今回は、もう少し詳しく第二期ホンダ大躍進の土台となった年、1985年について見て置きましょう。

この年までウィリアムズのエースは相変わらずロズベルグでしたが、その相棒となるセカンド・ドライバーはフランス人のラフィ―(Jacques-Henri Marie Sabin Laffite)から、イギリス人のマンセル(Nigel Ernest James Mansell)に変わってました。ラフィはグランプリ6勝の記録を持つ、それなりの腕を持ったベテランF-1ドライバーでしたが、すでに40歳を超えており前年までの戦績もパッとしませんでした。このためウィリアムズチームと同国人であるイギリス人若手ドライバー、マンセルがこの年からシートを得たわけです(と言っても遅咲きだったのですでに29歳になっていたが)。

マンセルはホンダと不思議な縁のあるドライバーで、1980年、最初のラルトホンダ F-2のドライバーを務めたのが彼だったのは既に書いた通り。その後、F-1のロータスチームに移籍しながらパッとしないままだったのです。それが移籍初年度にウィリアムズ ホンダで初優勝を決めると翌年から大活躍を開始します。そしてF-1ドライバーとしての最終年、1992年にルノーエンジンを搭載していたウィリアムズで初のドライバーチャンピオンを獲得、同時にホンダの第二期F-1最終年度を無冠で終わらせる事になるのがこの人です。

ちなみにマンセルの移籍はウィリアムズが積極的に獲得した、というより彼が前年まで4年間所属していたロータスから放出された、という面が強く、あくまで二線級のドライバーという存在でした。当然、この段階までまだ一勝もできてません。彼がこの後、7年に渡りF-1のトップドライバーの一人になり、通算31勝(2020年現在歴代7位。一度しかドライバーズチャンピオンを獲ってないドライバーとしては最多)を獲得、最後はドライバーズチャンピオンにまでなるとは誰も考えて無かったと思われます。

闘争心の塊であること、アクセルを踏める限り踏みまくる、止まる時はベタ踏みでブレーキを掛ける、そしてハンドルでねじ伏せるように車を旋回させる、という豪快な運転で、個人的には好きなドライバーの一人です。かなりの気分屋ですが、意外に努力の人ですし。

そのマンセルをロータスから追い出したのがブラジル人天才系ドライバーのアイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva)でした。
後にマクラーレン ホンダで三度のドライバーズ チャンピオンとなる天才、あのセナです。セナはこの後、ウィリアムズからマクラーレンにホンダエンジンを持ち去る形になったので(実際は桜井さんがウィリアムズチームの闘争心のなさに嫌気がさしたためだが)、マンセルの闘争心に火をつけ、両者は有力なライバルとなります。

この辺りの事情が1991年(セナが三度目の最後のチャンプに)、92年(マンセルが最初で最後のチャンプに)の両者の壮絶な戦いの伏線になりました。伝説の1992年のモナコGPの戦いとかは絶対に負けたくない両者の最後の死闘だったわけです。
ただし、意外と両者の仲は悪くなく、それこそラウダ以外の全てのチームメイトと敵対関係だったとすら言えるプロストなどに比べると、セナもマンセルもまだ常識人だった、と言えます。F-1のドライバーズチャンピオンを獲るには多少、人格崩壊してるくらいじゃないと無理ですしね。

そもそも、その闘争心と血の気の多さを別にすればマンセルは意外に普通の人で、勝つためなら献身的な貢献も全くいとわない姿勢から(シーズン中でもエンジンテストのため日本に飛ぶのを嫌がらなかった)、後にホンダのチームから強い支持を受けました。特に土師さんの跡をついで現場監督となった後藤さんはマンセルを強く支持していたとされます。そして移籍初年のこの年の第14戦 ヨーロッパGPで彼は初優勝を遂げると次の第15戦 南アフリカでも連勝、一気にその才能を開花させるのです。

ついでにその運転スタイルはアメリンなフォーミュラーレース、CARTにも向いていたため、F-1でチャンピオンとなった翌1993年にはあっさりそちらでもチャンプを獲っており、二年連続で異なるフォーミュラーレースでチャンプを獲ったという珍しい記録も持っています。後に1995年のCARTチャンプ、ヴィルヌーブが1997年のF-1チャンピオンになる、という逆コースもありましたが、この時は中1年あいてました(ちなみにCARTは後に消滅、現在のインディーカーレースがその後継になるのだがこの辺りの事情はF-1以上にドロドロの利権と政治的な動きが絡むので詳細は触れずに置く)。

さて、ここで1985年のウィリアムズ・ホンダの戦績を再確認しておきましょう。

GP  ケケ・ロズベルグ  ナイジェル・マンセル 
1.ブラジル 4/7  リタイア  リタイア
2.ポルトガル 4/21  リタイア  5位
3.サンマリノ 5/5  リタイア  5位
4.モナコ  5/19  8位  7位
5.カナダ 6/16 *新エンジン投入  4位  6位
6.デトロイト 6/23  優勝  リタイア
7.フランス 7/7  2位  予選落ち
8.イギリス 7/21  リタイア  リタイア
9.ドイツ 8/4  12位  6位
10.オーストリア 8/18  リタイア  リタイア
11.オランダ 8/25  リタイア  6位
12.イタリア 9/8  リタイア  11位
13.ベルギー 9/15  4位  2位
14.ヨーロッパ 10/6  3位  優勝
15.南アフリカ 10/19  2位  優勝
16.オーストラリア 11/3  優勝  リタイア

この年のホンダは大忙しであり、わずか一年間の間にいくつもの大きなヤマ場がありました。
まずは既に見た新型エンジンを巡る組織内の対立で、これが解決したのが6月の第5戦カナダGP、そしてそのエンジンで初勝利を収めたのが翌週の第6戦 デトロイトGPでした。

これでエンジンの問題は片付きましたが、古い世代の生き残り現場監督 土師(はじ)さんの引退問題がその後もチーム内に混乱を残し、これが解決したのが8月18日のオーストリアGP直前でした。同時にF-1番長 川本さんも正式にF-1部隊からの引退を宣言したのは前回見た通り。

こうしてホンダ側の体制が整うと、今度はウィリアムズの抱える問題が明らかになって来ます。まずはドライバー問題。
エースドライバーだったロズベルグがシーズン途中、デトロイトGPで優勝した辺りから翌年の契約金を倍額にするよう要求し始めたのです。

1982年の元ドライバーズチャンピオンとはいえ、先にも見たように、この段階までにわずか4勝しただけに過ぎず(1985年最終戦でもう一勝して生涯5勝で終わる)、この要求は法外でした。そもそもウィリアムズにそんな予算は無く、ホンダに金銭的援助を求めるのですが自己主張が激しい上にテストにも協力せず、セッティングをする際にも整備員とまともにやり取りができないロズベルグを桜井さんは嫌っており、これを拒否します。ちなみに川本さんの評価も低かったようです。

この結果、ロズベルグは三度のドライバーズチャンピオンを獲ったニキ・ラウダが引退してシートが一つ空いた名門、マクラーレンに移籍を決めてしまいます。これが土師さんの引退問題でホンダが混乱していた第10戦オーストリアGP直前の事であり、ホンダも大変ならウィリアムズのドライバー問題も大変というのがこの8月だったのです。

ただし幸運にも同時期に1981年と83年の二度のドライバーズチャンピオンを獲っていたブラジル人ドライバー、ネルソン・ピケ(Nelson Piquet Souto Maior)がブラバムチームとの契約切れを迎えながら、移籍先を探してました。実はこの段階で戦闘力を失いつつあったブラバムとBMWエンジンに見切りをつけたピケは一度、マクラーレンと契約直前まで至りながら、これを蹴っています。その結果、マクラーレンはロズベルグをウィリアムズから引き抜き、このため、ピケの立場は宙に浮いてました。

一説によると弁護士や交渉人を雇わず、全ての契約を自分でやっていたピケはマクラーレンが用意した分厚い契約書を見て「読むのが面倒だ」という前代未聞の理由でこれを蹴ってしまったという伝説があります(笑)。どうも事実ではないらしいのですが(それ以外にも理由があった)、実際にやりそうなのがピケと言うドライバーでした。

とりあえず、この段階でロズベルグの空席を埋めるにはピケが最適な人材だったのですが契約料が高くウィリアムズは躊躇します。
が、以前からピケを高く評価していた桜井さんは、ピケを獲るならホンダも資金援助をする、という条件を提示、この契約を後押しするのです。この結果、1987年にホンダに初めてのドライバーズチャンピオンをもたらす男がウィリアムズにやってくる事になったのでした。
その契約が発表されたのがオーストリアGPの事であり、この8月のオーストリアGPは、ホンダにとってもウィリアムズにとっても大きな節目となったわけです。

ちなみにマクラーレンに移籍したロズベルグは翌1987年は一勝もできずに引退に追い込まれました(同僚のプロストは4勝の上、これまた伝説の最終戦オーストラリアでマンセルを逆転してドライバーズチャンピオンを決めている)。 まあ、そこまでのドライバーだったと言っていいでしょう。

ついにでに息子のニコ・ロズベルグも2016年のドライバーズチャンピオンを獲っており、グラハム・ヒル(1962、68)、デーモン・ヒル(1996)に続く親子でのドライバーズチャンピオン一家だったりします。


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