1983年、15年ぶりにホンダがF-1に参戦を果たした車、スピリット ホンダ 201C。

スピリットはもともと前年の1982年にホンダがF-2参戦のために設立したチームです。ただし、その戦績がイマイチだった上に常に全力で戦う事を求めるF-1番長 川本さんの主義に反し、どこかビジネス的で、死んでも勝ちたい的な意欲が感じられないチームでした。このため川本さんは、早い段階でこのチームの存続に見限りを付け、翌1983年はF-2には参戦させずF-1エンジンを搭載するための車の製造を命じたようです。エンジンテストを目的とした参戦という位置づけだったため、エントリーは一台のみとなってます。
ちなみに川本さんによると最初からこの年一杯でホンダはチームの運営から手を引く前提だったのですが、スピリット側にはホンダと手を切った後も独自に84年のF-1に参戦する計画があり、実際にハートエンジンを搭載して84年のF-1に参戦しています。

この201Cは7月の第9戦イギリスGPから参戦を開始、年間15戦だったこの年の第14戦まで計6戦を走り、第12戦のオランダで7位に入ったのが最上位の戦績となりました。最終戦の南アフリカGPを走ってないのは、翌年からホンダエンジン搭載が決まっていたウィリアムズが少しでも早く慣れたい、という事でそちらにエンジンを回した結果、スピリットの出走が取り消されたため。この結果、シーズン終了を待たずにチームは解散という、なんとも中途半端な存在に終わりました。

もっとも15年ぶりのF-1となったホンダエンジンもまだまだトップチーム相手に戦える状態ではなく、参戦直後から二戦連続リタイアというあまり褒められたものではないデビューを飾り、結局6戦中完走は3戦のみ、つまり半分はリタイアという成績に終わります。完走したレースの戦果も7位、12位、14位と正直パッとしないものでした(当時は6位までが入賞だったので獲得ポイントは0)。なんかこの辺りの不安定さは第一期時代から変わってないな、という感じで、この辺りが完全に修正されるのは1985年途中に例の新世代ターボエンジンが投入されてからになります。

そんなあだ花的な存在、201Cをざっと見て置きましょう。



コレクションホールで展示されててるのは第13戦 イタリアGP仕様の201Cとされます。スピリットは一台しかエントリーして無かったので、ゼッケン40番を付けたヨハンソン車以外、存在しません。
なんでこの車トリコロールカラーなの、というとこれがホンダのレーシングチームのシンボルカラーだからですが、当時の写真を見る限り、レースごとにかなり塗装が変っています(最初の二戦は第一期F-1を連想させる真っ白い塗装だった)。この辺り、大口のスポンサーがつかなかったので、塗装は好き勝手にやっていたようです。

1983年ごろだと、まだまだ車のレギュレーション(規格)はそれほど細かくなく、チームごとにかなり個性的な車を走らせていましたが、スピリットのマシンはごく平均的な、悪くえいば何の特徴も無い平凡なデザイン、という感じでしょうか(ただし後で述べるように最後の最後にスゴイ改造をやるんだけど)。構造も当時としては標準的なアルミハニカムのモノコック、前後ともごく普通のダブルウィッシュボーンサスペンションとなっています。よく見るとフロントのサスペンションカバーからラジエターの空気取り入れ口まで謎のフィンが付いてたり、同じようなものが車体下部にもあったりと、それなりに工夫はしてるようですが、全体的にカクカクしており、洗練されてるとは言い難いものがあります。

ちなみにこの車の設計を行ったのは1972年ごろから1980年まで、すなわちほぼ1970年代を通じてマクラーレンのF-1を設計していたゴードン・コパック(Gordon Coppuck)でした。彼はマクラーレンを去った後(ロン・デニス一派の登場で追い出された)F-2のマーチチームに在籍してそれなりに優秀なマシンを設計しており、1982年からホンダ傘下のスピリットに引き抜かれたのでした。

1970年代のマクラーレンはすでにトップチームの一つでしたから、彼は間違いなく優秀なF-1デザイナーの一人でした。実際、70年代中盤における傑作マシン、マクラーレンM23を設計したのは彼です。M23は1974年にコンストラクター&ドライバーの両チャンピオンを獲得、2年後の1976年にもまだ現役でジェームス・ハントがドライバーズチャンピオンを獲ってます(コンストラクターチャンプはフェラーリに敗れた)。さらにインディーカー用に彼が設計したM16は1974年と1976年にアメリカを代表するインディ500レースで優勝しており、才能のあるデザイナーではあったのですが…。

川本さんがコパックをスピリットに招き入れたのはそこら辺りの才能を期待してのはずだったんですが、80年代には完全に時代遅れになっちゃってたなあ、という印象はぬぐえません。 もっともこの車は予算、時間の都合から、前年のF-2を基に設計されたもので、その辺りの制約もあったのだと思いますが。

 

後方から見る。
後部ウィングは中央に垂直の支柱があるタイプではなく、左右の垂直板で直接支えるタイプ。ウィングの下に見えてる銀色の太いパイプはウィングを車体に固定するためのモノ。そのパイプの上に見えてる銀色の四角い箱は恐らくミッションオイルクーラーだと思いますが詳細は不明。
第一期の時代に比べると狂気のように太くなってるリアタイヤにも注目。このエンジンでもすでに600馬力を超えており、60年代の1500tマシンに比べると3倍近い馬力の回転を受け止め、地面に伝えるにはこういった幅のタイヤが必須だったわけです。

ちなみにスピリットにとって最終戦となった第14戦 ヨーロッパGPではこのウィングの前にもう一つ巨大なリアウィングを付ける、すなわち二重リアウィングと言う豪快な改造をやってました。どう見ても気流が滅茶苦茶になりますから果たして効果はあったのか、というか、それ以前の問題として規則違反じゃないの、と思っちゃうところですが、当時はまだまだその辺りのレギュレーションが緩やかだったんでしょうかね。キワモノというか珍車に近いマシンでしたが、どうせならあっちを展示してほしかった、と思ったり。



運転席周り。アルミ地剥き出しの武骨なモノとなっております。運転席後部の黒い棒組は転倒してひっくり返った時、ここで車体を支えてドライバーを押しつぶさないようにし、かつ脱出の空間を確保するためのモノ。その下に見えてる銀色の箱は電装系の部品だと思うんですが確証は無し。



エンジン周り。レースごとにこの辺りの構造はかなり変化があったのですが、基本的にエンジンは完全にむき出しでした。
さすがに1983年になってエンジンカバー無し、という設計は古臭いを通り越して完全な無策であり、もう少し何とかならなかったのか、という気も。まあそもそも勝つ気はない、実験用車両ではあるんですが。

運転席両脇のサイドポンツーンの格子(スリット)から銀色のラジエターが見えてます。この辺りのラジエターの空気抜きの構造もカバーにスリットを開けただけ、というこの時代としては完全に時代遅れと言うか、ほとんど手抜きに近いもので、コパック、ここまで堕ちたか…と思わざるを得ない部分です。
そのスリット部の後ろで上に飛び出してる筒は左右に分散配置された二つの排気タービンの吸気口なんですが、なぜか左右で形状が異なります。しかも左側のはわざわざ後ろ向きで速度による吸気圧を稼ぐのを放棄してます。この理由は全く不明。当時の写真を見ると、左右とも同じ形状(右側の短いもの)にも見えるのですが…

ついでに、先に見たようにホンダターボは日本のIHI製排気タービンで戦うのですが、当初はこれが間に合わず、西ドイツのKKK製(よく考えるとスゴイ名前だなこれ…)のものを搭載していたようですが、どの段階で切り替えたのかはよく判らず。

といった辺りで、今回はここまで。次回はいよいよ黄金期その1、ウィリアムズホンダ時代のマシンを見て行きます。


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