュでしたから総司令官はゴキゲンで研究所に現れます。そこに桜井さん、川本さんが事情を説明して相談を持ち掛けたのです。この時、桜井さんが最初に新たな規制とターボエンジンの廃止について説明していると総司令官は、話を遮って質問して来ます。

「その新しいレギュレーションは、うちのエンジンだけに適用されるものなのか」
驚いた桜井さんは、いや、もちろん全てのチームに対してです、と答えるのですが、それを聞いた総司令官は大笑いし言い放ちます。
「やつら相当な馬鹿だなあ。レギュレーションをどう変えたってうちが有利になるだけじゃないか。こりゃチャンスだ。それでなんだ、エンジンを早くつくりゃいいということなんだろう?」
「はい」
「で、相談というのは何だ?」
「…いや、別に」

これで参戦続行が決定、以後のホンダエンジン黄金期が出現する事になります。本田宗一郎総司令官、恐るべしでしょう(笑)。


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