前回も見たように、ホンダは国際レース復帰にあたり、1980年にヨーロッパF-2への参戦を開始、その後1983年途中からF-1に進出と言う段取りを取りました。そのヨーロッパF-2では5年で3度のチャンピオンエンジンを獲得と言う強さを見せたわけです。再度、1984年までの展開を確認しておきます。



当時のF-2のエンジン規定は2000t以下 6気筒以下の自然吸気エンジンであること、でした。そしてライバルのというか、事実上、F-2の標準エンジンだったBMWのM12系エンジンは直列4気筒のレイアウト。対して川本さんが設計したのはホンダのお家芸、多気筒V型でV6DOHC4バルブというモノになり、以後、初期のF-1までこの基本設計を引っ張って戦う事になります。

ちなみに並行して日本で開催されていたF-2はヨーロッパで中止になった後も1986年まで続いてました。ホンダはこちらにも1981年から参戦、以後、1986年まで6年連続でチャンピオンエンジンとなっています。

この川本さんの基本設計によるV6 2000tエンジンはイギリスのシルバーストーンで開催された1980年ヨーロッパF-2第6戦、第一回マルボロ杯(I Marlboro Trophy)でデビューしたものの、初戦はリタイアに終わりました。
ちなみにこの時現場にいたホンダ関係者は、応援に来た中村初代F-1監督、以後も現地監督となる整備責任者の土師(はじ)さん、そして二人のメカニックのみでした。F-1番長川本さんは本業が多忙でイギリスに飛べず、エンジン設計した市田さんはよりによってこのタイミングで結婚(笑)、ハワイに新婚旅行にいってしまっていたのです。ある意味、ホンダのF-1デビューだった1964年のドイツGP並みにさみしい人員と言う状況であり、当時のホンダのレーシングチームの活動レベルが感じられるところです。まあ、ここから世界制覇しちゃうんだから、大したものでしょう。ただし、ホンダの国際レース復帰は研究所内ではかなり注目されていたようで、この頃から所内にいくつもF-2のポスターが貼られていたそうな。

すでに書いたように初年度のドライバーはあのナイジェル・マンセル(Nigel Ernest James Mansell)で、この年の彼はロ-タスF-1チームのテストドライバーと兼任での参戦でした(翌年からロータスの正規ドライバーに昇格)。後のF-1、そしてアメリカのCARTのチャンピオンとなる彼をしてもこの年のラルト・ホンダは計4戦走ってリタイア2回、5位1回、2位1回という成績が限界でしたが、初年度は試験走行と割り切っていた川本さんはそれほど焦らなかったようです。
余談ながら、もし翌年までマンセルがラルトに残留していれば、F-2チャンピオンになっていた可能性が高く、そうなるとあの“F-2チャンプはF-1では活躍できない”ジンクスがどうなっていたか、ちょっと気になる所ではあります。

ちなみに引退済みだった本田宗一郎総司令官ですが、レース部門の責任者が良く知る川本さんだったため、遠慮なしに文句をつけて来てたそうな。このため、ちょっとでも勝てない時期にはすぐに電話が掛かって来て、なぜ勝てない、あんなドライバーはクビにしろ、と怒鳴りつけられたのだとか。変わりませんね、この人は(笑)。

後にもう少し若い桜井さんが総監督になると、面識はあっても直接殴ったり、スパナを投げつけたりした相手ではない世代なので(笑)、本田宗一郎総司令官も遠慮したらしく、桜井さんの回想を見る限りちょっと調子のいい、人のいいおじいちゃん、という感じで述べられてる事が多いです、総司令官。まあ、間違ってもそんな人ではないんですけどね。

ついでに同じく現場を退いて相談役になっていた中村元監督はもっと冷静ながらも、やはりしょっちゅう川本さん宛にレースに関する手紙を寄こしたそうで、こういった人たちがホンダのレースを支えていたんだなあ、と思ったり。すなわち本気でレースをやって、死ぬほど勝ちたいと思っていた人たちです。ただしそういった雑音を一切無視できる神経を川本さんが持っていたのも大きいと思いますが(笑)。

そしてF-2参戦二年目、翌1981年は二台体制で挑みます。ドライバーはサックスウェルとリース。
当初はエンジンの基本設計はいじらず、昨年から細部の変更をしただけでしたが、いきなり第1戦のシルバーストーンで弱冠19歳のサックスウェルがポール トゥー ウィンで優勝(予選でポールポジションを獲得、そのまま勝利)を決めてホンダ関係者を歓喜させます。が、以降の中低速型サーキットではホンダエンジンの悪い癖、全開走行の高回転時は速いが一度でもエンジン回転数が落ちるとなかなか上がらない、よって加速できない、という問題が出始めます。この辺りは第一期F-1と全く同じ欠点であり、その世代の設計屋だった川本さんの限界だった、とも言えます。このため初戦で優勝、第2戦で三位入賞を果たしたものの、以後は全く勝てず第3戦から5戦まではリタイアと5位2回と散々な成績に終わります(さらにこの間、サックスウェルは骨折で欠場、もう一人のリースが単独で走っていた)。その後、第七戦でライバルが次々と脱落して幸運な一勝をあげたものの、次の第8戦では再び全車リタイアに終わるのです。

これに危機感をもった川本さんは、既に市田さんにその改良を命じていました。本人はホンダの研究所の副社長への昇進が決定しており、とてもエンジン設計をしている時間が無かったからですが、ここからホンダのエンジン開発はいよいよ新世代、第二期エンジン設計のエース、市田さんによる改良、設計の時代の第一歩を踏み出すのです(ただし後に一度、レジェンドの開発のためレース開発チームから外れるが)。

結局、この時の市田さんは一カ月以上イギリスに滞在してジャッドなどのエンジンメーカーを見学して改良のヒントを探し、帰国後に吸排気系を大幅に改良して低回転域での反応を良くする事に成功します。8月の第9戦、ベルギーの名物コース、スパ・フランコルシャンのレースからこのエンジンを投入するといきなり優勝、以後4戦2勝、2位2回と圧倒的な強さを見せ、ジェフ・リースがこの年のF-2チャンピオン ドライバーとなりました(リースが3勝、骨折で途中欠場してた同僚のサックスウェルが1勝。ちなみにサックスウェルこの後もチームに残留、後に1984年のラルト・ホンダでチャンプを獲る)。

ちなみにこの時期、1981年の夏ごろから川本さんに代わり、実務面でレース部門を監督する事になったのが、エンジンテスト室のマネージャーだった宮本清さんでした。後に1983年秋に体調の問題から引退するまで、この人が設計の現場を、すでに紹介した土師(はじ)さんがレースの現場をそれぞれ監督して行く事になります。ちなみにこの役割分担を徹底したのか、宮本さんは常に日本に居て現地に全く入らない、というホンダの歴代監督の中では極めて異例な存在となり、後にこれが川本さんの逆鱗に触れ、1983年に事実上のヨーロッパ放浪に追い出される事になります…(その途中で体調の問題から呼び戻される)。



その1981年からホンダは日本のF-2レースにもエンジンを供給し始めました。ちなみに1981年の日本のF-2レースは年間5戦と極めて少なく、全戦鈴鹿サーキット開催、という特殊なものでした。どうも日本のレース業界内のゴタゴタがいろいろあったようなのですが、ここでは取り上げませぬ。

1981年の日本F-2にも当初はラルト製シャシーが持ち込まれたのですが、5月の第2戦からはマーチ社製の既製品に切り替えられました。コレクションホールで展示されてるのは、はそのマーチ製シャシーに切り替えた第2戦以降のマシン、マーチ812 ホンダ。何度か書いてるように、ここの展示で唯一のウィングカーでもあります。ついでに展示解説には1981年に4戦2勝と書かれてますが、これはこのマーチ812の戦績であり、ホンダエンジンはラルトのシャシーを使って勝てなかった第1戦を含めると5戦2勝しかしてませんので注意。

ちなみに鈴鹿も高速サーキットでは無い、中低速が必要なカーブの多いサーキットですから、当初のエンジンでは全く勝てませんでした。結局、9月27日の第4戦から例の新しい吸排気系となったエンジンが持ち込まれて日本初勝利を決め、次の最終戦でも連戦で優勝、この年のチャンピオンを獲るのです。ちなみにこの年のチャンプとなったのは中島悟さん、後の日本人最初のF-1ドライバーですが、私のこの人に対するレーシングドライバーとしての評価は地の底より低いので、以後、記事中ではほとんど無視します。この点はご了承のほどを。

そして翌1982年の全日本F-2でも中島さんが第3戦までこのマシンで走り2勝。この年は富士スピードウェイでの一戦が復活、全6戦となっており、残り3戦はマーチ822に車体を変更してやはり2勝、最終的に6戦4勝でホンダエンジンと中島さんが二年連続チャンプを獲ってます。ちなみにこの年の全日本最後の2戦にスピリット ホンダチームが後のF-1ドライバー、ステファン・ヨハンソン(Stefan Johansson)を擁して参戦、2位と3位を獲得して終わってます。



F-1に比べると フロントウィングは一枚板の単純な構造、リアウィングも小さいなど、ダウンフォース(降力)による接地圧は低めだな、というのが見て取れます。それだけコーナー速度が低かった、という事なんでしょう。

ほとんど日本で売れてないはずのイギリスのJPSタバコがスポンサーについており、モータースポーツファンにはお馴染みの黒字に金文字のJPSマシンとなっています。後にウィリアムズ・ホンダでもスポンサーになるキャノンの名前も見えてますが、メインスポンサーのJPSに合わせて金色にされてしまってます。
F-1のロータスチームが1970年代以降、長らくこのカラーだったので、日本のレーシングチームがこういったマシンを走らせてると、日本のプロ野球チームのユニフォームのような最低な猿まねデザインか、日本人らしいな、と思っちゃうところですが、これはスポンサーの意向によるものなのでした。

ヨーロッパF-2の末期にはホンダとラルトに敗れ去った当時の世界標準シャシー製造会社、マーチですが(ヨーロッパF-2 ではマーチ自らがチームを組んで参戦してた)、日本では意外にもそのホンダエンジンと組んで全盛期を築いていてます。まあ強いというよりも、ほとんどのチームがマーチで走っていた、という形の全盛期なんですが。パーツの供給、そしてメンテナンスの都合で他の選択肢はほとんどなかったのです。
実際、翌1983年には1981年のヨーロッパ F-2チャンプ、ジェフ・リースが日本のF-2でもホンダエンジンでチャンプを獲るのですが、当初はラルトのシャシーで出走しながら、これも途中からマーチのシャシーに切り替えてしまってます。以後1986年の最終年まで、チャンピオンマシンは全てマーチのシャシーにホンダのエンジンの組み合わせとなるのでした。

ちなみにリースは唯一、日本とヨーロッパの両方でF-2チャンピオンを獲ったドライバーです。というか、全日本F-2時代に日本人以外でチャンプを獲ったのはこの人だけなんですが。


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